30年目の「六大陸周遊記」[008]

[1973年 – 1974年]

オーストラリア編 02 アリススプリングス → キャンベラ

大型トラックの運転手ティム、22歳

 オーストラリア中央部の蠅の多さには、泣きがはいるほど。ほんとうに蠅がうるさい。ウワーッと、顔にまとわりついてくる。追い払っても。追い払ってもまとわりついてくる。頭にきてパーンと顔をたたいたら、一度に10ぴき以上の蠅を落とした。それほどの蠅の多さだった。

 暑さがきつくなりはじめたころ、ボルボの大型トラックに乗せてもらった。ラッキー。乾燥した原野を南下していく。やがてダーウィンからつづいた舗装路が途切れ、ガタガタのダートに入っていく。

 大型トラックの運転手はティム。22歳。すごくいいヤツだった。助手はいないオーストラリアではあまりにも人手がないので、1000キロ、2000キロという長距離を走るトラックでも、たいてい助手は乗っていない。助手が1人どころか、2人も3人もいるインドネシアのトラックとは大違いだった。

 オーストラリアの長距離トラックの運転手たちは、助手のかわりに、助手席によく犬を乗せていた。ティムもそうだ。犬を相手に、寂しさをまぎらわしているようだった。犬のために、ドッグフードの入った缶詰をごっそり積んでいた。ティムもそうだった。

「コイツの方がオレよりも、食事代によけいかかるんだ」
 と、ティムは犬に目をやりながらいった。

 ティムは靴を一切、はかない。トラックの運転中だけではなく、トラックを降りて町を歩くときも裸足だ。裸足の方がはるかに気持ちよく、また健康にもいいという。

「日本にも裸足の人たちはいるの」
「いやー、見たことがないな」
「なぜ」
「裸足で外を歩くと、なんとなく恥ずかしいし、それに道にはガラスとかクギが落ちていて危ないんだ」

 裸足の方が気持ちいいというのは、よくわかる。ぼくはそのとき、トラックの荷台に乗ってサハラ砂漠を縦断したときのことを思い出した。3週間の間、一度も靴をはかなかった。砂は焼けて、裸足で歩くと火傷しそうだった。トゲが刺さったりしたが、それでも靴をはかなかった。裸足の方がよっぽど気持ちよかったからだ。それだけにティムのいいたいこともよくわかった。オーストラリアでは、ティムに限らず、裸足の人たちをけっこう見かけた。

 オーストラリアの中央部は暑く、乾燥していた。すぐにのどが渇く。ティムはクーラーボックスから冷えたジュースやコーラの缶を取り出して飲むときは、ぼくにも「飲め」といって缶を手渡すのだ。

「ティム、もう、いいよ。なくなってしまう」
「かまわないんだ。町に着いたら、また買えばいいんだから」
 といって取り合わない。

 ノーザンテリトイリー(北部地方)から南オーストラリア州に入ると、幾分、暑さはやわらいだ。その夜、鉱山町のクーバーペディーに着き、ティムはトラックを止めた。ここは世界でも最大級のオパールの産出地。トラック内でひと晩眠ると、翌日は新たな積み荷を積み込み、昼近くにこの鉱山町を出発した。さらに300キロ南のキングーニャまで行くという。ティムのトラックはモウモウと土煙を巻き上げて走りつづける。大陸縦断の幹線ルートだが、すれ違う車はほとんどない。

クーパーペディーのオパール鉱山
クーパーペディーのオパール鉱山
クーパーペディーのトラックターミナル
クーパーペディーのトラックターミナル

 夕方、キングーニャに着いた。ティムと固い握手をかわし、ぼくはトラックを降りた。ティムはここからさらに西へ、ナラボー平原に入っていく。道はもっと悪くなるという。ティムのトラックが動きだす。ぼくは手を振って見送った。土煙を巻き上げて走るトラックはあっというまに小さくなり、やがて夕焼けの西の空に吸い込まれたかのように、その姿を消した。

大陸横断の鉄路。キングーニャで
大陸横断の鉄路。キングーニャで
キングーニャのきれいな夕焼け
キングーニャのきれいな夕焼け
貨物列車から飛び降りる

 キングーニャは小さな町だが、この町には大陸横断のトランス・オーストラリアン鉄道の駅がある。その駅でひと晩、寝ることにした。その日は土曜日で、月曜日になるまでこの駅に停まる旅客列車はない。そのため駅には乗客はもちろんのこと、駅員も1人もいなかった。

