[1973年 – 1974年]
オーストラリア編 01 ダーウィン → アリススプリングス
ダーウィンが出発点
1973年9月24日、ポルトガル領ティモールのバオカオ空港から9時45分発のTAA(トランス・オーストラリア・エアーライン)機でオーストラリア北部のダーウィンに飛んだ。機内食のサンドイッチを食べ終わるころには、ダーウィンの北のバサースト島が見えてきた。山岳地帯が途切れなくつづくインドネシアの小スンダ列島の島々を見てきた目には、どこまでも平坦で、だだっ広いバサースト島の風景はすごく新鮮に映った。これから新たな世界に足を踏み入れていくのだという気分にさせてくれた。
やがてオーストラリア大陸の一角が見えてくる。一面の赤茶けた大地。その中にまばらな緑が見える。圧倒的な広さ。大地と空の境はぼやけ、霞んでいた。
ポルトガル領ティモールのバオカオ空港から3時間ほどでオーストラリアのダーウィン空港に着陸した。機内では乗客全員に2種類のマラリア用の錠剤が配られた。オーストラリア政府は多額の費用を投じ、ノーザンテリトリー(北部地方)からマラリアを撲滅するのに成功したとのことで、インドネシアからマラリアが持ち込まれるのを警戒していた。
飛行機を降り、ターミナルビル内のイミグレーションでの入国手続きが終わり、税関へ。そこでは「キミはバリ島には行ったかね」と聞かれ、つい、正直に「イエス」と答えた。これがまずかった。バリ島に長く滞在したあとでやってくる旅行者の多くが、ハッシーシや麻薬の類をオーストラリアに持ち込むといって大きな社会問題になっていた。そのような事情があったので、税関では徹底的に荷物を調べられた。正露丸のビンの中まで調べられた。オーストラリアはインドネシアから持ち込まれる麻薬に極度に警戒の目を光らせていた。
空港から市内へ。まずは銀行で両替だ。10USドルが6・66オーストラリアドルになった。1オーストラリアドルは約400円。米ドルよりもはるかに高い。次にスーパーマーケットの「ウールワース」に行く。ぼくは食パンとニンジン、タマネギ、トマトの野菜を買った。デビッドは食パンとコンデンスミルクを買った。
「ウールワース」の清潔な店内、豊富な商品、きちんと整頓された陳列棚を見ていると、「うーん、これがオーストラリアか…」と唸ってしまう。インドネシアの島々では小さな店や露天市で買い物したが、それとはまるで違う世界だった。
「ウールワース」で買い物を終えたところで、店の前で、インドネシアのスンバワ島からずっと一緒だったイギリス人のデビッドと別れた。何度も握手を繰り返した。いつも世界地図を広げては、あきずに眺めていたデビッド。彼の口グセは「これからも、ずっと世界をまわりつづけたい!」というものだった。ぼくもまったく同じ気持ちだったので、よけいにデビッドとは気が合った。
「タカシ、また、世界のどこかで会おう!」
デビッドはダーウィンの町中に消えていった。
ヒッチハイク開始!
