鵜ノ子岬→尻屋崎[058]

第4回目(15)2012年3月10日 – 21日

3日間の同行終了、再び宮古へ

 3月18日。スズキの村上さん、「スズキきずなキャリイキャラバン」のみなさんと一緒に、早朝の気仙沼を歩いた。

 気仙沼港前の「男山本店」の建物が目を引く。元々は3階建だったものが、1階と2階が潰れ、3階だけが残った。

「男山本店」は大正元年(1912年)創業の老舗。ほんとうにすごいことだが、このような大災害にもめげず、震災後も「蒼天伝」や「陸前男山」などの銘酒をつくりつづけている。「がんばれ、男山!」と応援したくなる。

 気仙沼港の岸壁には大島航路の「おおしま」が停泊していた。この大島航路の再開は早かった。震災後、20日あまりで運航を開始した。気仙沼湾に浮かぶ大島は東北最大の有人島。2002年の「島めぐり日本一周」の時に渡った縞だ。

「島めぐり日本一周」ではスズキの50ccバイク、SMX50を使ったのだが、気仙沼港から大島までは人が300円、50ccバイクが600円で合計900円だった。ところが乗用車の料金となると5000円前後にもなる。島民にとっては大きな負担。

 そこで大島に住む人たちは車を2台、持つという話を聞いた。1人1台ではなく、1台を島内で使い、もう1台は島外で使うためのものだ。まさに二重の多大な出費。島での生活の大変さの一端をフェリーで垣間見た。

 今、その大島への架橋計画が本格化している。大島大橋の一日も早い完成を願うばかりだ。

 気仙沼港前の森進一の「港町ブルース」の歌碑は残った。

「あなたの影をひきずりながら港、宮古、釜石、気仙沼」は胸にしみる。

 それにしても「港町ブルース」に出てくる宮古、釜石、気仙沼は、どこも大津波に激しくやられた。

 気仙沼港の周辺はまだ復興とはほど遠い状態だが、瓦礫のとり除かれたあとに花壇がつくられ、草花が芽を出しているのを見て救われる思いがした。瓦礫を撤去した跡地に新築の家が建っているのを見ると、我がことのようにうれしくなった。かなり規模の大きな仮設市場「復興商店街」も完成していた。

 気仙沼の町は市役所周辺や気仙沼駅周辺、新市街地のように無傷で残った部分も多いので、きっと復興のペースは速まることだろう。

 早朝の「気仙沼歩き」を終え、高台上の「ホテル望洋」に戻ってきた。

 朝食を食べ、8時出発。

 スズキのみなさんの乗った車をV−ストローム650でフォローする。

「ホテル望洋」の高台下の一帯は、「東日本大震災」では大地震に見舞われ、大津波に襲われ、さらにそれに追い討ちをかけるかのように大火で焼かれた。まさに三重苦だ。

 震災2ヵ月後に来たときはまだ焼き尽くされた町跡が生々しく残っていたが、今では瓦礫はすべて撤去され、何事もなかったかのように整地されている。

 気仙沼の大火は今回の震災では最大のものだ。

 この一帯が燃え始めたのは3月11日の夜になってからのこと。火は海上に流れ出した油に引火し、さらに燃え広がった。気仙沼湾は「火の海」になった。大津波で流された気仙沼港の22基のタンク、ドラム缶で6万本近くの油が大火をより大きなものにした。この大火で約10万平方メートルが全焼したという。

 鎮火したのは震災発生から12日たった3月23日の朝。出火原因は今だに特定されていないという。

 国道45号に通じる道路沿いの乗り上げ船は、震災1年後も、まだそのまま残っていた。この乗り上げ船は「第十八共徳丸」という330トンの大型巻き網漁船。この船を保存して大津波のシンボルにしようという計画もあるようだ。

 被災者のみなさんにとっては忌まわしい大津波の痕跡など見たくもないというのが本心だろうが、各地からその痕跡がどんどん消え去っていくなかで、象徴的なモノを残し、それを中心にして復興祈念公園を作るというのはひとつの考え方だと思う。

 気仙沼から国道45号を北上し、宮城県から岩手県に入った。
。この日の目的地は大船渡。陸前高田を通り、9時、大船渡のバイク店「オートランドリッキー」に到着。国道45号と国道107号の交差点に店はある。

