第4回目(8)2012年3月10日 – 21日
各地で瓦礫は撤去されたが
気仙沼からは国道45号を北上し、県境を越えて、岩手県の陸前高田市に入っていく。
気仙川の河口にかかる気仙大橋は大津波で流された。そのため陸前高田の町に入っていくのには、気仙川沿いにさかのぼり、大きく迂回し、国道343号→340号で陸前高田の町中を走り抜け、気仙大橋の対岸に出なくてはならなかった。大変な時間のロスだった。それが仮橋の完成で、震災以前と同じように直接、陸前高田の町に入っていけるようになった。
今回の東日本大震災の大津波で1800人もの犠牲者を出した陸前高田は壊滅状態。瓦礫はほとんど撤去され、うず高く積まれていた瓦礫の山も大分、処分されている。しかしあまりにもすさまじくやられたので、復興の芽すら見られないというのが現状だ。
「日本三大松原」に次ぐくらいの高田松原は全滅し、7万本以上もあった海岸の松はすべて流された。その中でかろうじて残ったのが「奇跡の松」。何としても生き延び、陸前高田の復興のシンボルになってもらいたかったが、潮をかぶった松は残念ながら立ち枯れしてしまった。
陸前高田の海岸は地形も変わり、高田松原海水浴場の長い砂浜は消えた。家族連れで賑わった夏の海水浴場のシーンが、しきりに目に浮かんでならなかった。あの賑わいがこれから先、戻ることがあるのだろうか…。
陸前高田の市街地跡を抜け出たところで国道45号を右折し、県道38号で広田半島に入っていく。ゆるやかに下ったところで県道38号の旧道と交差するが、この一帯は絨毯爆撃でもされたかのような被害地域が帯状になって東西に延びている。ここが大津波が激突した現場。半島の両方向から巨大な壁となって押し寄せた大津波が激突したのだ。
県道38号で広田半島を一周し、最南端の広田崎に立った。目の前にはウミネコの椿島が見える。対岸には長々と延びる唐桑半島が見える。
広田半島の広田崎とそれにつづいて黒崎と、2つの岬に立ち、一ノ関駅と大船渡の盛駅を結ぶJR大船渡線(気仙沼駅〜盛駅間は運休中)の踏み切りを渡る。大津波の直撃を受けてグニャグニャに曲がって流された線路は撤去されている。しかし大船渡線の復興、開通までには相当の時間がかかりそうだ。
陸前高田市から大船渡市に入り、末崎半島南端の碁石岬に立った。絶景岬の展望台からは正面に長々と横たわる宮城県の唐桑半島を、右手には陸前高田市の広田半島を見る。それにしても海が青い。
岬近くの漁港は壊滅的にやられ、周囲の堤防も大きく破壊されていたが、熊野神社の日本一の大椿、樹齢1400年の「三面椿」は残った。大津波は神社の鳥居前まで来たが、ここでも神仏の目に見えない力のすごさを見せつけられた。
碁石岬でうれしかったのは、震災直後、手回しの簡易給油機で早々に営業を再開したガソリンスタンドが、復旧していたことだ。
「頑張ってるなあ!」
と、思わず声が出る。
末崎半島から国道45号に出たところにある「つばき亭」で再度の昼食。「刺身定食」(1200円)を食べた。
国道45号から海沿いの道に入り、魚市場前でV−ストローム650を停めた。
魚市場は再開されている。魚市場前にはコンビニの「ヤマザキ」が新しくオープンし、漁業関連の店もオープンしている。製氷工場も完成している。大船渡漁港では復興に向けてのみなさんの「熱気」が感じられた。
JR大船渡線の線路に沿って走り、大船渡の中心街へ。瓦礫はほとんど取り除かれている。大船渡駅の周辺が大船渡の中心街になるが壊滅状態だ。さらに大船渡線の線路に沿って走り盛駅へ。そこが大船渡線の終点になる。
盛駅の駅前通り周辺は、大津波の影響をほとんど受けていない。ここでもわずかな高さの違い、地形の違いによる大津波の被害の有無、被害の濃淡を見せつけられた。
大船渡からは県道9号で綾里へ。ここは津波の特異地帯といってもいいほどで、明治29年(1896年)6月15日の「明治三陸大津波」では38・2メートルという最大波高を記録した。「明治三陸大地震」によってひきおこされた「明治三陸大津波」では2万1959人もの死者を出した。
