鵜ノ子岬→尻屋崎[053]

第4回目(10)2012年3月10日 – 21日

「3・11」の東北はまだまだ冬

 3月14日。「グリンピア三陸みやこ」の夜明け。

 部屋の窓から明けゆく東の空を眺める。やがて太平洋の水平線から朝日が昇る。高台上にある「グリーンピア三陸みやこ」は大津波の被害を受けることもなく、無傷で残った。「東日本大震災」のあとはしばらく被災者のみなさんの避難所になっていった。

 ここから海岸に下ったところは小堀内漁港で、37・9メートルという大津波に襲われた。

 太平洋に昇る朝日を見たところで朝湯に入り、大浴場の湯にどっぷりつかる。ほかには入浴客もいないので、大浴場を独り占めにして湯につかった。

 朝湯から上がると朝食を食べ、「グリンピア三陸みやこ」を出発。広い敷地内を歩く。「グリンピア三陸みやこ」に隣接して大規模な仮設住宅ができているが、そこには田老の人たちが住んでいる。

 仮設住宅前のバス停から7時44分のバスで三陸鉄道北リアス線の田老駅に戻った。

 田老駅前に到着したのは7時58分。あたりは一面の雪景色で路面の雪は凍りつきアイスバーン状態だ。ツルツル滑るので歩くのも楽でない。この道を走って北に向かうのはもう無理だと判断した。

 じつは次の日(3月15日)の夜、スズキの村上さんと松島で落ち合うことになっていた。その後の3日間、「スズキキャリー・キャラバン」に同行して石巻、大船渡とまわることになっていたのだ。

 ぼくの最初の予定では東北太平洋岸最北端の尻屋崎まで行き、そこから松島まで戻り、村上さんに会うつもりでいた。ところがこの雪では尻屋崎まで行けるかどうかわからない。というよりも、田老から北に行くことすら難しい。

 そこで田老からいったん松島まで戻り、石巻、大船渡での「スズキキャリー・キャラバン」のイベントを終え、大船渡から再度、尻屋崎を目指すことにした。

 田老から松島までは往路では見られなかったところ、行けなかったところを2日がかりで走ることにした。

 まずは田老だ。

 田老で2時間ほど過ごし、10時に出発することにした。そうすれば気温が上がり、路面の氷も溶け、すこしは走りやすくなるだろうという読みからだ。

「3・11」の東北はまだまだ冬。それを田老であらためて感じるのだった。

 三陸鉄道北リアス線の田老駅を出発点にして雪の田老を歩いた。

 まずは田老駅のホームに上がる。三陸鉄道北リアス線のうち、宮古〜小本間は開通している。午前2便、午後2便と、1日4便の列車が走っている。

 田老駅前からは国道45号を越え、残った巨大防潮堤の上を歩いた。万里の長城を思わせるような巨大防潮堤のこの上を大津波は乗り越えていった。

 田老は総延長2433メートルの巨大な防潮堤が、城壁のように町を取り囲んでいた。「世界最強の防潮堤」といわれ、旧田老町は「津波防災の町」を宣言したほど。この巨大防潮堤が大津波から町を守ってくれるものと、誰もが信じきっていた。

 それが今回の「平成三陸大津波」では、まったく役にたたなかった。高さ30メートルを超える大津波は海側の巨大防潮堤を一瞬のうちに破壊し、内陸側の巨大防潮堤を軽々と乗り越え、185人もの犠牲者を出した。

 田老の防潮堤は二重構造で、中心点から東西南北の4方向に延びるX字型をしていた。そのうち残ったのは内陸側の2方向だけだった。

 田老は明治29年の「明治三陸大津波」、昭和8年の「昭和三陸大津波」につづいて、平成23年の「平成三陸大津波」でも町は全滅した。

 大津波に襲われて全滅した田老の町跡の端から端まで歩き、10時に田老駅に戻ってきた。わずか2時間だが、この間に気温は上がり、路面の雪は溶け、アイスバーンもシャーベット状になっていた。

「それ、行け!」
 と、気合を入れて田老の駅前を出発。

 V−ストローム650を走らせ、国道45号で宮古に向かっていく。

「進むも地獄、戻るも地獄」

 とはまさにこのことで、いくら路面の雪が溶けてきたとはいえ、宮古までの国道45号にはかなりの雪が積もっていた。

 日影に入るとパリンパリンツルンツルンのアイスバーン。その間はいったん路肩に出、後続車が途切れたところで足を着きながら低速で走った。田老から宮古までは15キロでしかないのに、そのわずか15キロ間を1時間以上かけて走った。

 宮古に到着すると宮古漁港でVストローム650を止めた。

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