賀曽利隆の観文研時代[15]

下北半島・佐井の「食」(3)

 日本観光文化研究所(観文研)の共同調査で入った下北半島の佐井では、1年を通して何かというと餅をつくる。

 その餅には大きく分けると、2種類ある。

 ひとつは糯米(もちごめ)を蒸籠(せいろ)で蒸し、横杵(よこぎね)を使って臼でついた餅。それを「ノシモチ」と呼んでいる。

 もうひとつは粳米(うるちまい)を糯米に混ぜ、竪杵(たてぎね)を使って臼でついて粉にし、それを湯で練り固め、蒸籠で蒸した餅。それを「ハタキモチ」と呼んでいる。

「ノシモチ」は正月用につく。元旦には雑煮を食べるが、餅はノシモチを長方形に切った「キリモチ」で、雑煮の汁はあっさりした味。神棚に供える雑煮はコブ、シイタケでダシをとり、醤油で味付けした汁に焼いたキリモチを入れる。それに刻んだシイタケを入れ、その上からノリをふりかける。家中の者が食べる雑煮は鶏や煮干しでダシをとり、醤油味の汁の中には焼いたキリモチを入れ、鶏肉を入れ、その上からノリをふりかける。

 そのほか小正月の行事として「ホモチ」をつくる。これはノシモチを小さくまるめ、それをアカギ(ミズキ)の木の枝先にたわわに付けたもので、神棚に供える。3月3日の節句にもノシモチをつく。このときはノシモチをひし形に切った「オニノシタモチ」や餡を入れて三角形に切った「フロシキモチ」をつくる。

「ハタキモチ」は春の彼岸につくる(なお佐井では秋の彼岸には墓まいりしないので、秋の彼岸にはつくらない)。その両面に餡をつけた「ビタリモチ」にする。4月8日の花祭りは月遅れの5月8日におこなうが、この日はハタキモチに餡をいれた「ハタキマンジュウ」をつくる。5月5日の節句も月遅れの6月5日におこなうが、この日は「ピコモチ」をつくる。ピコモチはハタキモチの一種で、金太郎あめのように、どこを切っても同じ色模様になる餅。松、桜、菊、あやめ、あさがおなどの花模様がある。またこの日は「ササモチ」をつくる。練り固めた米粉をササダケの葉に包み、蒸籠で蒸したものである。そのほか祭りの日にも、ハタキモチをつくる。神棚には元々はノシモチを供えていたが、それがハタキモチやハタキマンジュウに変わってきている。

 このように佐井では糯米をついてつくるノシモチよりも、粳米の米粉からつくるハタキモチの方がより多くつくられ、食べられている。水田のほとんどない佐井では飯に炊く粳米こそよそから入ってきたが、より高価な糯米はかつてはそうたやすく手に入るものではなかった。そのような理由からハタキモチが発達したようだ。

 ノシモチの臼(モチツキウス)とハタキモチの臼(ハタキウス)では外観が違う。モチツキウスはずん胴で、ハタキウスは胴がくびれている。モチツキウスはおおよそ5、6軒でひとつを持っている。その5、6軒が組になってノシモチをついている。それに対してハタキウスはほぼ全戸が持っている。それだけハタキモチはよくつくられるということになる。もっとも最近では製粉所に頼むことが多くなっている。

 ノシモチとハタキモチのほかに、佐井ではシトギもつくっている。9月15日の八幡宮の祭りや12月12日の山神の祭り、12月17日の木挽きの祭り、そのほか弁天様や恵比須様、大黒様の祭りなどではシトギを供える。家の建前にも欠かせない。

 シトギはひと晩水に浸した粳米を臼でつきつぶし、人肌よりも若干熱い湯で練り固めたもの。それを神棚などに供える。食べるときは焼いたり、ゆでたりすることもあるが、そのまま生で食べることが多い。