 駅舎内のベンチにシュラフを敷いて眠った。久しぶりにぐっすり眠れた。が、夜中に西のパース方向からやってきた貨物列車の停まる音で目がさめた。反対方向から来る列車との待ち合わせのようだった。

「ラッキー!」

 ぼくはガバッと飛び起きた。シュラフをすばやく丸め、ザックを背負い、その貨物列車に飛び乗った。その列車でポートオーガスタまで行こうとしたのだ。ぼくが飛び乗ったのは乗用車を専門に積む貨車で、上下2段に分かれた空の車両だった。

 シドニー方向から来た貨物列車とすれ違うと、ぼくの乗った貨物列車が動きだす。そのときの「ガシャガシャガシャーン」という連結器と連結器のぶつかり合う音がすごい。貨物列車は暗闇の中を相当なスピードで走る。キングーニャからポートオーガスタまでは約350キロ。列車がキングーニャを出発したのは午前1時ごろなので、夜が明けるころにはポートオーガスタに着くだろうという予測を立てた。

 ポートオーガスタまではノンストップで走るであろうと思っていたら、途中のウーメラ駅で貨物列車は停車した。トーチを手にした車掌が見回りにきたが、シュラフにもぐり込んで寝ていたこともあり、逃げるまもなく見つかってしまった。もうジタバタしてもはじまらない。

「どこまで行くつもりなんだ」
「ポートオーガスタまでです」
「いいか、キミは悪いことをしているんだぞ」
「はい、よくわかっています」
「ポートオーガスタに着いたら、ポリスに突き出してやる。金はちゃんと持っているだろうな。料金はポートオーガスタに着いたら払うんだ」

 なんともラッキーなことに、ウーメラ駅では降ろされなかった。

 そのまま貨物列車に乗りつづける。やがて白々と夜が明けてきた。荒野のはるかかなたに町の灯が見えてきた。

「ポートオーガスタだ。間違いない!」

 ぼくは貨車の鉄板の上に敷いたシュラフをクルクルッと丸め、身支度を整える。列車が大分、町に近づいた。すでにすっかりと夜が明け、あたりの風景がはっきりと見えてくる。大きなカーブにさしかかる。列車はガクンとスピードを落とす。

「今だ、今がチャンスだ!」

 ぼくはザックを投げ下ろし、すぐさま列車を飛び降りた。こういうことは、バイクの事故で慣れているのだ。うまく受け身をとることができ、ゴロゴロゴロンところがり、右足をすこし痛めた程度で無事に立ち上がった。走り過ぎていく貨物列車に敬礼して見送る。車掌にはなんとも申し訳なかったが、「やったゼ!」とガッツポーズをとると、右足を引きずりながらポートオーガスタに向かって歩いた。

 思ったよりも距離があり、2時間ぐらいかかってポートオーガスタの町に着いた。公園の水道で顔を洗い、「フーッ」と、ひと息つくのだった。

ポートオーガスタ郊外の荒野
ポートオーガスタ郊外の荒野
パース方向から貨物列車がやってきた。ポートオーガスタで
パース方向から貨物列車がやってきた。ポートオーガスタで
首都キャンベラに到着!

 ポートオーガスタからは国道1号でアデレードに向かっていく。町外れにはアンポール(オーストラリアの石油会社)の24時間営業のガソリンスタンドがあった。そこのレストランでコーヒーを飲みながらサンドイッチを食べた。このおかげで、新たな力が蘇ってきた。

 その日は日曜日。日曜日というのは、平日に比べると、ヒッチハイクが難しい。ところがすごくラッキーな1日で、アデレード方向に歩きはじめると、ほとんど待たずにメルボルンまで行く車が停まってくれた。男女2人づつの若者たちの乗る車だった。

 ぼくは首都のキャンベラに直行したかった。そのことを彼らに告げると、なんと300キロ先のアデレードでわざわざ遠回りをし、アデレード郊外の国道20号で降ろしてくれたのだ。この国道20号はアデレードとシドニーを結ぶ最短ルートで、キャンベラは国道20号から南に入ったところにある。アデレードからキャンベラまでは1250キロだ。

 彼らのおかげで、そのあとすぐに、なんとキャンベラまで行く車に乗せてもらえた。信じられないようなラッキーさだ。ディーンとエリス夫妻の乗る車。2人にはぼくと同じくらいの年ごろの息子がいるという。が、2人はとてもそんな年には見えない。見かけも考え方も若々しかった。

 オーストラリア最大の川、マレー川流域を走る。この一帯は豊かな農地で、ブドウなどの果樹園も多い。北部地方の荒涼とした原野とは、きわめて対照的だ。空気もひんやりとして湿っている。吹く風も冷たく、40度、50度という猛烈な暑さに慣れた体には、寒さがひどく身にこたえた。

