2011年5月30日
台湾最大の湖「日月潭」へ
標高2622メートルの「塔塔加遊憩区」から国道21号を北へ。
濃霧の中にそそり立つ2本の楠、「夫婦樹」は目に残った。
断崖絶壁の狭路を下っていく。すごい道だ。右手はまさに「千尋の谷」で、垂直に何百メートルも落ちている。断崖絶壁の狭路から2車線の幅広の道に出たときは、「おー、助かった!」と、TEKKENに乗りながら、喜びの声を上げたほどだ。
谷間をさらに下っていくと、2008年の台風で大きな被害を出した神木村に入っていく。土砂崩れの爪痕が残り、大雨に流された小学校が国道脇に見られた。
陳有蘭渓の河原には流されてきた大岩がゴロゴロしている。台湾の川は「渓」と書かれるが、まさに「渓」そのもの。台湾山脈から流れ出ると、滝のような勢いで流れ落ち、東の太平洋、西の台湾海峡へと流れ出ていく。このような地形なので、いったん大型台風が上陸し、大雨に見舞われると、各地で大きな被害を出す。
日本のテレビでは日本に接近、もしくは上陸した台風はこれでもか、これでもかといわんばかりに台風情報を流すが、進路が南にずれ、台湾に上陸した台風などはほとんど無視。同じ台風なのに…と思ってしまうが、そんな日本から外れた台風で、台湾が大きな被害を受けていることをここでは強く思い知らされた。
国道21号で陳有蘭渓の谷間を抜け出ると水里の町に到着。そこから台湾有数の観光地の日月潭へ。周囲35キロの日月潭は台湾最大の湖だ。
ビジターセンターでTEKKENを停め、ティールームで「日月潭紅茶」を飲んだ。
日月潭は湖に浮かぶ「拉魯(ラル)島」を境に東側が「日」、西側が「月」の形に似ているのでその名がある。「ラル」は先住民サオ族の言葉で、「祖先の霊が眠る場所」の意味だという。日月潭とその周辺の山々はサオ族の生活の舞台で、梟(フクロウ)がサオ族にとって吉祥のシンボルになっている。このあたりは日本のアイヌ文化に似ている。
日月潭紅茶を飲みながら、
「銀の滴降る降るまわりに 金の滴降る降るまわりに」で始まる『アイヌ神謡集』(知里幸恵編訳)の「梟の神の自ら歌った謡」を思い出す。アイヌにとって梟は神なのだ。
日月潭のビジターセンターを出発。湖畔の道を走り、国道21号で埔里の町に入っていく。ここは1999年の台湾大地震の震源地に近く、大きな被害を出したところだが、大地震の傷跡は今ではもうほとんど見られない。
台湾大地震の時は、日本からいちはやく支援を受けた。ということで今回の東日本大震災では「日本を助けよう!」と市民一丸となって募金活動を行い、多額の支援金を早々に日本に送ってくれた。そんな埔里なのだ。
埔里のスズキの販売店を訪問。販売店の社長夫妻には大歓迎され、果物をいただきながらしばしの歓談。店を出るときは哺里名産の米粉のプレゼント。ありがとうございます!
埔里は「台湾のヘソ」。「台湾中心の地」公園には「台湾の中心の地」碑が建っている。そこには「山清水秀」と書かれている。名水の地なので、ここは「紹興酒」の産地になっている。さらに「山清水秀」の地のなせる技なのだろう、埔里は「埔里美人」でも知られている。町を歩く女性にはなるほど美人が多かった。
埔里を出発。国道14号で霧社に向かっていくと、前方には青く霞んだ台湾山脈の山々が立ちふさがるように連なっている。平地から山地へ。TEKKENを走らせ、グングンと高度を上げていく。
霧社の町の手前には「霧社事件」の記念碑。「碧血英風」と書かれた白い石門をくぐると「抗日英雄像」があり、その奥に記念碑が建っている。
「霧社事件」は昭和5年(1930年)10月27日未明に起きた。山地民タイヤル族のモナ・ルタが率いる蜂起部隊約300名は霧社管内の駐在所を次々に襲撃し、巡査と家族を殺害し、大量の武器を手に入れた。
それを持って日本人学校を襲撃し、日本人の大人、子供134名を殺害した。当時、台湾を支配していた日本の当局は軍隊を動員したが、タイヤル族の蜂起部隊を鎮圧したのは事件発生から50日後のことだった。
「霧社事件」の記念碑前に建つ「抗日英雄像」というのはモナ・ルタ(莫那魯道)の像で、ここにはモナ・ルタの墓もある。
霧社からさらに国道14号を行き、すっかり暗くなった頃、標高1625メートルの清境に到着。暗い山中に煌々と明かりのついているコンビニがあった。このような山中にまでコンビニがあるのには驚かされた。
20時、「日光清境山荘」に到着。ここが今晩の宿。八ヶ岳山麓の清里のようなところだ。遅い到着になったので、すぐさま夕食の開始。台鈴のみなさんといつも通り、まずは「台湾ビール」で乾杯。夕食は「火鍋」だ。「清境農場」産のやわらかな肉は超美味。いくらでも食べられる。火鍋を食べながら、台湾ビールをおおいに飲み干した。
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