2008年11月8日
「60代編日本一周」(1999年)はスズキの125ccスクーター、アドレスV125Gで走った。50代編の時と同じように金沢から能登半島に入り、時計回りで能登半島を一周した。
「60代編日本一周」の相棒はスズキのアドレスV125G
60代編日本一周(その1)
2008年11月8日。夜が明けると金沢駅前の「東横イン」を出発。国道8号沿いの温泉施設「テルメ金沢」(入浴料1050円)へ。大浴場と露天風呂の湯につかる。早朝からけっこう多くの人たちが入っている。湯から上がると食堂でバイキングの朝食(1050円)。イカ刺、マグロ、サケ、干物、ソーセージ、ベーコン、サラダ、温泉卵…と、ここぞとばかりに食べた。
金沢駅前を出発
「テルメ金沢」の湯に入る
「テルメ金沢」の朝食
朝湯に入り、朝食を食べ終えたところで、50代編の時と同じように金沢を探訪する。
最後に近江町市場を歩いた。
近江町はその名の通り、江戸時代に近江商人たちの開いた商人町。そこにある市場なので「近江町市場」だ。
近江町市場は午前中から買い物客でにぎわっている。大半は地元の主婦たち。これは金沢にとどまらず西日本に広く共通することだが、主婦たちは早い時間に買い物をすませる傾向がある。より鮮度の高い魚や野菜を買おうという意識が強いのだ。
「ハーイ、イラッシャイ、イラッシャイ!」
威勢のいい掛け声が聞こえてくる。ここには魚屋や八百屋、肉屋、乾物屋などの店が200軒以上も軒を連ねている。
魚売り場では金沢名物の甘エビが山のように積まれている。カニはズワイガニのほかに毛ガニも目につく。毛ガニはまだモゾモゾと動いている。鮮魚のみならず、焼魚も売っている。イワシやニシン、フグの粕漬や糠漬、カブラずし、大根ずしなどの売場もある。そこに長く厳しい冬を乗り切る生活の知恵を見るような思いがした。
野菜売り場に並ぶ能登産の栗や柿、松茸、加賀産の蓮根、白山のナメコ、シメジなどからは季節を感じた。
近江町市場を出発。すぐ近くの武蔵辻の交差点から金沢駅の西側を通り、犀川河口の町、金石(かないわ)に向かう。金石は江戸時代には金沢の外港として栄えた。当時は宮ノ腰と呼ばれた。北国街道の武蔵辻で分かれる宮ノ腰往還は、金沢にとってはきわめて重要な街道だった。
宮ノ腰は江戸時代の豪商、銭屋五兵衛、通称「銭五」の本拠地でもある。海運で巨額の富を成した銭五は最盛期には青森、弘前、松前、箱館(函館)、長崎、兵庫、大坂(大阪)、江戸に支店を置いた。当時としては日本有数の総合商社といっていい。
銭五は「海の百万石」といわれたほどの繁栄を謳歌し、北は樺太から南はジャワ島までの広い世界を相手に商売をした。そして莫大な利益を得た。礼文島最北端のスコトン岬で銭五の碑を見たことがある。
金石の「銭屋五兵衛記念館」を見学すると、そのあたりの銭五の歴史がよくわかる。日本海の海岸近くの銭五公園には銭屋五兵衛の銅像が立っている。
金石の銭五公園
金石の銭屋五兵衛像
金石を出発。金沢港を通り内灘へ。北陸鉄道浅野川線終点の内灘駅前を通り、内灘海岸に出る。広々とした砂浜。そこから海沿いの道を北上。国道249号に合流し、「なぎさドライブウェイ」を走った。
金沢港
なぎさドライブウェイ
羽咋では能登一宮の気多大社に参拝。七五三の着飾った男の子や女の子たちが、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんたちと一緒に次々にやってくる。境内では菊花展が開かれていた。見事な大輪の菊。神社背後の森は「いらずの森」と呼ばれる原生林で、ここには北陸でも随一の手つかずの自然が残されている。
能登一宮の気多大社
気多大社の菊花展
気多大社を参拝
気多大社の原生林「いらずの森」
能登一宮の気多大社を出発。アドレスを走らせ、能登半島の日本海側の外浦海岸を北上する。
志賀原発のわきを通り、福浦港に寄り、豪快な海岸美の能登金剛を見てまわる。
能登金剛のシンボル的存在の「厳門」を皮切りに、夫婦岩の「機具岩」や断崖がスパッと割れて奥深くまで切れ込んでいる「義経の舟隠し」、さらには「ヤセの断崖」、「関野鼻」といった名所が連続する。関野鼻の洞窟には裸弁天がまつられている。
関野鼻を過ぎると風景は一変し、琴ヶ浜の砂浜になる。
「門前じんのびの湯」(入浴料500円)に入り、門前の総持寺祖院を参拝。天気は急変し、小雪が舞った。門前をあとにし輪島に向かう頃には雪雲は切れ、青空が顔をのぞかせる。この季節の北陸はコロコロと天気が変わる。
輪島に到着。日本海の名所、鴨ヶ浦に立ち寄ったあと、輪島漁港の岸壁でアドレスを止める。輪島漁港からは輪島の町をひとまわりする。かつての輪島駅跡はバスターミナルに変わっていた。
能登金剛を行く
外浦海岸
輪島漁港
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