 南オーストラリア州からビクトリア州に入り、きれいなミルジュラの町を過ぎると、ニューサウスウェールズ州になる。

 国道沿いの露店で夫妻はごっそりとリンゴとオレンジを買った。ディーンは「タカシ、食べたいだけ、食べなさい」といってくれたが、ぼくが遠慮して手を出さないでいると、すかさずいわれた。

「ここはオーストラリアだからね。日本ではないんだよ。日本式の遠慮は通じない」

 ディーンは言語学者で、大阪で開かれた学会に、奥さんのエリスを連れて行った。夫妻が日本で何に一番、驚いたかというと、「日本人の何か欲しくても、すぐには欲しいといわない遠慮深い性格」だという。

 ディーンとエリスは交替で車を運転し、夜通し走りつづけた。ワガワガという町に着いたとき、24時間営業のレストランで夫妻に夕食をご馳走になったが、遠慮なしにいただいた。ディーンは「あと、もうひと息でキャンベラだよ」という。ワガワガを過ぎると、国道20号はメルボルンとシドニーを結ぶ国道31号に合流し、ヤスの町を過ぎたところで、キャンベラに通じる道に入っていく。

 ニューサウスウェールス州から連邦政府直轄のACT(オーストラリアン・キャピタル・テリトリー)に入る。やがて遠くにキャンベラの町明かりが見えてきた。ディーンは寄り道をして小高い丘の上で車を停めてくれた。そこからはキャンベラの夜景を一望できた。

 ディーンとエリス夫妻の家に着いたのは午前3時を過ぎていた。夫妻の家でひと晩、泊めてもらう。「タカシ、自由に使いなさい」といってひと部屋、用意してくれた。きれいなベッド。真っ白なシーツ。ぼくはディーンとエリス夫妻の家で死んだように眠った。

 こうしてオーストラリアの首都キャンベラに10月1日に到着したが、ダーウィンからは4500キロ、その間で使ったのは4ドル(約1600円)だけだった。

 ディーン、エリス夫妻の家では昼近くまで寝かせてもらった。夫妻と一緒に昼食を食べ、そのあとキャンベラの中心街まで車で連れていってもらった。そこで夫妻と別れたが、エリスはぼくをギュッと抱きしめると、「タカシ、気をつけて旅をつづけるのよ」といってほほにキスしてくれた。

 じつによく整備されたキャンベラの町を歩く。驚くほどきれいな町だ。小道1本1本まで、すべて計画通りにつくられている。だがその日は休日で人通りも少なかったこともあって、何か人間くささがなく、インドネシアの雑然とした町がなつかしく思い出されるのだった。ユースホステルに泊まろうと思い、ドライアンドラ通りを探した。しかし、なかなか見つけられず、通りがかりの家で、トントンとカナヅチを振って日曜大工している人に聞いた。すると「ちょっと待ってなさい。もうすぐ仕事が終わるので、車で送ってあげよう。ドライアンドラ通りまでは歩いたら大変だ」といってくれたのだ。

 その人はキャンベラ大学でドイツ語を教えているロン・ホッフさんだった。彼の車でキャンベラ郊外の樹林に囲まれたユースホステルに連れていってもらったが、夕方の5時まで待たなくてはならなかった。すると、「それまで、私の家にいたらいい」といって、ふたたび彼の家に戻った。

 ロンは野生動物にすごく興味を持っている。図鑑などを見せてもらいながら、オーストラリアの動物についてのおもしろい話を聞いた。ロンの奥さんは「我が家では、日曜日とか休日には、よく中国料理を食べに行くのよ。さ、一緒に行きましょ」といってぼくをも誘ってくれた。こうしてホッフ夫妻と3人の子供たちと一緒に中国料理店に行った。ロンは中国語(広東語)もかなり話せる。店の主人とは中国語で楽しそうな会話をかわした。
「この店のオヤジは友人で、いいヤツなんだけど、ギャンブルに狂っていてね。それだけが玉にキズなんだ」とロンはいう。

 中国料理店では何種もの料理をご馳走になった。ぼくの食べっぷりがいいといって夫妻は喜んでくれた。ホッフさん一家と過ごした時間はなんとも楽しいものだった。明るくおおらかなホッフ一家の空気は、オーストラリアそのものといった感じがした。食事が終わると、そんなホッフさん一家にユースホステルまで送ってもらい、清潔感の漂うユースホステルに泊まるのだった。

カソリング41号 2003年9月発行より