[1973年 – 1974年]

オーストラリア編 07 テナントクリーク → パース

1日に960キロ走った!

 オーストラリア中央部のテナントクリークからスチュワートハイウエーを北へ。暑い。スズキ・ハスラーTS250で風を切って走っても、熱風をかきまぜているようで、よけいに暑い。テナントクリークから北に380キロ走ったドゥンマラでスチュワートハイウエーを左折し、トップスプリングスへの道に入っていく。ダート。交通量はほとんどない。乾いたダートだったので走りやすかった。途中で日暮れ。ダートのナイトラン。ドゥンマラから200キロ走ってトップスプリングスに到着。BPのガソリンスタンドで寝かせてもらったが、夜中に2度、3度と猛烈な雨が降った。

テナントクリークを出発
テナントクリークを出発
スチュワートハイウエーを北へ
スチュワートハイウエーを北へ
荒野には無数のアリ塚
荒野には無数のアリ塚
水をくみ上げる風車
水をくみ上げる風車
「フラッドウエーに注意!」の標識
「フラッドウエーに注意!」の標識
「グリッドに注意!」の標識
「グリッドに注意!」の標識
牧場と牧場の境のグリッド
牧場と牧場の境のグリッド
牧場と牧場の境のグリッド
牧場と牧場の境のグリッド
フライングドクターのモニュメント
フライングドクターのモニュメント
ドゥンマラからはダートを走る
ドゥンマラからはダートを走る

 翌朝は走りに走った。アボリジニースの町、ウエイブヒルを通り、ノーザンテリトリーからウエスタン・オーストラリア州に入る。その途端にダートの路面がラフになり、苦しい走行になる。ホールスクリークで国道1号に出たときは、ホッとした。ドゥンマラからホールズクリークまでの800キロ間は1台の車ともすれ違わなかった。恐ろしく交通量の少ない道だった。

 ホールズクリークからフィッツロイクロッシングまではナイトラン。ダート区間では、大きな水溜まりができている。そんな水溜まりのひとつに車がはまり込み、動けなくなっていた。その車には若いカップルが乗っていた。さっそく女性がハンドルを握り、ぼくと彼の2人が車の後ろを押した。車輪が空回りし、盛大に泥をはね上げるので、ぼくたちはたちまち泥まみれになった。だが苦労したかいがあり、車はすこしづつ進み、ついに大きな水溜まりから抜け出すことができた。若いカップルと一緒にフィッツロイクロッシングまで一緒に走り、夜明け前に着いた。

 トップスプリングスからフィッツロイクロッシングまで960キロ。シドニーを出発して以来、1日の走行距離としては最高になった。

「水、水、水…」

 フィッツロイクロッシングから1000キロ走り、インド洋岸の港町、ポートヘッドランドに到着。ここは世界でも最大級の鉄鉱石の積み出し港で、接岸している10万トン級の鉄鉱石専用船を何隻も見る。

ポートヘッドランドの鉄鉱石の積み出し施設
ポートヘッドランドの鉄鉱石の積み出し施設
ポートヘッドランド港に停泊中の鉄鉱石専用船
ポートヘッドランド港に停泊中の鉄鉱石専用船
ポートヘッドランド港からは塩も積み出す
ポートヘッドランド港からは塩も積み出す

 ポートヘッドランドからは海岸近くを走る国道1号を離れ、国道95号で内陸に入っていく。ここは焦熱地獄の世界。「オーストラリアで一番暑い町」といわれるマーブルバーに向かったが、その途中、ダートの振動で水を入れた容器が割れてしまった。不運はつづくもので、よりによって一番暑い時間帯に前輪がパンクした。

 炎天下のパンク修理のきついことといったらない。前輪を外し、タイヤをレバーでこじあけ、チューブを引っ張りだす。空気がもれている穴をみつけ、ゴムのりでパッチを張りつけ、タイヤをはめ込み、前輪を取り付ける。最後の大仕事はエアーポンプで空気を入れること。ふだんならどうということもないのだが、この焦熱地獄の中では死にものぐるいの作業になってしまう。パンク修理を終えたときは、暑さと渇きで頭がクラクラし、のどはひきつり、立っているのがやっとの状態だった。

 バイクに乗って走り出したが、水が欲しくてどうしようもない。「水、水、水…」と、何度も口の中で唱える。ポートヘッドランドからマーブルバーまでは200キロ。その間には町ひとつない。ところが天の助けか、ロードキャンプがあった。ロードキャンプというのは道路整備のキャンプ地で、ダンプカーやブルドーザー、ロードローラーなどが置かれている。もう、無意識のうちにそこに飛び込み、
「どうか、水を下さい!」
 と、頼み込んだ。

 するとありがたいことに、腹いっぱい、冷たい水を飲ませてくれた。生き返った!