 宮本先生の『食生活雑考』の「モチとダンゴ」の項には次のように書かれているが、それを読むと、佐井でのノシモチとハタキモチやシトギのことがじつによくわかる。

「日本人はたいへんなモチ好きです。何か特殊な祝いごとがあると、かならずといっていいほどモチをつきます。そしてしらべてみると一年中多いところでは10回以上もついているのです。どうしてこんなにモチをたべるようになったのでしょうか。また今日のようなモチは昔からあったのでしょうか。どうもそうではないのです。古い書物を読んでいると餅ということばは出てきませんが、粢という字が出てきます。シトギと読むのです。シトギというのは米を水につけておいてやわらかくしたものをうすに入れてキネでつぶしたものを、まるめて固めたものです。これを神様にそなえたのです。
(中略)
 モチは秋から春までの冬の間に多くついたものですが、ダンゴの方は夏多くつくっています。五月のちまきのモチなど、米の粉を水で練ってかためたものを蒸すのですからあきらかにダンゴです。そのほか田植えのすんだあとのサナブリダンゴやシロミテダンゴ、半夏生のハゲダンゴ、お盆にもダンゴをつくります。そして秋祭りからモチになります」

 宮本先生はこのようにいわれており、佐井のシトギも餅以前の古いものであることが推測できる。

 宮本先生はまた、「生米をつきつぶしてまるめたものを蒸したり煮たりしたものをダンゴといいました」といわれている。先生のこのお言葉からすると、佐井のハタキモチは餅とはいっているが、正確にいえば団子の範疇に入る。

 餅と団子の区別はじつに難しいもので、たとえば誰もが知っている端午の節句につくる柏餅は餅ではなくて団子になる。宮本先生は「モチとダンゴ」の項では、最後に「仏教関係の行事のときはダンゴが多くつくられています。なぜそうなのかよくわかりませんが、とにかく、穀物をつきつぶして大きくかためてたべるたべ方が粒のまま食べる方よりも重んぜられていました」と団子の重要性を書かれているが、「餅と団子」は日本の食文化のキーワードなのである。

 佐井の餅にはジャガイモからつくる「イモモチ」もある。佐井ではイモといえばジャガイモのこと。サツマイモはあるにはあるが、ほとんど見かけない。

 九州山地の「東米良」ではイモといえばサトイモのことだったが、日本各地で「イモ」がどのイモを指すのかみていくのはおもしろいことだ。

 それはさておきイモモチのつくり方だが、まずはジャガイモを薄く切って1週間ほど水に浸し、干す。それを臼でついて粉にし、湯で練り固め、蒸籠で蒸す。ゆで上げることもある。それだからイモモチはハタキモチの1種になる。

 イモ粉のつくり方には、別な方法もある。それはいったん凍らせる方法だ。小さなジャガイモを集めると袋に入れ、冬の間中、外に出しておく。するとジャガイモは凍りつく。

 春になり、気温が上がり、溶けてきたところで皮をむく。それを水にさらしたあとで干す。カチンカチンに固くなり、水分が抜けてより小さくなったものを粉にする。この方法は南米のアンデス高地に住むインディオの「チューニョ」のつくり方によく似ている。

 インディオのチューニョの場合は、季節の気温の差ではなく、1日の気温の差を使う。佐井では冬と春の気温の差を利用するが、アンデス高地では気温の日較差がきわめて大きいので1日でやってしまう。夜間に凍らせ、昼間に干し…と、それを10日ほど繰り返すのだ。

 ジャガイモは「ジャガタライモ」からきた言葉。ジャガタラは今のインドネシアのジャカルタのこと。ジャガタラからやってきたオランダ船がジャガイモを日本に伝えたところから「ジャガタライモ」になり、それが「ジャガイモ」になった。

 ジャガイモの原産地は南米のアンデス高地。それが大航海時代に新大陸からヨーロッパに伝わり、さらに喜望峰、インドネシア経由ではるか極東の日本に伝わった。そんなジャガイモの伝播ルートの先端、下北半島の佐井で、原産地のアンデス高地と同じようなジャガイモの処理方法が見られることはなんとも興味深い。ぼくは佐井で「世界を駆けめぐる食文化」の現場を見る思いがした。

「ノシモチ」を搗く臼と横杵
「ハタキモチ」を搗く臼と竪杵