30年目の「六大陸周遊記」[006]

[1973年 – 1974年]

アジア編 06 エンデ[インドネシア]→ バオカオ[ティモール]

分断された島

 インドネシア・フローレス島のエンデ港を出港したのは夜の10時。ティモール島のクーパン港に到着したのは翌朝の8時。さすがに動力船は早い。フローレス島からティモール島までは10時間の船旅だった。

 クーパンの港に上陸して、「とうとう小スンダ列島の東端まで来た!」と、感動した気分。「ティモール」はインドネシア語で「東」を意味する。ティモール島は「東島」だ。

 船内では33歳の軍人、アブドラハマンさんと親しくなった。彼に「ぜひとも家に寄っていって下さい」といわれ、ベモ(乗合タクシー)で港から10キロほど行ったクーパン市内のアブドラハマンさんの家に行った。5年ぶりの故郷だとのことで、お父さんもお母さんもアブドラハマンさんの顔を見ると、泣いて喜んだ。彼はカリマンタン(ボルネオ島)での共産ゲリラとの戦闘で、左足を切断した。相手方のチェコ製の機関銃にやられたのだという。

 アブドラハマンさんの家で食事をご馳走になり、クーパンを出発。ポルトガル領ティモールとの国境に向かっていく。ティモール島は分断された島で、西ティモールはインドネシアだが、東ティモールはポルトガル領。陸路で国境を越えるのは、きわめて難しいといわれていた。その国境越えの困難にあえて挑戦するのだ。

 ティモール島はフローレス島と比べると、はるかに道はよく、交通量も多い。アディーさんという40過ぎの人が運転するトラックで国境まで乗せてもらった。カタコトの日本語を話せる人だった。オイサ村という村近くの平原を走っていると、アディーさんは太平洋戦争中のここでの戦闘を話してくれた。

「日本軍の兵士たちは次々と、この平原にパラシュートで降下した。だけどアメリカ軍とオーストラリア軍が待ち伏せしていてね。日本兵は次々に撃ち殺された。ほとんど全員が死んだよ」と、アディーさんはいかにも無念だといわんばかりの口調だった。

 インドネシアでは、いろいろな人たちから太平洋戦争当時の話を聞いた。だが不思議なことに、インドネシアの人たちは日本のことをあまり悪くはいわなかった。最初はぼくが日本人なので、あまり悪くはいえないからだろうと思っていた。ところがそうでもないようだった。「大東亜共栄圏」の建設を旗印に日本が欧米諸国と戦ったことが、インドネシアの人たちに勇気を与え、インドネシアの独立の大きな助けになったと多くの人が同じようなことをいった。それまでのオランダの統治時代がひどすぎたということか。

 国境の町アタンブアに着くと、アディーさんと別れる。ぼくたちはインドネシアを出国するためにイミグレーションに行く。胸がドキドキする。というのは、インドネシアのビザがとっくに切れているからだ。ここに来るまで何度も警察でパスポートチェックを受けたが、幸いなことに、ビザ切れはみつからないで済んだ。だが、さすがというか、イミグレーションの係官はそうはいかなかった。ぼくのパスポートを見るなり、ビザ切れを指摘した。辛い。ビザの延長で20USドル(約6000円)を取られるのか…。しかし、なんともラッキーなことに、イミグレーションの係官は「ビザ延長の手数料として1500ルピア(約1200円)を払いなさい」といって、それで無事、出国手続きは終わった。

 スマトラ島のメダンからティモール島のアタンブアまで、なんとも長い行程の「インドネシア横断」の旅だった。

徒歩40キロの国境越え

 インドネシア側の国境の町、アタンブアから国境を越え、ポルトガル領ティモールに入るのは大変なことだった。その間、まったく車は通っていないので、40キロを歩かなくてはならない。

「さー、これからが勝負だ!」
 といってイギリス人のデビッドと顔を見合わせた。

 昼過ぎにアタンブアを出発し、歩きはじめたが、暑さが厳しい。タラタラと汗が流れ落ちてくる。デビッドは壊れかけたトランクをかかえたり、頭にのせたりして歩いたが、なんとも歩きづらそう。そのため、休憩する回数が多くなった。

 歩いているときは辛いことばかりではなかった。小さな集落に着くと、フランシスさんという人の家に呼ばれた。すでに退役した軍人だが、太平洋戦争中は日本軍の一員として戦闘に参加したという。インドネシアの独立後は陸軍に入り、スマトラ、カリマンタン、セラウェシ、マルク諸島とインドネシア各地を点々とした。そんなフランシスさんとの出会いは楽しいものであり、聞いた話は心に残った。

