浮谷家を訪ねた
浮谷東次郎は大阪を出発したあとは、神戸まで行き、大阪に戻り、そして紀伊半島を一周して東京に向かおうとした。
だが、真夏の猛暑にやられ、紀伊半島一周を断念。再度、大阪に戻ると、途中、大津、名古屋、箱根湯本に泊まり、1500キロを無事に走りきって市川に帰り着いた。
カソリは翌朝、4時に大阪の「ロイヤルホテル」を出発し、浮谷東次郎と同じルートで名古屋へ。
ところで浮谷東次郎は関ヶ原を過ぎたところで、イタリア製バイクに乗ったイタリア人宣教師のエンリコさんに出会う。彼との出会いは、『がむしゃら1500キロ』のハイライトシーンといってもいい。一緒に走り、大垣の食堂で食事をし、そのまま名古屋の熱田神宮近くの教会で泊めてもらっている。
その教会を何とか探しだそうと、熱田神宮に参拝したあと、近くにあるカトリックとプロテスタント、2つの熱田教会に行った。
しかし、「それはコンクリート造りで、まわりは割合に高いコンクリートのへいで囲まれている。その灰色のへいを越えて、屋根の上に十字架が見えていた」と、浮谷東次郎が描写している教会とは違うものだった。
13時30分、名古屋を出発。
一路、東京へ。ハスラー50のエンジン全開で走る。
17時10分、浜松着。
19時50分、静岡着。
21時30分、三島着。
22時45分、小田原着。
さらに国道1号を走り、二宮の海岸で野宿した。
相模湾の波の音を聞き、星空を見上げながら、シュラフにもぐり込んで眠った。
翌朝は、5時30分、夜明けとともに出発。
平塚、横浜、川崎と通り、多摩川を渡り、9時30分、東京・日本橋に戻ってきた。
だが、『がむしゃら1500キロ』を追っての旅はまだ終わらない。
日本橋から千葉街道の国道14号で江戸川を渡り、千葉県の市川市へ。市川駅前でハスラー50を止めた。全行程1182キロの「市川−大阪」の往復だ。
旅のしめくくりに、市川駅にほど近い浮谷家を訪ねた。東次郎のお母さんの和栄さん、お姉さんの朝江さんにお会いしたが、大歓迎された。
お2人とも、上品さを体いぱいに漂わせているような方だった。
広い庭の一角には「浮谷東次郎記念館」があった。
そこには東次郎のレーシングカーのロータスElan1600やトヨタS800などとともに、あのドイツ・クライドラー社製2サイクル50ccエンジンのクライドラーが展示されていた。自転車に小さなエンジンがついた程度のバイク。
「よくぞ、これで、市川−大阪間を往復したものだ」
と、クライドラーの実物を見て、しみじみとそう思うのだった。
これは旅を終えて、帰宅してからのことになるが、浮谷東次郎が関ヶ原で出会ったイタリア人のエンリコさんと連絡がついた。
エンリコさんは72歳。すでに42年間、日本に滞在し、金沢市の三馬教会で神父をしていた。
エンリコ神父は40年近くも前の浮谷東次郎との出会いをまるで昨日の出来事であるかのように、はっきりとおぼえていた。
名古屋で一緒に泊まった教会は、日比野教会だと教えてくれた。雨の中で出会い、一緒に走り、食堂で一緒に食事をし、教会で一緒に泊まって夜遅くまで語り合ったことなど、エンリコ神父が語る浮谷東次郎の思い出話しを聞いていると、あらためて浮谷東次郎はすごい人物だと感じさせられるのだった。
浮谷東次郎さん、『がむしゃら1500キロ』のおかげで、とってもいいいい旅ができましたよ!
何度も繰りかえして読める本、ぼくはそれが古典だと思っている。ぼくにとっての旅の古典は芭蕉の『奥の細道』で、今までに何度、読んだかしれない。「サハラ砂漠往復縦断」のときにも持っていったほどだ。そのほかの古典というと宮本常一の『忘れられた日本人』や司馬遼太郎の『街道をゆく』などがある。
『奥の細道』や『忘れられた日本人』、『街道をゆく』などは、その文庫本を持って旅に出た。本の舞台に自分の足で立ち、本の舞台を自分の目で見て、「旅の偉人」の足跡を追った。浮谷東次郎の『がむしゃら1500キロ』もぼくにとってはそのような古典の1冊で、今までにも何度となく読んでいる。
浮谷東次郎は自分とほぼ同世代の人なので、読むたびに、「惜しいなあ…」と思ってしまう。
若くして自動車レースで命を落とさなかったら、後世に名を残すようなレーサーになっていたかもしれないし、自動車関連のすぐれたビジネスマンになっていたかもしれないし、ぼくはそれ以上に、浮谷東次郎のみずみずしい感性をもってしたら、後世に名を残す偉大な旅人になっていたのではないかと思うからだ。
浮谷東次郎の足跡を追う旅の最後では、東次郎のお母さんとお姉さんに会って話を聞いたが、お母さんの東次郎への想いは40年前とすこしも変わりがないに違いないと、ぼくにそう思わせるものがあった。
そのお母さんの和栄さんは、1999年2月21日に亡くなられた。きっと天国で最愛の息子、東次郎との40年ぶりの再会をはたしたに違いない。