賀曽利隆の観文研時代[107]

西原の麦食(1)

1986年

 観文研(日本観光文化研究所)の企画編集による『日本の郷土料理・全8巻』(ぎょうせい刊)では、麦食をテーマにして、山梨県上野原町(現上野原市)の西原(さいはら)を訪ねた。

 西原は四方を山々に囲まれた戸数400戸ほどの山村で、昭和30年の町村合併以前は西原村として一村を成していた。

 昭和20年代の後半にバス道路が完成し、甲州街道の上野原に通じるようになったが、それ以前は周囲の山々を越える峠道が主要な交通路になっていた。

 東側の数馬峠を越えて東京都の檜原村に、北側の鶴峠を越えて山梨県の小菅村に、西側の佐野峠を越えて山梨県の七保村(現大月市)に通じていた。そのうち鶴峠越えの道だけが現在、自動車道になっている。

 西原は桂川の支流、鶴川上流部の500メートル〜800メートルの高地に位置している。水田は皆無といっていいほどで、米を常食にするようになった昭和30年代以前は、夏作物の雑穀類、芋類、冬作物の麦類と、食料の大半を畑作に頼っていた。雑穀、芋、麦はかつての西原の食を支える3本柱になっていたのだ。

 西原の畑は狭い。それのみならず、所有者がいりくみ、こっちの畑、あっちの畑、山の畑と飛び飛びになっている。

 1戸当たり平均すると3反(約3000平方メートル)ほどしかない畑を一年中休ませることなく使い、倍の6反分にも1町歩(約1ヘクタール)分にも使って畑作物をつくってきた。

 雑穀類では粟、黍、稗、モロコシ、シコクビエやトウモロコシ、ソバ、芋類では里芋、山芋、サツマイモ、ジャガイモ、麦類では大麦、小麦と、多種の畑作物を作ってきた。

 米が主食になった今でも、西原ではそのような多種類の畑作物をつくる伝統を色濃くとどめている。上記の畑作物は今でもすべて作っているし、とくに粟、黍、稗、モロコシ、シコクビエの雑穀類をとりそろえてつくっているのは、日本でもここだけといっていい。

 多種類の畑作物を狭い畑でつくる伝統は今も生きつづけているが、それは家まわりの畑を見るとよくわかる。

 図は西原・下城のSさん宅の畑を季節を違えて示したものだが、下図は5月、上図は8月で、わずか2畝(約200平方メートル)ほどの畑を細分化し、多種多様の畑作物を作っている。

西原・下城のSさんの家まわりの畑
西原・下城のSさんの家まわりの畑

 また、見落としてはいけないのは、その畑の一角だ。一見すると雑草がおい茂り、人の手が入っていないように見えるが、じつはここには山から降ろしたフキやタラ、ウド、ネネンボウ(ヤマゴボウ)、コーレ(ヤマギボシ)などが半栽培的に作られている。