 日が暮れ、アタンブアから20キロ歩いたところで、アタポポという小さな港町に着いた。ここはまだインドネシア領内だ。日中の暑さがあまりにもきついので、ほんとうは夜通し歩きたかった。だが、警察で止められた。「明日、キミたちのパスポートと荷物を検査する」といわれ、やむをえず警察の一室を借り、ひと晩そこで眠った。

 夜が明けても、すぐには出発できなかった。警察の署長が来るのを待たなくてはならなかったからだ。8時過ぎになって、やっと署長が来た。パスポートと荷物を調べられ、9時過ぎになって、「行ってもよろしい」ということになった。国境まであと15キロだという。

 ぼくたちが歩きだしたころには、すでに灼熱の太陽がジリジリと照りつけていた。のどの渇きがひどく、水筒の水はあっというまに空になる。小さな集落が点々とあって助かったが、集落に着くたびに水をもらった。

 すばらしくきれいな浜辺に出た。あまりの暑さに我慢できず、デビッドと裸になって泳いだ。透き通った海。しばし、焦熱地獄の苦しみを忘れることができた。

 国境に通じる小道は海岸を離れ、なだらかな丘陵地帯に入っていく。懸命になって歩きつづけ、インドネシア側の国境事務所に着いた。足はふらつき、熱射病寸前で、頭から何杯もの水をかけてもらった。ひと息ついたところで、飲み水をもらい、ガブ飲みした。ここで再度、出国手続きをする。アタンブアのイミグレーションですでに出国手続きをしているので、ここでの手続きは簡単なものだった。

 国境事務所の係官たちに「さよなら」をいってポルトガル領ティモール側のバドガデに向かっていく。そこまで5キロだという。じきに干上がった川を渡る。その川には木の橋がかかっている。橋の中間がインドネシアとポルトガルの国境。橋を渡ってポルトガル側に入ると、これでほんとうのインドネシアとの別れになった。

 ぼくはインドネシアがすっかり好きになっていた。いつの日か、今回のスマトラ島からティモール島への「大スンダ、小スンダ列島横断」ルートよりも北、「カリマンタン(ボルネオ島)→セラウェシ島→マルク諸島→イリアン・ジャヤ(ニューギニア島)」のルートで旅したいと思った。

 ぼくとデビッドは最後の力を振りしぼって歩き、日の落ちる前に、ポルトガル領ティモールのバドガデの町に着いた。ぼくたちは大きな難関を突破したのだ。

ポルトガル領ティモールへの道
ポルトガル領ティモールへの道
ポルトガル領ティモールへの道
ポルトガル領ティモールへの道
国境近くの風景
国境近くの風景
国境近くの風景
国境近くの風景
国境近くの村で
国境近くの村で
ポルトガル領ティモールに入る。写真中央がデビッド
ポルトガル領ティモールに入る。写真中央がデビッド
バドガデの海
バドガデの海
ポルトガル領ティモール

 国境の町、バドガデには要塞があった。町中、軍人だらけ。そこではポルトガル人兵士のもとで、ティモール人兵士たちが訓練を受けていた。国境の橋を越えただけで、インドネシア語はほとんど通じなくなる。ここはポルトガルの植民地なので、ポルトガル語が公用語だが、そのほかにこの一帯ではいくつかの部族語が使われていた。そのうち、テトゥン語が一番、通用するようだった。

 ポルトガル領ティモールは植民地の構図を見事に見せていた。国を支配するポルトガル人のもとで中国人が経済の実権を握り、その下で、本来の国民であるはずのティモール人が小さくなっていた。

 バドガデに着いた翌々日、ポルトガル軍のトラックで20キロほど先のバリボーに行く。そこにポルトガル側のイミグレーションがある。バリボーのイミグレーションで入国手続きをしたが、ポルトガル人の係官は我々のパスポートをブラックリストに照合し、そのあとで入国印を押した。そのブラックリストには反植民地運動をしているような人たちがのっているのだ。

 バリボーからが、また、難関だ。35キロ先のマリアナまで、ほとんど交通量はない。イミグレーションの係官には「歩かなくてはならないだろう」といわれた。しかし、日中の暑さを考えると、なかなか足が前に出ない。デビッドと相談し、金を払ってでも、車に乗せてもらおうということになった。

