[1973年 – 1974年]
オーストラリア編 06 シドニー → テナントクリーク
バイク編「オーストラリア一周」の開始!
11月6日の午後、シドニーのキャンベル・ストリートにあるスズキの代理店「HAZELL&MOORE」社でスズキ・ハスラーTS250を引き取った。「バンコク→バンコク」を走ったのと同じバイク。キック一発でエンジンがかかる。2サイクル特有のエンジン音が響く。体中がゾクゾクッと震えてくるほどだ。1971年から72年の「世界一周」に使ったのも、このハスラー250。その途中での「サハラ砂漠縦断」のシーンが蘇ってくる。
さー、バイク編「オーストラリア一周」の開始だ!。
最初は肩慣らしのつもりで、シドニーにも近いブルーマウンテン周辺を走るつもりだったが、ジョージ・ストリートを反対方向に走ってしまい、そのままハバーブリッジを渡って国道1号のパシフィック・ハイウエーを北へ。シドニーを離れるとまもなく雨。「出発したばかりだというのに…」と、少々、泣きが入る。
ニューカッスルに近づくと土砂降りになった。トホホホ…。
ニューカッスルからは内陸の国道15号を北上。雨に降られながら走り、その夜は314キロ走ったムスウェルブルックのエッソのガソリンスタンドの片隅で震えながら眠った。ヒッチハイクのときと同様、シュラフのみの野宿だ。
翌日も雲の多い天気。大分水嶺山脈(グレート・ディバイディング・レインジ)の山並みを見ながら走る。トムワースの町を過ぎると、ニューイングランド地方の標高1000メートルを越える高原地帯に入っていく。きれいな高原の風景がつづく。ハスラーで切る風は冷たく、ブルブルッと震えるほど。だが、幸いにも雨には降られなかった。
この地方の中心のアーミデールを通り、グレン・イネスを過ぎたところで、海岸地帯を南北に走るニューイングランド山脈の峠を越え、パシフィック・ハイウエーの国道1号に出た。ゆるやかな山並みが海岸近くまで迫っている。国道沿いに建てかけの家をみつけ、その中で寝たが、夜中に寒さのために何度も目がさめた。
ブリスベーンのベネットさん一家
ニューサウスウエル州からクイーンズランド州に入り、ブルスベーンに到着。スズキの代理店の「MAYFAIRS」社に立ち寄る。ここではみなさんにじつによくしてもらった。「テレグラフ」紙と「サン」紙の新聞2紙の取材も受ける。日本人ライダーの「オーストラリア一周」が珍しいのだ。昼食にはチャイニーズレストランで腹いっぱいにご馳走になった。午後はノエル・ベネットさんがブリスベーン市内を車で案内してくれた。郊外のブリスベーン川に面したローンパインのコアラ・サンクチュアリーにも連れていってくれた。コアラがかわいい。コアラを抱いたシーンを写真にとってもらった。コアラのほかにカンガルーやウォルビー、エミューなどもいる。
その夜はノエルの家で泊めてもらった。奥さんのパットはきれいな人。2歳を過ぎた女の子のポーリンがかわいらしい。そんなベネットさん一家との夕食は楽しいものだった。
翌朝はトーストとゆでたまごの朝食のあと、みんなと一緒にノエル家を出る。ポーリンを幼稚園で下ろし、奥さんをブリスベーン市内で下ろし、「MAYFAIRS」社へ。朝刊を見せてもらったが、ぼくのハスラーでの「オーストラリア一周」の記事が大きくのっていた。「MAYFAIRS」社には、スズキ本社の横山さんが来ていた。オーストラリア各地のディーラーをまわっているという。午前中、ハスラーの整備をしてもらい、昼食はスズキの横山さんにご馳走になった。オーストラリアならではのぶ厚いステーキ。昼食後、横山さんやノエルらの見送りを受けてブリスベーンを出発した。
恐怖の泥土!
