サハラ砂漠縦断 2004年〜2005年
道祖神の「賀曽利隆と走る!」シリーズでの「サハラ砂漠縦断」はチュニジアの首都チュニスが出発点。我ら「ホガール軍団」は2004年12月4日にチュニスを出発し、15台のバイクを走らせ、チュニスから南へ。アルジェリアのホガール・ルートでサハラ砂漠を縦断し、ガーナのアクラを終着点にした。
これぞ、我が世界!
チュニスを出発した日は、北アフリカ最古のイスラムの町、カイロワンで泊った。
翌日、チュニジア南部のサハラ砂漠に入っていった。サハラの乾ききった空気を切り裂きながらDRーZ400Sで走っていると、「おー、これぞ、我が世界!」と叫びたくなってくる。
サハラのオアシス、トゥズールからアルジェリア国境へ。国境越えが大きな難関だ。
アルジェリアは1990年代に入るとイスラム原理運動の嵐が吹き荒れ、内戦同様の状態に陥った。そのためサハラ砂漠縦断などは、全くできるような状態ではなかった。「パリ・ダカール・ラリー」にしても、アルジェリアをコースには組み込めなくなった。
アルジェリア情勢が良くなったのを見極めての今回の道祖神ツアーの「サハラ砂漠縦断」。「ホガール軍団」は新たなサハラ砂漠縦断の歴史を切り開こうとしているのだ。なにしろアルジェリアのサハラ砂漠といったら「サハラの中のサハラ」なのである。
「道祖神」の菊地優さんの獅子奮迅の活躍のおかげで、1日がかりになったが、我々全員の入国手続きと15台のバイクの通関は終わり、アルジェリアに入国できた。
エルウエッド、トゥグール、ワラグラのオアシスを通り、ガルダイアの南でアルジェリアを縦貫するN1(国道1号)に合流。このN1こそ、サハラ砂漠縦断の一番の幹線「ホガール・ルート」なのだ。サハラ砂漠の中心部のホガール山地を越えていく。
世界でも最大級の砂丘群、グラン・エルグ・オクシデンタル(西方大砂丘群)の東端を走り抜け、エルゴレア、インサーラのオアシスを通り過ぎ、北回帰線を越えた。そして12月10日、サハラ砂漠最奥のオアシス、タマンラセットに到着した。
チュニスから2400キロのタマンラセットは、まさにサハラ最奥の地。北の地中海からも南のギニア湾からも果てしなくなく遠い。
タマンラセットでは「キャラバンサライ」に泊まり、タマンラセットとその周辺をまわった。圧巻は「アセクラム」だ。標高2585mのこの地点はホガール山地のメインスポット。山上には「フーコー神父」のエルミタージュ(隠遁所)がある。その前に立つと、ホガール山地の奇峰群を一望する。地球とは思えないような別世界の風景。反対側に立つと、ホガール山地の最高峰タハト山(2908m)が間近に見える。
日が落ちると、急激に気温が下がる。ここには宿舎がある。7人用と8人用の2部屋。夕食後、我ら「ホガール軍団」の面々はベッドの上に敷いたシュラフにもぐり込んで眠った。
翌朝は夜明け前に「フーコー神父」のエルミタージュに登る。ものすごい星の数。スースーッと流れ星が満天の星空を横切っていく。1分間に2、3個は見える。遠くにはタマンラセットの町明かり。やがて夜明けを迎える。東の空が白みはじめ、みるみるうちに空全体がオレンジ色に染まり、奇峰群の向こうに朝日が昇った。
最大の難所に突入
タマンラセットに戻ると、我ら「ホガール軍団」は砂道走行の練習をする。ワジ(涸川)の中につづく砂道を走り、そしてニジェールのアガデスに向かった。
チュニスからつづいた舗装路はタマンラセットの南、28キロ地点で途切れ、いよいよ最大の難所に突入。一面の砂の海の中に幾筋もの轍がついている。比較的走りやすそうな轍をみつけ、それをフォローしていくのだが、砂深い轍になると転倒する人が続出。きつい砂道との闘いがはてしなくつづいた。
タマンラセットから110キロ地点で事故発生。BMWのGS1200に乗る大家央(ひさし)さんがギャップにはまり、前転宙返りするような格好で吹っ飛ばされた。段差の下がフカフカの砂溜まりになっていた。
我々にとってものすごくラッキーだったのは、参加者の中に福岡市の救急車に乗務している栗木邦正さんがいてくれたことだ。栗木さんは「ファラオ・ラリー」や「パリ・ダカール・ラリー」の海外ラリーの経験もある。
栗木さんはすぐさま大家さんをみてくれた。鎖骨が折れているとのことで、手際よく三角巾で応急処置をしてくれた。
事故現場近くでのキャンプ。夕日がサハラの地平線に落ちていく。そこからタマンラセットに携帯で電話すると、夜の10時過ぎになってトアレグ族のタトゥーが運転するランドクルーザーが来てくれた。「キャランバンサライ」のオマールも一緒だ。
そのランクルの屋根に事故車のBMWを乗せるつもにしていたが、重すぎてうまくいかない。そこで急きょ、BMWにはぼくが乗り、タマンラセットの病院に向かった。
夜の砂漠を走り出した瞬間、凍りついた。BMWは事故のダメージでヘッドライトの光軸が下がり、ハイビームにしてもほんの目の前を照らす程度。高速で走れば何なく突破できる砂道も、暗い中でヨタヨタ走ると、やたらと転倒してしまう。そのたびに渾身の力をこめてGS1200を起こした。もうヘトヘト。全部で7回も転倒し、夜中の3時前にタマンラセットに到着した。
