賀曽利隆の観文研時代[17]

「雑穀」の村、山梨県西原

 日本観光文化研究所(観文研)発行の月刊誌『あるくみるきく』では、第66号(1972年8月)の「アフリカ一周」のあと、第114号(1978年8月)で「常願寺川」を書かせてもらった。

 富山県の立山連峰から流れ出る常願寺川を追った「常願寺川」は記念すべきカソリの日本デビュー号になった。

 つづいて125号(1977年7月号)では、「下関・二つの海峡の町」を書かせてもらった。二つの海峡の町というのは関門海峡の下関と朝鮮海峡の釜山で、下関のあとは関釜フェリーで釜山に渡った。

『あるくみるきく』の「常願寺川」と「下関」

 さらに第236号(1986年10月号)では、「甲武国境の山村・西原に食を訪ねて」を書かせてもらった。山梨県上野原市の山村、西原(さいはら)は、カソリが足しげく通ったフィールドなのである。

『あるくみるきく』の「西原」の号は次のような書き出しで始まる。

雑穀の村

『あるくみるきく』の「西原」

 今年(昭和61年)の5月中旬、私は山梨県の西原(さいはら)に行った。

 西原は山梨県の北東部に位置している山村。現在の行政区分でいうと北都留郡上野原町西原になるが、かつては西原村として一村を成していたところである。※上野原町は現在、上野原市になっている。

 私が西原に足を運ぶようになってから、すでに数年がたつ。

 西原に目を向けたのは、ここではいまだに多種の雑穀類が栽培されているからである。

 日本の文化を「食」を通して探ろうと、私たちの日本観光文化研究所(観文研)では、10年ほど前に「山地食文化」というテーマを立てた。

 山地にこだわったのは、平地に比べ、山地の方がはるかに伝統的な食文化が残されているであろうと考えたからだ。

 その「山地食文化」というテーマのもとで焼畑や狩猟、山菜・木の実・キノコ類の採取をおこなっている村々を訪ね歩き、自分の目でその実際を見てきた。

 はじめのうちは、特にこれといったポイントも持たずに何でも見てやろうという見方をしていたが、やがて日本からまさに消えようとしている雑穀類に注目するようになり、今も栽培している村をみつけ、そこをフィールドにしようと思うようになった。

 というのは日本人の主食になっている米以前を考える場合、雑穀類は欠かせないものだからである。

 何度も足を運べるようにと、東京周辺にフィールドを探した。

 バイクを走らせ、秩父や丹沢の山村をまわったが、わずかにアワやキビがつくられているだけで、これはというフィールドをみつけられなかった。

 それだけに西原で種々の雑穀類を見たときの驚きといったらなかった。

 それは昭和54年の秋のことだった。

 西原にやってきて村の中を歩いていると、あちこちで雑穀の畑を見た。とはいっても1畝(約100平方メートル)とか2畝といった猫の額ほどの狭い畑ではあったが、まるで雑穀の展覧会のように各種の雑穀が栽培され、穂を伸ばしていた。雑穀の穂が黄色く色づいている風景は、稲穂の広がる風景とはまた違って、しみじみとした実りの秋を感じさせてくれた。

 アワの穂はふさふさと頭を垂れ、黄金色に輝いていた。

 キビの穂は稲穂に似てだらんと重そうに穂先が垂れ下がっていた。

 ヒエの穂はキビとは逆に穂先を空に向けていた。

 モロコシは一見するとトウモロコシにそっくりだが、穂はまったく違う。丈の高い茎の先端にもじゃもじゃっとした穂をつけている。

 日本からはすでに消えてしまったのではないかといわれてるシコクビエもあった。西原ではチョウセンピエと呼ぶシコクビエの穂は、指をすぼめたような形をしている。

 これら雑穀類の収穫も見た。

 アワ、キビ、ヒエ、モロコシ、シコクビエと種類は違っても、すべて穂の下を鎌で刈り取る「穂刈り」なのである。

 雑穀の穂を軒下にぶらさげたり、莚(むしろ)に広げて干している光景は、
「雑穀の村」
 を強く印象づけるものだった。

 日本で古来から栽培してきたアワ、キビ、ヒエ、モロコシ、シコクビエと、これだけとりそろえてつくっているところは例をみない。

「よ〜し、決めた!」
 と、そのとき以来、私は西原に足を運んでいるのである。