「スズキきずなキャリイキャラバン」の活動が始まった。

 店内で奥様の入れてくれたコーヒーを飲みながら、三条社長の話を聞いた。

 ここは新しい店で、元の店は大津波で流された。三条社長はそれに屈することもなく、すぐさま、この新しい店を立ち上げた。お客さんの所有していた土地と建物を借り受け、それを新店舗にしたのだ。

 今回の大津波のような非常時では「絆」がすべてといってもいい。人と人とのつながりがいかに大きいかを教えてくれるような話だ。人は人に助けられて生きていくものだということを三条社長に教えられた。

 何ともうれしいことに、震災1年を前にして三条社長は借りていた土地と店舗をすべて買い取り、名実ともに自分の店にしたという。隣接した土地には何年か後にはビルを建て、立派なショールームにしたいと熱をこめて話してくれた。

 大津波にも全く負けていない三条社長の強さ、奥様との二人三脚にも心を打たれた。

 大船渡からもカソリ、大阪モーターサイクルショー会場のスズキブースMCの原智美さんに携帯で電話し、大船渡の状況や「オートランドリッキー」の様子などを話し、三条社長にも登場してもらった。スズキの村上さんがデジカメで撮った写真が会場のスクリーンに映し出されるようになっている。

 三条社長には昼時、盛駅に近い「ニュー香園」という中華料理店に連れていってもらい、「炒飯セット」をご馳走になった。その後、車で大船渡の町をぐるりとまわって案内してもらった。大船渡にも仮設の商店街や屋台村が誕生していた。

「スズキきずなキャリイキャラバン」は被災者のみなさんを支援するバイクやスクーターの無料点検だけでなく、スズキの電動スクーター「イ−レッツ」の試乗会をも兼ねている。それにはなんと神奈川県からやってきた古山夫妻が来てくれた。

 古山夫妻は日本のみならず海外もバイクで走っているが、今回は車での東北旅。2人は震災後、東北各地でのボランティア活動に参加するだけでなく、こうして2人で東北各地を旅している。

 前夜は大船渡の碁石海岸に泊まったとのことで、カソリが「オートランドリッキー」にいるという情報をキャッチして駆けつけてくれたのだ。

 さっそくイ−レッツを試乗した2人だが、
「新しい世界をのぞいたような気分!」
 とその印象を話してくれた。

 ぼくはその日は田老の「グリーンピア三陸みやこ」に泊まるつもりにしていたが、古山夫妻もそれに合わせて「グリーンピア三陸みやこ」に泊まるという。

 15時30分、「スズキきずなキャリイキャラバン」の活動終了。

「オートランドリッキー」の三条社長夫妻、スズキの村上さん、「スズキきずなキャリイキャラバン」のみなさんと握手をかわして別れ、大船渡を離れた。3日間、同行させてもらったので、スズキのみなさんとの別れには胸がジーンとしてしまった。

 V−ストローム650を走らせ、大船渡から国道45号を北上する。

 釜石、大槌、山田を通り、夕暮れの宮古に着いた。

 宮古を過ぎるとまたしても雪…。やはり宮古を境にして天気が変った。

 宮古を過ぎると、より自然の厳しい北東北に入っていくという感じだ。

 雪は前回ほどの降り方でなかったので助かったが、ヒヤヒヤドキドキのナイトラン。速度をギリギリまで落とし、絶えず後続車をバックミラーで確認しながら走った。

「グリーンピア三陸みやこ」に到着したときは心底、救われるような思いがした。

 さっそく大浴場の湯につかり、湯船では思いっきり体を伸ばした。寒さでギュッと縮んでいた血管が一気に開き、血液が音をたてて全身を駆けまわっていくのがよくわかった。それにしても3月の東北は寒い。とくに北東北は…。ここではまだ真冬同然の寒さだ。

 湯から上がる頃、古山夫妻も「グリーンピア三陸みやこ」に到着。一緒に夕食を食べ、そのあとは飲み会になった。

 ビールを飲みながら2人の東北旅を聞いた。

『ツーリングマップル東北』で大盛り上がりしたあとは、「鉄ちゃん」の古山旦那の鉄道の話になる。鉄道の専門用語がボンボン飛び出し、「鉄道旅」も大好きなカソリなのだが、もうついていくので精一杯。夫の隆行さんの鉄道への知識は大変なものだ。

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