大家さんの収容された総合病院はしっかりとした設備でひと安心。救急病棟ですぐさまレントゲンをとってもらうとやはり鎖骨が折れていた。大家さんは残念ながら日本に帰国することになった。
翌日、キャンプ地に戻ると、国境のオアシス、インゲザムを目指して南下する。見渡す限りの平坦な砂漠では自由自在にどこでも走れる。砂もそれほど深くないので高速走行ができる。砂嵐にも遭遇。ザーザー吹きつける砂の中で写真をとったら、一発でカメラがやられた。シャターが下りなくなってしまったのだ。
タマンラセットから400キロ走り、国境のインゲザムに到着。ホガール山地を下りきったところなので強烈な暑さ。それまでが寒いサハラだったので、あまりの暑さに頭がクラクラしてしまう。
インゲザムの町から10キロ走ったまさに砂の海の中にアルジェリア側の国境事務所がある。そこででひと晩キャンプし、翌日、出国。アルジェリアからニジェールに入った。
ニジェール側国境事務所のあるアッサマカから180キロ走り、アルリットに到着。ここから舗装路になるので、我ら「ホガール軍団」は「これでサハラ砂漠縦断を達成した!」といって喜び、みんなで握手をかわした。そして12月18日の夕刻、アガデスに到着した。
「テネレの木」で
ニジェールのアガデスはサハラ砂漠を海にたとえれば港のようなところ。ここで準備を整え、サハラ砂漠縦断の車やトラックは960キロ北のアルジェリアのタマンラセットや1700キロ北東のリビアのセブハなどに向かっていく。そんなアガデスで1日、ゆっくりと過ごした。その夜、驚いたことに鎖骨を折った大家さんがタトゥーの運転するランクルにGS1200を積んでアガデスにやってきた。これから先、鎖骨バンドをしてバイクに乗り、ガーナのアクラまで走るという。
翌12月20日、腕におぼえのある8名は、アガデスの東側に広がるテネレ砂漠を目指し、午前9時に出発。DR−Z400Sの黒岩文雄さんが先頭を走り、カソリのDR−Z400Sが最後尾を走り、みなさんを間にはさむような隊列にした。それにサポートカーのランクルが2台ついた。
砂のような細かな土が溜まった土漠の道も、砂深い轍も快調に走り抜け、波のように次々と押し寄せる砂丘群を越えていく。テネレの砂丘群の美しさは話には聞いていたが、想像以上のものだった。
そんな砂丘越えでリザーブになった。コックの切り換えに手間取り、スピードが落ち、スタックしてしまった。痛恨のリザーブだ。
高速走行しているときはおもしろいように砂丘を登れるが、いったんスピードが落ちると、あっというまに砂にめりこんでしまう。砂丘の頂上まで半クラを使ってバイクを押し上げ、そこから全速力でみなさんを追った。しかしその姿はまったく見えない。
一刻も早く追いつこうとアクセル全開で走る。大砂丘を飛び越えた瞬間、「やったー」と、思わず目をつぶった。砂丘を越えた向こう側が急傾斜でストンと落ちていたからだ。たたきつけられ、バウンドしたが、かろうじて転倒をまぬがれた。
みなさんに追いつけないまま「テネレの木」に着いた。かつては砂丘群を抜けたこの平坦な砂漠に、どこからでも目につく1本の木があった。だが今は枯れ、それに変わって鉄製のポールが立っている。
夕日が地平線に近づいたころ、サポートカーが来てくれた。助かった。それにはサハラを知り尽くしているミッシェルが乗っていた。彼はアガデス方向に戻り、8台のバイクのタイヤの跡を確認すると、1本だけ離れていったタイヤの跡を追ってここまで来たという。なんとも不運なことだったが、砂丘群を間に置いてルートが2本に分かれてたのだ。
ぼくはその右側を走り、みなさんは左側を走った。サポートカーはカソリが来ないのに気がつき、2本のルートが合流する手前の、分かれている地点で止まったという。
サポートカーはぼくを残し、みなさんのいる地点に戻っていった。すぐに全員を連れてくるからと言い残して…。
ところがいつまでたっても戻ってこない。
日が落ち、暗くなった頃、サポートカーが戻ってきた。なんと黒岩さんが事故を起こしたという。すぐさま現場に急行。するとすでに黒岩さんの息はなかった。栗木さんが懸命になって人口呼吸をほどこしていたが、ほぼ即死状態で、黒岩さんの息は戻らなかった。
黒岩さんはルートが2本に分かれた間の砂丘をバイクで飛び越えようとしたという。
全速で砂丘に突っ込み、バイクから体が離れ、なんと砂丘のてっぺんから60メートルも飛んで砂の大地に頭から突っ込んだという。栗木さんの見立てでは脳挫傷だという。
すでに携帯でアガデスに連絡がいき、道祖神の菊地さんと医師の乗ったランクルが真夜中、事故現場に到着した。医師の検視の結果も栗木さん同様、脳挫傷で即死というものだった。黒岩さんの遺体はアガデスに送られていった。
翌朝、我々は「テネレの木」まで行った。
「日本人ライダー黒岩文雄、この地に死す」
モニュメントに英語で書き、カンビールやビスケットなどをそなえて全員で手を合わせ、黒岩さんの冥福を心より祈った。
12月22日、アガデスを出発。南下すると、みるみるうちに緑が増してくる。砂漠からステップ、サバンナ、熱帯雨林と鮮やかな変化が見られる。ギニア湾岸のガーナの首都アクラに到着したのは12月31日。チュニスから6763キロの「サハラ砂漠縦断」だった。