[1973年 – 1974年]
アフリカ南部編 1 パース[オーストラリア] → ポートルイス[モーリシャス]
「さらば、オーストラリアよ」
西オーストラリアのパースの空は真っ青に晴れ渡り、乾燥気候特有の乾いた風が肌に心地よかった。目抜き通りには近代的なビルが立ち並んでいる。伸び伸びした明るい感じの都市だ。
「パース→ヨハネスバーグ」の安チケットを探して、そんなパースの中心街にある何軒もの旅行社をまわった。その結果、「サマーランド・トラベルセンター」で「パース→ヨハネスバーグ→ロンドン」のチケットを1000USドル(26万円)で買った。大きな出費だが、こればかりは仕方ない。なぜ「パース→ヨハネスバーグ」ではなく、「パース→ヨハネスバーグ→ロンドン」にしたかというと、それほど料金が変わらなかったからだ。
このチケットは1年オープンでストップオーバー(途中降機)もできるという。それを最大限に利用してやろうと考えたのだ。さっそく「パース→ヨハネスバーグ」間では、インド洋上のモーリシャスとフランス領レユニオン、それとマダガスカルに立ち寄ることにし、同じ英連邦の一員ということで、パースのイミグレーションで、モーリシャスのビザを発給してもらった。こうして1973年12月13日、パース国際空港から20時15分発のSA(南アフリカ航空)241便に乗り込んだ。
飛行機が離陸すると、小さな窓に顔をこすりつけるようにしてパースの町明かりを見た。やがてパースの外港フリーマントルの上空にさしかかる。埠頭に接岸している船、港外に停泊している船の灯が点々と見える。フリーマントルの町明かりが遠ざかると、飛行機は明かりひとつない、暗いインド洋上へと出ていった。
「さらば、オーストラリアよ」
アフリカへの熱き想い
SA241便の機内でぼくは、間近に迫ったアフリカに興奮していた。アフリカの地図を広げ、くいいるように見つづけた。今回の「六大陸周遊計画」にしても、まず最初にアフリカがあって、アフリカを世界の中心に置いて考えた計画だ。アフリカは、ぼくにとっては自分自身の生きることのすべてといってもいいようなところなのだ。
最初のアフリカの旅は1968年4月から1969年12月までの20ヵ月間でアフリカ大陸を一周した。このときはアフリカの33ヵ国をまわった。20歳の旅立ちで、アフリカで目にするものすべてが新鮮に映った。夜になると村々に転がり込んで泊めてもらい、アフリカ人のあたたかな心にふれることがたびたびだった。高熱に倒れ、下痢に苦しむ日々がつづいたようなこともあったが、心の中はいつも満たされ、ぼくはすっかりアフリカに魅せられた。
2度目は1971年8月から1971年9月までのアフリカを中心とした「世界一周」で、アフリカの13ヵ国をまわった。一番の目的はサハラ砂漠の縦断。アラビア半島を横断してアフリカに渡り、サハラ砂漠は3本のルートで3度、縦断した。焼けた砂の上を飄々と裸足で歩き去っていくサハラの遊牧民には心底、驚かされた。サハラでは人間の持つ強靱なまでの生命力をまのあたりにした。
これら2度の旅では、広大なアフリカ大陸を懸命になってバイクで駆けたが、1人の人間がどんなにがんばっても、まわりきれるものではない。そうとはわかっていても、ぼくはすくなくとも大陸内のすべての国には足を踏み入れようと今回の3度目の旅に出た。アフリカをトコトンまわってみたいのだ。
そんなアフリカへの熱き想いをめぐらせているうちに、いつしか深い眠りに落ちていった。
「まもなくモーリシャス島のプレゾンス国際空港に着陸します」
というアナウンスで目が覚めた。
最初は南アフリカの公用語のアフリカーナで、次が英語でのアナウンスだった。
モーリシャスに到着!