ブリスベーンからは国道54号を西へ。大分水嶺山脈の峠を越え、トゥーンバ、ダービー、マイルスと通り、広大な乾燥地帯に入っていく。
国道沿いのファイヤープレースで野宿。翌日はローマ、ミシェルと通り、チャールビルから国道71号を北上。北に向かって走るにつれて天気が悪くなる。すでにオーストラリア北部は雨期に入ったという。大きな雲の下に来るとザーッと雨が降ってくる。
タンポ、ブラッカールと通り、国道66号に合流。ここで日暮れ。国道66号のナイトラン。カンガルーがひんぱんに道に飛び出してくる。イルフラコンベの町に着いたところで野宿。天気が回復し、満月がこうこうと照り輝いていた。この日は1日で936キロ走り、シドニーを出発して以来の1日の走行距離としては最高となった。
国道66号で鉱山都市のマウントアイザに向かう。ロングリーチの町を過ぎると、舗装が途切れ、ダートに突入。すでに雨期に入っているので、このダートにはやられた。ツルツル滑り、何度となく転倒…。ゆるやかな登り区間では10台ものロードトレインや大型トラック、タンクローリーなどが立ち往生していた。タイヤが空転し、そのゆるやかな登り坂を登れないのだ。
ぼくも大苦戦。泥土がフェンダーにつまり、まったく走れなくなってしまった。そこでフェンダーを外した。粘土質の泥で、バイクにからみつく。ハスラーはまるで大きな泥団子になったかのようだ。リアへの泥のつまりもひどいので、チェーンガードも外した。
泥沼にズボッとはまり込んだときは、にっちもさっちもいかなくなった。アクセルをふかしてもまったく歯がたたない。進むことも、戻ることもできなくなった。そこでは、やはり立ち往生していた大型トラックの運転手たちに助けられた。みんさん、泥まみれになってハスラーを泥の中から引きずり出してくれた。
すさまじい泥土との戦いが際限なくつづき、もうヘトヘト状態。それだけに、クロンカリーの町に着き、国道66号が舗装路になったときは心底、ホッとした。
蟻にやられた!
マウントアイザでは鉱山を見学した。ここは1932年に発見された大鉱山。鉛は世界最大の産出、銀はベスト3、銅はベスト10に入るという。鉱山事務所で見学の手続きをし、30分ほどの鉱山紹介の映画を見たあと、無料バスで広大な鉱山をぐるりとひと回りする。しかし残念ながら坑内には入れなかった。
マウントアイザからはコーモウエルを通り、クイーンズランド州からノーザン・テリトリーに入る。日が暮れる。夜道を走る。ここでも何度となく、カンガルーの飛び出しがあった。
ロードハウスで給油し、ハンバーグを食べ、さらにナイトランをつづける。真夜中に眠気に我慢できなくなったところで、国道わきの鉄塔下で野宿した。シュラフにもぐり込むなり、深い眠りに落ちていく。どのくらいたっただろうか、体がやけにチクチク痛むので、目がさめ、飛び起きた。
ハスラーのエンジンをかけ、ライトで照らしてみると、なんとシュラフの中は無数の蟻だらけ。そればかりか、ぼくの体中にまとわりついている。獰猛な蟻で、皮膚にくらいつき、ブランブランとぶら下がっている。これでは痛いはずだ。ぐっと我慢してそんな蟻をいっぴきづつ引き離し、やっと全部を取り終えた。
もうそこでは寝る気もしないので、しばらく走ったところで再度、野宿。地面をライトで照らし、蟻がいないのを確認してシュラフを敷いた。シュラフ内の蟻も全部、取り除いたが、鼻にツーンとくる臭いが残り、夜明けまでその強烈な臭いをかぎながら眠った。
またしてもエアーズロックを断念…
翌日は快晴。夜明けとともに走り出したが、雲ひとつない抜けるような青空を見ながら走っていると、蟻にさんざん痛めつけられた辛さもスーッと抜けていくようだった。ハスラーのエンジン音もいつも以上に胸に響いてくる。
オーストラリア縦断ルートのスチュワート・ハイウエーとの分岐点に出る。そこを左へ、テナントクリークの町へ。ここで給油し、パンのみの食事を終え、「さー、エアーズロックだ!」と、一度は世界最大の一枚岩のエアーズロックに向かおうとした。
だが地図を見て、テナントクリークからエアーズロックまでの距離を計算してみると、気が変わった。500キロ走ってアリススプリングスまで行き、さらに200キロ走った分岐点でスチュワート・ハイウエーを離れ、そこからさらに250キロを走ってようやくエアーズロックに着く。エアーズロックを見たあと、また同じ道を走ってテナントクリークまで戻ってこなくてはならない。片道1000キロ、往復で2000キロ。2000キロのガソリン代がぼくの気を変えたのだ。
ヒッチハイクのときは、ギリギリまでに削った食費だけで旅をつづけることができた。だが、バイクになるとガソリン代を削る訳にはいかない。ガソリン代を押さえるためには、走る距離を押さえなくてはならないのだ。
シドーニーを出発して以来、毎日の出費は1日5ドル前後だった。宿泊費はゼロ、食費にもほとんど使っていないので、その出費の大半がガソリン代と2サイクルオイル代ということになる。2000キロのガソリン代と2サイクルオイル代というと、20ドルぐらいはかかってしまう…。
「六大陸周遊」の旅はまだこれからアフリカ、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカとつづく。それを考え、泣く泣くエアーズロックを諦めた。ヒッチハク編「オーストラリア一周」にひきつづいて、バイク編での「オーストラリア一周」でも、エアーズロックに行くことができなかった。
「きっと、いつか、エアーズロックに行ける日がやって来る!」
自分で自分にそういい聞かせ、自分で自分をそう慰め、テナントクリークからはエアーズロックとは反対方向の北に向かって走りはじめた。