ダーウィンの中心街から郊外まで歩き、町外れで車を待った。オーストラリアはヒッチハイクでまわるのだ。ここからは大陸を縦断し、南海岸のポートオーガスタへ、そしてシドニーを目指す。
「さー、オーストラリアのヒッチハイク開始だ!」
と、気合を入れた。
ほとんど待たずに、320キロ南のキャサリーンまで行くロードトレインに乗せてもらった。幸先のよいオーストラリアでのヒッチハイク。ロードトレインというのは2台、もしくは3台のトレーラーを引っ張って走る大型トラックだ。
ロードトレインははてしなく広がる原野の中を突っ走る。人の姿を見かけることはほとんどない。無数のアリ塚が、まるで墓標のようにあちこちに見える。夕暮れが近づくと、カンガルーがひんぱんに道路に飛び出してくる。ロードトレインといい、アリ塚といい、カンガルーといい、それらはまさにオーストラリアそのものだった。
キャサリーンに着いたときは、すでに日は暮れ、あたりは暗くなっていた。運転手にお礼をいってロードトレインを降り、町外れまで歩く。大陸縦断のヒッチハイクはきわめて難しいと聞いていたので、暑さを避けて夜中に走るトラックにねらいをつけた。ところが交通量が少ないので、なかなかうまく乗せてもらえない。車に乗せてもらえないまま、いつしか道端で寝込んでしまった。
目がさめると、東の空がほんのりと白みはじめていた。広大なオーストラリアの原野が姿をあらわし、やがて地平線を赤く染めて朝日が昇る。さわやかな朝の空気。だが、それもほんの一時で、すぐさま猛烈な暑さとの闘いになる。おまけに乾燥しているので、やたらとのどが渇く。水筒の水はあまりの暑さに湯に変わっているが、それでも飲まないよりはマシで、湯になった水を飲む。これが気持ち悪い。昼が過ぎる。太陽光線が強いので、頭が割れんばかりにガンガン痛んでくる。それでも炎天下に立ちつづけた。
車に乗せてもらえないまま、時間だけが過ぎていく。日は西の空に傾き、やがて沈んでしまう。そんなときに自転車に乗った人が、ぼくの前で停まった。さらに驚いたことには「コンニチワ」と日本語で声をかけてくれた。ウォールさんという30代半ばくらいの人で、近くの熱帯植物の研究所に勤めているという。ウォールさんは奥さんとまだ小さな子供を連れて、北は北海道から南は九州まで、3ヵ月あまりも日本をまわった。特に北海道の礼文島と利尻島が忘れられないという。
ウォールさんは背負ったザックの中からコカコーラのカンを取り出すと、「ドウゾ」と日本語でいってぼくに手渡す。ぼくも「ありがとう」と日本語でお礼をいった。ウォールさんが立ち去ったあとも、その余韻がいつまでも残り、「今晩こそはヒッチを成功させよう!」という新たな元気が湧き出てきた。
日中はものすごい数の蠅がまとわりついた。日が落ちると、今度はプーン、プーンと蚊の猛攻だ。たちまち顔や腕を刺され、ボリボリとかきむしる。そんなところへ、ウォールさんと奥さんが一緒に車でやってきた。奥さんは20代の明るい感じのきれいな人。夫妻は「よかったら家に来ませんか」という。ぼくは「今晩こそは」といった思いが強かったので、最初は断った。だが、夫妻に「家では2人の子供が楽しみに待っているんですよ」といわれ、夫妻の好意をありがたく受けることにした。
ウォールさんの家に行くと、キム君とアンジェル君という2人のかわいらしい男の子が出迎えてくれた。上のキム君が夫妻と一緒に日本に行った。日本ではたくさんの友達ができたというキム君は、「ほら、見て」といって、おみやげに買った日本の箸で器用に豆をつまんで見せてくれた。夫妻は日本に行く前に、半年以上も日本語の勉強をした。カタコトの日本語だとはいっても、2人の、できるだけ正しい日本語を話そうという姿勢に心を打たれた。
利尻島のユースホステルで教えてもらったのだといって、奥さんは透き通ったきれいな声で、
「チエコハ トーキョウニハ ソラガナイトイッタ…」
と、大好きだという「智恵子抄」の歌を歌ってくれた。そんなウォールさん一家と夕食をともにし、一晩、泊めてもらった。
翌朝、朝食をご馳走になると、ウォールさんは自転車で研究所に行く。奥さんはぼくを車で前夜の場所まで送ってくれる。「お昼に食べてね」といって、サンドイッチやフルーツ、飲み物の入った紙袋を手に持たせてくれた。「タカシが無事にシドニーまで行けることを祈ってるわ」といって、ぼくのほほにキスしてくれた。胸がジーンと熱くなるようなウォールさん一家との別れだった。
ヒッチハイクで出会う人々
キャサリーンでの3日目。朝から車を待ったが、昼を過ぎても乗せてもらえず、
「やっぱりオーストラリア縦断のヒッチハイクだなんて、無理だったのかなあ…」
