2011年5月29日
『国境を越えた愛』
高雄から国道3号で旗山へ。
古くから製糖業で栄え、古い家並みが今でも残る旗山に着くと、スズキの販売店を訪問。販売店の社長には旗山名産の落花生をいただいた。ここで一緒に走ってきたライダーのみなさんは高雄へと戻っていった。
旗山からさらに国道3号を行く。台湾山脈の山裾の道。TEKKENを走らせ玉井へ。
玉井でもスズキの販売店を訪問。社長夫妻と息子の家族でやっている。ちょうど居合わせた娘さんは英語が上手。奥さん手作りのマンゴーの浅漬をいただきながら、しばし娘さんとは英語で話した。
台湾では英語教育に力を入れてるとのことだが、うまく話せる人は少ない。英語を使う機会がないからだ。このあたりも日本と台湾は似ている。
台湾山脈の山麓の玉井からは烏山頭ダムへ。その近くにある「八田與一記念公園」に行く。公園に通じる「八田路」は、日本時代の日本人水利技術者、八田與一の名前をとったもの。海外で日本人の名前がついた通りといったらほとんどないだけに貴重だ。
「八田與一記念公園」には八田の住んでいた家が復元され、記念館には八田に関する資料が展示されている。
明治19年(1886年)、石川県河北郡花園村(現在の金沢市今町)に生まれた八田は東京帝国大学を卒業後、台湾総督府内務局土木課に就職し、嘉義や台南、高雄など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。八田は28歳の若さで着工中の桃園の大規模な感慨水利工事を一任され、成功させて高い評価を受けることになる。
大正7年(1918年)、八田は台湾南部の嘉南平野(嘉義から台南にかけての大平野)の調査を行った。ここは台湾の中でも特に広い面積を持つ平野だが、灌漑設備が不備なために、15万ヘクタールもの田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。
そこで烏山頭ダムを計画した。そのダムに阿里山を源とする曽文渓の流れを引き込む全長3078メートルの隧道も合わせて計画。当時としては世紀の大土木事業だ。
大正9年(1920年)に工事は着工され、昭和5年(1930年)、烏山頭ダムは完成した。その10年間というもの、八田は寝食を忘れてダム工事の陣頭指揮をとった。
烏山頭ダムの完成によって嘉南平野には網の目状の水路が張りめぐらされ、この地は台湾有数の穀倉地帯になった。
台湾の人たちは今でも「八田與一」を名を忘れることなく、今年(2011年)の5月8日、「八田與一記念公園」を開園させた。5月8日は八田の命日だ。
「八田與一記念公園」の案内板の台湾語、日本語の説明は「台湾を愛した外国人、八田與一技師を偲ぶため、2009年5月8日、馬英九総統は『八田與一記念公園』の造営を宣言しました」で始まっているが、その最後は次のような一文で締めくくられている。
「八田技師への感謝の念を忘れず、その心に触れ、この地に根付いた『国境を越えた愛』に触れていただきたいと心から願っています」
このように八田與一は今でも多くの台湾人に愛され、尊敬されている。まさに日台の架け橋になった人物といっていい。
「八田與一記念公園」を出発。ゆるやかな丘陵地帯を縫う道を走り、関子嶺温泉に向かう。TEKKENはパワフルなエンジンなので、アップダウンの連続する山道も難なく走り抜けていく。山の端に夕日が落ちていくと展望ポイントにTEKKENを停め、しばし落ちゆく夕日を眺めた。
夕暮れの関子嶺温泉に到着。日本の蔵王温泉のミニ版のような温泉地。ここは日本の統治時代から知られていた。関子嶺温泉には何軒かの温泉宿があるが、「関子嶺統茂温泉会館」に泊まった。部屋に入ると、さっそく大浴場の湯につかる。灰色をした泥湯。阿蘇の地獄温泉の泥湯に似ている。美人湯として知られているが、神経痛によく効くという。
泥湯から上がると夕食。台鈴のみなさんと一緒に「山頂居」という店に入る。いつものように「台湾ビール」の乾杯で始まる。
「シンクラー!(お疲れさま)」
「台湾ビール」を飲みながら炒飯、炒麺、炒青菜、揚豆腐、豚肉、白身魚、エビ&小魚のフライを食べる。豚肉入りのスープがうまい。
夕食を食べ終ると夜の関子嶺温泉の温泉街を歩き、「関子嶺統茂温泉会館」に戻った。
宿の中庭では野外ステージで演奏会がおこなわれていた。何と演奏されているのは日本の懐メロ。「上海帰りのリル」、「リンゴ追分」、「港町13番地」、「有楽町で会いましょう」…と、次々に演奏される。それに合わせて歌っている人たちがたくさんいる。年配の人たちだけでなく、若い人たちが歌っているのには驚かされた。自分を除けば1人も日本人のいない中で聞く日本の懐メロ。すごく不思議な気がした。台湾のみなさんは日本の歌が大好きなのだ。
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