 ところがマーブルバーに着くころには、またしても「水、水、水…」状態で、ひどいのどの渇きをおぼえる。町に着くなり、店に飛び込み、冷えたコカコーラをたてつづけに3本飲み、それでも我慢できずに、腹がダッボンダッボンになるくらいまで冷たい水を飲んだ。

ニューマンの大鉄山

 マーブルバーからさらに南下し、大鉄山のあるニューマンへ。

 ニューマンの鉄山は1969年のポートヘッドランド港への425キロの鉄道の開通と同時に操業が開始された。膨大な埋蔵量と品位(鉄分の含有度)の高さは、この鉄山を一躍、世界でも最大規模のものにした。

 鉄山を見たくて、ふらりと鉱山事務所を訪ねた。すると広報係のダグラスさんが鉄山のすみずみまで案内してくれた。ウェールバック(鯨の背)山のなだらかな斜面を削る大露天堀り鉱山では、75トンや120トン積みという巨大なダンプカーが行き来していた。オーストラリアではここだけにしかないという200トン積みのダンプカーも見た。

「このあたりを見てごらんなさい」
 といってダグラスさんが指さしたのは、青味を帯びた黒灰色の層だった。とくに鉄分を多く含んだ層で、含有量は60パーセントを超え、鉱石と鉱石をそのまま溶接できるほどなのだという。

ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山
ニューマンの大鉄山

 鉱山の見学をさせてもらうと、ダグラスさんは今度は鉱山町にぼくを連れていってくれた。つい数年前までは人一人住んでいなかった半砂漠の荒野に、忽然と現れた近代的な町。冷房の効いたバーで冷たいビールをいただきながら、さらにニューマン鉄山についての話を聞かせてもらった。

 ニューマン鉄山は「Mt.Newman Mining Co,Pty.Limited」社の所有で、この会社は世界的な鉱山会社、BHPの子会社になるという。1974年の生産量は3500万トンを予想しているという。

 昼になり、ダグラスさんに「食事でも」といわれ、彼の家に招かれた。奥さんと3人の子供たち。一番上の子はやっと小学校に入ったばかりだった。

 ダグラスさんも奥さんも、ともにイギリス人。ダグラスさん一家はキャンピングカーでロンドンを出発した。ヨーロッパを横断し、西アジアの国々を通り、インドからシンガポールに渡り、そしてオーストラリアにやってきた。

 何ヵ月にも及ぶダグラスさん一家のイギリスからオーストラリアまでの旅。その間の楽しかったこと、辛かったこと、怖かったことなど、いろいろと話してくれた。ぼくはそのとき、ダグラスさんがなぜ、これほどまで時間をさいてぼく1人のために鉱山を案内し、さらには昼食までご馳走してくれたのかが、わかったような気がした。同じ旅人としての仲間意識に違いないと思った。

 ダグラスさん一家総出の見送りを受け、ハスラーのエンジンをかけ、ニューマンを離れる。国道95号を南へ、南へと走ったが、胸の中にはいつまでもダグラスさん一家の面影が残った。

 その夜は国道沿いのトラックベイ(トラックのパーキングエリア)でゴロ寝する。ちょうど大型トラックの運転手たち何人かが集まって宴会をしていた。彼らに呼ばれ、一緒になってカンビールを飲み、バーベキューを食べるのだった。

パースに到着

 翌日もきつい一日。南回帰線を越えて熱帯圏から温帯圏に入ったとはいえ、ギラつく太陽は強烈。厳しい暑さとのどの渇きにダウン寸前。パラパラッと雨が降ったときは、ハスラーを走らせながら、雨滴を口に入れようと思わず口をあけてしまったほどだ。

 暑さ、乾きと戦いながらハスラーを走らせ、ダートの国道95号を南下。メカタラの町の手前で舗装路になったときは、「やったー!」と歓喜の叫び声をあげた。ここでは舗装路のありがたさが身にしみた。メカタラからさらに南下していくと、やっと厳しい暑さから解放された。

 ウービンを過ぎると、次々に町を通り過ぎ、パースが近いことを感じさせた。その夜も国道沿いでの野宿だったが、気温がガクッと下がり、夜中には寒さのせいで何度となく目がさめた。

 翌朝は冷え冷えとしていた。熱帯圏から温帯圏へと世界が変わったことを実感。パース手前のガソリンスタンドで給油し、ガソリンスタンド内でシャワーを浴びてさっぱりしたところで、パースの中心街へと入っていく。

 ハイストリートにあるスズキの代理店「モトロック社」へ。バッジさんをはじめ、「モトロック社」のみなさんには大歓迎された。「モトロック社」が電話したのだろう、パースのテレビ局がかけつけ、テレビカメラの前で走ったりして取材を受けた。そのあとバッジさんとレストランに行き、豪勢な昼食をご馳走になった。

 午後は「モトロック社」でタイヤ交換、チェーン、スプロケットの交換など、ハスラーの整備をしてもらう。新聞の取材を受け、それが終わると、バッジさんの部屋で缶ビールを飲みながら話した。仕事中にもかかわらず、何本もの缶ビールをあけてくれた。遠慮なくいただいた。

 ちょっと辛かったのは戦争の話。バッジさんは戦争では中東でドイツ軍と戦い、フィリピンのセレベス島では日本軍と戦った。

「日本軍は強かったねえ。今でも、よくセレベス島から生きて帰れたものだと思っているよ。あれは奇跡だ」

 バッジさんの胸の中に残る日本への憎しみはきっと消えていないと思うが、それを一切、口にはしなかった。

 その夜は「モトロック社」の若手社員、アンディーの家で泊めてもらった。アンディーは車でインド洋の港町、フリーマントルに連れていってくれた。海辺のレストランでシーフードの夕食をご馳走になった。パースに戻ると、市内を一望できる展望台できらめくような夜景を見た。アンディーの家に戻ると、久ぶりのベッドで寝た。なんの不安もなく寝られるありがたさをしみじみとかみしめるのだった。