と弱気になりかかった。そんなときに、ついに、1台の乗用車が停まってくれた。
隣町のマタランカまで行く車。驚いたことに、アメリカン・インディアンの人たちが乗っていた。ぼくが乗ってぎゅうづめになる。彼らはアメリカ人が経営する牧場で働いているとのことだったが、口々に「こんなところに日本人がいるなんて、ビックリしたなあ」という。ぼくも「こんなところでインディアンに会うなんて、すごくビックリしたなあ」と、いかにも驚いたという顔をした。彼らは車内での酒盛りの真っ最中。なんとも陽気なアメリカン・インディアンの人たちだった。
きっとウォールさん一家の祈りのおかげなのだろう、このあとのヒッチハイクはまさにトントン拍子だった。
マタランカからは700キロ南のテナントクリークまで、トムの車に乗せてもらった。彼はハンガリー人で、1956年のハンガリー動乱のあと、一家そろってオーストラリアに移住した。
トムは35歳で独身。溶接工をしている。ひとつの町で数ヵ月働き、たっぷりと金がたまると、2、3ヵ月は旅をする。金がなくなると、また、数ヵ月働くという。トムの車にはキャンピング用具一式が積まれ、釣り竿が何本もあった。釣りが大好きなのだという。夜中の12時を過ぎたところで、車を荒野のまっただなかに停め、そこで眠った。
翌朝は夜明けとともに走り出す。銅鉱山のあるテナントクリークには昼前に着き、そこでトムと別れた。
テナントクリークの町中を歩いていると、なんともラッキーなことに1台の車がスーッと近寄ってきて、「アリススプリングスまで行くの?」と声をかけられた。「オー、イエス」とぼくがうれしそうな声を上げると、その車で500キロ南のアリススプリングスまで乗せてもらった。
運転しているのはガッチリした体つきのオランダ人のアルベル。オーストラリアには出稼ぎでやってきた。「あと2、3年働いたら国に帰るよ」という。アルベルの車はフォード・ファルコンの新車・広大な原野の中に延びるひと筋の舗装路を猛烈なスピードで走る。スピードメーターの針は110マイル(176キロ)から120マイル(192キロ)を指している。南回帰線を越え、アリススプリングスまでの500キロを3時間もかからずに走りきった。
アルベルにはアリススプリングスの中心街で下ろしてもらい、しばらくはオーストラリア中央部では最大の町を歩いた。そして南のポートオーガスタを目指し、町外れまで歩いていく。日暮れが近づくと、急にひんやりとした風が吹き始める。
そんなときに酔っぱらってフラフラ歩いている先住民のアボリジニの男にからまれた。
「オマエはどこに行く?」
「ポートオーガスタ」
「オマエはどこから来た?」
「ダーウィン」
「オーストラリア人か?」
「いや、違う。日本人だ」
「私はアボリジニースだ。知っているか?」
「知っている」
「ブラディー・ネイティブ(ひどい原住民)だ」
「そうは思わない」
「オマエは金を持っているだろ。すこし、くれ」
ぼくが黙っていると、アボリジニの酔っぱらいは、ふらつく足でやにわに殴りかかってきた。男の奥さんなのだろうか、すこし遅れてやってきたアボリジニの女が「やめなさい!」といって男を止めた。彼女も男ほどではないが、かなり酔っていた。女は男の腕をかかえるようにして去っていった。
キャサリンでもテナントクリークでもそうだったが、町でまともなアボリジニを見ることはほとんどなかった。たいていのアボリジニは昼間から酔っぱらっていた。ぼくにはそれが、あとからやってきて、力でもって彼らの土地を奪った白人への復讐のようにも見えた。また、オーストラリア政府は邪魔なアボリジニを滅ぼしたいために、彼らに金をバラまき、アルコール漬けにしているのだという話も聞いた。
あたりは暗くなりはじめていた。ぼくはすっかりヒッチハイクする気をなくし、アリススプリングスの町の方向に戻っていった。すると、さきほどのオランダ人のアルベルの車が通りがかり、止まった。
「タカシ、どうしたんだ」
「今晩は、どこか、その辺で寝ようかと思って…」
アルベルも野宿に付き合ってくれるという。彼の車に乗せてもらい、涸川に行った。砂地の河原にシートを広げる。降るような星空のもとで、アルベルのクーラーボックスに入っている冷えたカンビールを一緒に飲んだ。何本ものカンビールを空けたところで、アルベルは毛布にくるまり、ぼくはシュラフに入って眠った。
翌朝、アルベルはアリススプリングスの郊外まで乗せてくれ、「ここで車を待ったらいい」といって、並木道のところで下ろしてくれた。ポートオーガスタまで、あと1350キロ。
「さー、気合を入れてヒッチハイクするぞ!」
カソリング40号 2003年8月発行より