モーリシャスに着いたのは、現地時間の22時40分。パースとは4時間の時差があるので、6時間25分の飛行。オーストラリアから5000キロ以上も離れているモーリシャス島だが、なにか、あっというまに着いたような気がする。
入国手続きは簡単に済み、ターミナルの外に出る。気温25度。プレゾンス空港のあるプレゾンスは島の南東に位置し、あたりには明かりひとつ見えない。首都のポートルイスは島の反対側の北西に位置している。
空港の両替所はすでに閉まっていて、タクシーの運転手が両替してくれた。4オーストラリアドルが28モーリシャスルピー。運転手はポートルイスまで乗っていけとしつこく誘ったが、ぼくも負けずにしつこく断りつづけ、暗い夜道を歩き始めた。
モーリシャスは南緯20度、東経57度にあるモーリシャス島と周辺のロドリゲス島および小島群から成っている。旧英領で1968年3月12日にアフリカで40番目の独立国として誕生した。面積は1843平方キロ。沖縄本島に淡路島を足したぐらいの大きさ。人口は86万人。人口密度は1平方キロ当たり400人を超え、アフリカの中では飛び抜けて高い。
モーリシャス島は古い火山島で、周囲は珊瑚礁で囲まれている。島は水に恵まれ、土壌が肥沃で、島のどこにでも人が住むことができる。そのせいか、それほど人口が密集しているようには見えない。南回帰線の北側にあるこの島は、年平均気温が23度とまさに南海の楽園。ただし熱帯性低気圧のサイクロンの通り道で、島特産のサトウキビが大きな被害を受けることもある。
アフリカ最初の野宿
空港から大分、歩いた。月明かりの夜で、時々、月を隠すように細い雲がスーッと流れていく。道路沿いには点々と集落がつづき、歩いていると、何度も犬に吠えられた。
「もう、寝よう」
集落を抜け出たサトウキビ畑のわきにザックを下ろし、シートを広げ、シュラフを敷いた。きれいな月を見上げながらの、なんとも優雅なアフリカ最初の野宿だ。
目をさましたのは夜明け前だった。いやに顔が冷たいと思ったら、ポツポツ雨が降っていた。急いでシュラフとシートをたたみ、ザックに詰め込み、出発。夜が明けるとポートルイスの市場に行くのだろう、野菜を満載にしたトラックが3台、4台とたてつづけに通ったが、ヒッチハイクは成功しない。
平坦なサトウキビ畑から丘陵地帯に入っていく。そこは茶畑になっている。雨が激しくなり、濡れながら歩く。バスが来たので飛び乗った。島の中央のキュアピプ行きのバス。キュアピプまではなんと15セントだという。モーリシャスの通貨はルピーで、100セントが1ルピーになる。1ルピーは約60円なので、15セントというと10円ほどでしかない。モーリシャスはバス交通が発達している。料金がきわめて安いことがわかり、これ以降、ヒッチハイクはやめにしてバスでまわることにした。
雨はいよいよ激しくなった。オンボロバスで、雨が車内に入り込み、座席はすっかり濡れてしまう。キュアピプはモーリシャス第2の町。バスターミナルに着くと、ポートルイス行きのバスに乗り換えた。ポートルイスまで30キロほどあるが、料金は65セント(約40円)。安いのでうれしくなってしまう。
なつかしのポートルイス
ポートルイスが近づくと雨はやみ、日が差してきた。ギザギザした形のピエテ・ポト山(823m)が見えてくる。なつかしい。なつかしさのあまり、胸がギューッと締めつけられる。あのポートルイスの山だ。
1968年4月12日、ぼくは友人の前野幹夫君とオランダ船「ルイス号」で横浜港を離れ、アフリカに向かった。横浜を出てから名古屋、神戸、釜山、香港、シンガポール、ポートセッテンハム、ペナンと寄ってインド洋を南下した。マレーシアのペナン港を出てからというもの、陸地はおろか、船の影さえ見ることはなかった。目に入るものは大海原だけなので、なんとも退屈きわまりなかった。
ペナン港を出港してから9日目、目をさますと「ルイス号」はモーリシャス島のポートルイス港の沖に停泊していた。ポートルイスの町越しの、この独特の形をした山並みが目に入り、それがぼくにとって最初に見たアフリカの風景になった。そんなこともあって特別に印象深かい。急いで前野を起こし、甲板で2人して陸地を見ることのできた喜びにひたった。そのときはモーリシャス島を1日しかまわれなかったが、こうしてバスがポートルイスに近づくと、5年以上も前の思い出が鮮やかに蘇ってくる。