さらに綾里では昭和8年(1933年)3月3日の「昭和三陸大津波」では28・7メートルという、これまた最大の波高を記録した。このときの「昭和三陸大津波」は死者1522人、行方不明者1542人を出している。そして今回の「平成三陸大津波」でも綾里湾で40・1メートルという最大波高を記録している。
綾里漁港でV−ストローム650を停めた。港をぐるりと取り囲む巨大な防潮堤と水門は無事だったが、防潮堤を乗り越えた大津波でかなりの家が破壊された。しかし何度も大津波に襲われている綾里ならではといったところで、一段、高くなった高台に建ち並んでいる家々は無事だった。ところが高台下の家々は全滅している。ここでも1本の線を境にして明暗を分けている。高台上の家々は昭和三陸大津波のあと、高台移転して造られた。高台の下は近年になって造られた家々だ。
綾里漁港の岸壁にいた漁師さんに話を聞いた。
その漁師さんは大地震の直後、船を沖に出して無事だった。このあたりの海はすぐに深くなるので港外に出れば高波やられることはないという。何度となく大津波に襲われてきた綾里の人ならではの話だ。
地盤沈下した綾里漁港の復興は進み、岸壁は70センチ、かさ上げされた。それでも本格的な復興はまだまだ先だという。
「2年、3年ではどうしようもない。20年、30年でも無理。元通りになるまでに50年はかかるな。その頃にはまた次の大津波がやってくるよ」
といって笑ったが、その言葉はぼくの胸に重く残った。
三陸鉄道南リアス線の綾里駅前の看板には、明治三陸大津波と昭和三陸大津波の被害状況が克明に記されている。それには「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」と書かれてあった。
綾里は今回の「平成三陸大津波」では津波教育が徹底しているおかげで、死者は30人ほどですんだ。ちなみに「明治三陸大津波」では1269人もの死者を出している。「昭和三陸大津波」でも180人の死者を出している。
綾里からさらに県道9号を走り越喜来(おきらい)へ。
越喜来湾の一番奥に位置する越喜来も、今回の「平成三陸大津波」では大きな被害を受けた。リアス式海岸の三陸海岸はこのようにいくつもの湾が連続するが、湾の一番奥にある町々はどこも全滅状態だ。
越喜来で国道45号に合流し、羅生峠を越え、吉浜湾の吉浜へ。ここまでが大船渡市になる。
吉浜では吉浜川の河口に行った。堤防は大津波にやられ、かなり破壊されている。それにもかかわらず吉浜の集落にはほとんど被害が出ていない。その理由は綾里と同じで、昭和三陸大津波のあと、集落は高台に移転したからだ。
そんな吉浜の海岸から「津波石」が見つかった。昭和三陸大津波の記録の彫り刻まれた「津波石」が、今回の大津波で土砂が取り除かれ、地表に姿を現したのだ。
吉浜からは鍬台峠を越え、釜石市に入る。
国道45号の峠はすべて長いトンネルで貫かれているが、峠を越えると海が変る。
鍬台峠を越えると唐丹湾になる。
唐丹湾岸の小白浜の海岸は巨大防潮堤がなぎ倒された現場。破壊された巨大防潮堤を見ると大津波のすさまじさが実感できるが、その反面、半分はきれいに残っているので工事に手抜きはなかったのか…といった思いにとらわれた。
国道45号で釜石へ。
町の入口にある「釜石大観音」(拝観料500円)を見に行く。ここは震災直後から営業している。展望台からは釜石湾を一望。湾口の防波堤は見るも無惨に破壊されている。この湾口防波堤は1200億円もの巨費を投じて2009年に完成。最大水深63メートルの防波堤は完成後、わずか2年で全壊した。
釜石駅前から釜石の中心街を走り抜けて釜石港へ。地盤が沈下した影響で釜石港周辺はかなりの地域が浸水したままだ。
そんな釜石港の堤防を突き破って3000トン級の大型貨物船、パナマ船籍の「アジアシンフォニー」が乗り上げた。各地の乗り上げ船は今回の大津波を象徴しているが、その中にあって最大の大物。釜石港の「アジアシンフォニー」は2011年10月、日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻された。
しかし釜石港の現状は復興にはほど遠いもので、閉鎖された港内にV−ストローム650では入れなかった。