 バリボーには何軒かの中国人商店がある。そのうちの一軒はジープを持っていた。その店に行き、「マリアナまで乗せてもらいたいのだが」と頼むと、1人600エスクード(約6000円)だという。高すぎる。

「よし、歩こう!」
 と決め、暑さを避けて、夕方になったら歩きはじめることにした。

 ところが夕暮れが近づくと、急に天気が崩れた。ひんやりとした風がふきはじめ、あっというまに空は黒雲に覆われる。やがて雷鳴が聞こえてくる。雷鳴が近くなると、ザーッと雨が降りだし、稲妻が大空を切り裂くように駆けめぐる。パーッとあたりが閃光で光り輝いた瞬間、「ドカーン!」と爆弾が落ちたかのようなものすごい音がした。なんとぼくたちの目の前、10メートルも離れていない大木に雷が落ちたのだ。大木は真っ二つに裂け、モウモウと黒煙を上げている。あまりのすさまじい光景に背筋が凍りつき、ぼくたちは声が出なかった。

「マリアナまでは、なんとしても歩くゾ」
 と意気込んでいたが、この落雷を見て、その気持ちが急に萎え、

「雨がやむまで、もうすこし待とう」
 ということになった。

 ちょうどそのときに、1台のランドクルーザーがやってきた。中国人商人のもので、明日、ポルトガル領ティモールの首都、ディリまで行くという。商談成立。ぼくたちは2人で3ポンド(約2100円)で乗せてもらうことになった。さきほどのエスクードはポルトガルの通貨、ポンドはイギリスの通貨。エスクードやポンド、さらにはドルなどをごちゃ混ぜにして使っているのも、植民地らしかった。

 翌日は夜明けととも出発。ガタガタの超悪路を行く。川には橋がかかっていないので、車の両側に水を噴水のように巻き上げて渡っていく。深い川では水没寸前だ。ポルトガルが本国から遠く離れたティモールにはほとんどお金をかけていないことがよくわかる。

 バリボーからディリまでは、トラックだと2日かかるといわれていた。が、さすが四輪駆動のトヨタのランドクルーザーだけあって、その道のりを1日で走り切った。こうして9月23日の夕方、ポルトガル領ティモールの首都、ディリに着いた。東京を発ってから34日目のことだった。

バドガデで
バドガデで
バドガデで
バドガデで
軍のトラックでバリボーへ
軍のトラックでバリボーへ
軍のトラックでバリボーへ
軍のトラックでバリボーへ
涸れ川の風景
涸れ川の風景
このランドクルーザーに乗ってディリへ
このランドクルーザーに乗ってディリへ
川渡り
川渡り
水牛の群を見る
水牛の群を見る
露天市で
露天市で
露天市で
露天市で
露天市で
露天市で
ディリの海
ディリの海
オーストラリアへ

 ひと晩、海辺で野宿。翌朝は夜明け前に起き、町の中心にあるTAT(トランスポルト・アエロス・デ・ティモール)のオフィスまで歩いていく。TATに着くと、その前で、人が来るのを待った。ここからうまくオーストラリアに渡ることができるだろうか。

 7時過ぎになって中国人の職員がやってきた。すると、なんともうまい具合に、オーストラリア北部のダーウィン行きのTAA(トランス・オーストラリア・エアーライン)機が、9時45分に出発するという。ところが、TAA機が飛ぶのはディリ空港ではなく、200キロほど離れたバオカオ空港だという。

 中国人の職員は「大丈夫、ダーウィンへの飛行機には乗れますよ」
 といってくれる。

 ぼくたちはジープでディリ空港に連れていかれ、そこでバオカオ空港行きの、10人乗りの小さなプロペラ機に乗り込んだ。飛行機は土煙を巻き上げてディリ空港を飛び立った。眼下にはポルトガル領のアトゥル島が見える。やがてインドネシアのウェタール島が見えてくる。そしてバオカオ空港に着陸した。

 ぼくたちはすぐさまダーウィン行きのTAA機に乗り換える。9時45分、20人ほどの乗客をのせて、TAAのジェット機は定刻どおりにバオカオ空港を飛び立った。

 飛行機はティモール島の上空を飛んでいる。眼下には幾重にも重なり合った山々。じきに海岸線が見えてくる。ティモール島の南に、はてしなく広がるティモール海だ。もう島影は見えない。この海の向こうで、オーストラリアが待っている!

離れゆくディモール島
離れゆくディモール島

カソリング39号 2003年7月発行より