ポートルイスを歩く
バスはポートルイスのバスターミナルに着いた。町をあちこち歩きまわる。歩きまわったところで朝食。露店でバナナを5本とマーガリンを塗ったパンを買った。両方合わせて25セント(約15円)。とにかくモーリシャスの物価は安い。貧乏旅行者にとってはこれほどありがたいことはない。目の玉が飛び出るほど何でも高いオーストラリアからやってきたので、モーリシャスの物価の安さはひときわ際立った。
もっとも物価が安いとはいっても、ぼくのように外からやってきて外貨でルピーに両替したときに感じることで、モーリシャスの人たちは決して物価が安いとは思っていない。人口密度が高く、サトウキビの栽培以外にこれといった産業のないモーリシャスなだけに失業率は高く、賃金も安いからだ。
それはおいて、とにかくうれしくなってしまう。オーストラリアでは1ドルではたいしたものは食べられないが、モーリシャスでは同じ1ドルで1日3食、満腹になるくらいに食べられた。ちょっと我慢すれば3、4日分の食費になった。
市場も歩いた。大勢の人たちでごったがえし、それはにぎやか。豊富な野菜や果物がモーリシャスの自然の豊かさを感じさせた。
モーリシャスのバス旅
ポートルイスを拠点にしてバスで島をめぐった。最初は島の北東にあるパンプレモスのボタニカルガーデンへ。きれいに手入れされた熱帯の植物園。濃い緑が目にしみる。池には直径2メートル以上もある大オニバスが浮かび、人が楽に乗れるくらいの海ガメが何匹もいた。ボタニカルガーデンの草の上で寝ころんでいると、「遠い南の島にやってきた」という気分にさせてくれる。
バスでさらに北へ、グッドランズまで行く。ゆるやかに起伏したサトウキビ畑の中の道を走る。どこを向いてもサトウキビ畑。グッドランズでバスを乗り換え、今度は南に下ってサントルドフラクへ。風景にあまり変化はない。サトウキビ畑の中に製糖工場が見えた。
さらにバスに乗り継ぎ、モカ経由でオージルへ。この町の教会で泊めてもらった。教会に遊びに来ていた中国系のフィリップという少年に話しかけられた。彼はハイスクールに通っているが、卒業したら「日本で働きたい」という。モーリシャスの就職難は厳しいもので、ハイスクールを卒業しても、なかなか就職できないという。彼は「トヨタで働きたい」とさかんにいった。もう1人、クレオールのロジャーという少年も来た。フィリップは英語を話せるのだが、ロジャーはクレオール・フレンチ(土着のフランス語)しか話せない。そこでフィリップが通訳してくれたが、やはりロジャーも「日本で働きたい。何とか日本で働けるようにしてほしい」とぼくに頼みにきたのだった。2人の少年に何もしてあげられない自分に情けない…。
モーリシャスのクレオール
ところでクレオールはモーリシャスや西インド諸島、南米などで生まれたヨーロッパ人の子孫のことだが、モーリシャスでは混血もクレオールといってるようで、ロジャーは混血だった。ロジャーとはフィリップに通訳してもらいながら話したが、彼と話しながら気づいたことがある。モーリシャスは旧英領であるのにもかかわらず、英語よりもフランス語、もしくはクレオールのフランス語の方がはるかに通用するようだ。地名も英語よりもフランス語の地名の方が多い。
モーリシャス島はフェニキア人にその存在が知られていたといわれ、また昔からアラビア人航海者が訪れていた。ヨーロッパ人によって最初に発見されたのは1508年。ポルトガル人のマスカレナが上陸したときは無人島だった。1598年にはオランダが領有し、モーリシャスという名前は時の皇太子マウリッツに由来するという。1715年にはフランス領になり、フランス時代が100年近くつづき、1810年から独立するまでがイギリス領だった。モーリシャスでフランス語がよく使われるのは、その100年近いフランス時代の影響なのだろう。
フィリップとロジャーが帰ると、教会の警備員のルイス・ラベレさんが一緒に食べようといって夕食をもってきてくれた。翌朝もコーヒーとトースト、ゆでたまごをもってきてくれた。ラベレさんにお礼をいって出発。バスターミナルでポートルイス行きのバスに乗った。イギリス風の真っ赤な2階建バス。上の階に乗る。見晴らしがいい。ボーバサンを通ってポートルイスへ。その間は家並みが途切れることはほとんどなかった。こうしてモーリシャス島の北半分をまわってポートルイスに戻ってきた。