鵜ノ子岬→尻屋崎[052]

第4回目(9)2012年3月10日 – 21日

「津波記念碑」の教え

 釜石を出発し、国道45号を北へ。

 両石湾の両石に到着。漁港は巨大な防潮堤で囲まれている。

 国道45号は震災前も何度となくバイクで走ったが、この両石漁港の巨大防潮堤を見るたびに、あまりの大きさから「無用の長物だ!」ぐらいに思っていた。ところがその巨大防潮堤は今回の大津波で破壊され、両石の集落は大津波に飲み込まれて壊滅した。

 両石から国道45号で恋ノ峠を越えると大槌湾の鵜住居に出る。ここまでが釜石市になる。鵜住居の町も全滅。ここでは1000人以上もの犠牲者を出し、釜石市内では最大の被災地になってしまった。

 釜石市から大槌町に入り、国道45号の旧道で中心街に入っていく。

 大槌は高さ22メートルの大津波に襲われ、町は全壊。1300人もの多数の町民が犠牲になった。

 大槌町の中心街を抜け出たところで国道45号に合流し、次に山田町に入っていく。山田も大槌同様、中心街は壊滅状態。山田漁港周辺の巨大防潮堤を見てまわると、一部は破壊されたものの防潮堤は残っている。高さ30メートルの大津波はこの巨大防潮堤を軽々と乗り越えた。

 このように隣り合った大槌町、山田町はともに大津波に襲われて壊滅的な被害を受けたが、2つの町には大きな違いがあった。

 大槌町は町役場が津波の直撃を受けて全壊し、町長をはじめ町役場の職員40名が亡くなった。それに対して山田町は町自体は大槌同様全壊したものの、高台にある町役場は残った。

 山田の町役場は高台にある。その隣の八幡宮には「津波記念碑」が建っている。1933年3月3日の昭和三陸大津波の後に建てられたもので、それには次のように書かれている。

 1、大地震のあとには津波が来る。
 1、地震があったら高い所に集まれ。
 1、津波に追はれたら何所でも此所位高い所へ登れ。
 1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。近くの高い所を用意して置け。
 1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな。

 山田の町役場はこの「津波記念碑」の教えを守り、それと同じ高さのところに建っているので無傷だった。ところが山田の中心街は「津波記念碑」の教えを無視し、それよりも下に町を再建したので「明治三陸大津波」、「昭和三陸大津波」にひきつづいて、今回の「平成三陸大津波」でも町が全壊した。しかし町役場が残り、しっかりと機能したことによってどれだけ救われたことか。司令塔を失った大槌町と、司令塔の残った山田町、この隣合った2つの町は対照的だ。

 山田の国道45号では車に乗ったkoshiさんに出会った。いままでに何度となく出会っているkoshiさんと一緒に宮古まで行く。

 山田の町を過ぎると、雨が雪に変わった。国道45号のブナ峠が大きな難所だったが、なんとか越えられた。

 宮古に到着したのは夕暮れ。雪がボソボソ降っている。

 宮古の町を通り過ぎたところでkoshiさんと別れた。宮古からはナイトランで青森県の八戸まで行くつもりだった。

 雪の国道45号を行く。気温が急激に下がり、雪が激しくなる。あっというまに路面は真っ白だ。

「ヤバイ!」

 このままでは転倒だ…。

 V−ストローム650の速度を落とし、路肩をソロソロと走る。

 トンネルを抜け出た下り坂が恐怖。

「あー、もうダメだ…」
 と何度、思ったことか。

 田老に近づいた。

 そのときV−ストローム650のすぐ後を走ってくれている車に気がついた。何とkoshiさんではないか。koshiさんはぼくのことを心配して戻ってきてくれたのだ。

 田老に到着。とにかく三陸鉄道の田老駅まで行こうと思った。それが簡単ではない。国道45号を左に折れ、わずかに下らなくてはならない。

「ここは勝負だ!」

 ツルツルの雪道を下り、ついに転倒することなく田老駅に着いた。

 雪はより激しくなり、もうまったく身動きがとれない。こういうときのためにキャンピング用具一式を持ってきていたので、田老駅の駐車場でひと晩、寝ようと思った。

 するとkoshiさんは、
「バイクを置いて、グリーンピアまで行ってみましょう」
 という。

 V−ストローム650を田老駅の駐車場に置くと、koshiさんの車に乗せてもらい、田老の「グリーンピア三陸みやこ」に飛び込みで行った。すると何ともラッキーなことに泊まれた。

 レストランで一緒に夕食を食べ、宮古に帰っていくkoshiさんを玄関で見送ったが、地獄で出会った仏のような人だった。

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