ロードレースのレーサーとして大活躍し、「世界一周ツーリング」を成しとげた堀ひろ子さんは、1982年にスズキのDR500で「サハラ砂漠縦断」を成功させた。その時のことを書いた『サハラとわたしとオートバイ』(大和書房刊)は講談社文庫の1冊にもなっている。

堀ひろ子さんが走ったサハラ砂漠縦断の西側ルート

 堀ひろ子さんはサハラ砂漠縦断の出発前に、日本観光文化研究所(観文研)にカソリを訪ねてきてくれた。サハラを一緒に走った今里(現姓腰山)峰子さん、サポートカー(ジムニー)の菅原義正さんと朝賀敏則さんも一緒だった。

 カソリはといえば、第4回「パリ→ダカール・ラリー」(1982年)に参戦し、大会9日目で立木に激突。サハラからパリの病院に空輸され、日本に帰った直後のことで、まだギブスもとれず、松葉杖で歩いているような状態だった。

 まあそれは置いて、堀ひろ子さんは『サハラとわたしとオートバイ』の中で、次のようにカソリとの出会いのシーンを書いてくれている。


 そこで、バイクでの海外ツーリングのベテランでもあり、アフリカにも詳しい賀曽利隆氏に相談してみることにした。彼ならこのルートについて詳しく知っているかもしれない、という期待があったからだ。

 はたして彼は輸送トラックに乗ってではあるが、2本のサハラ砂漠縦断ルートのうち、西側のルートを通った経験があるということだった。6、7年前の話であること、南から北へ逆に抜けたことを前置して、詳しく体験談を話してくれた。

「ミシュランの地図ではアルジェリアのレガンにガソリンがあるとされいますが、これはあてにしないで、アドラルで全部用意した方がいいでしょう。マリのテッサリットも同様で、先日のパリ〜ダカールではテッサリットはコースに含まれていたのですが、ガソリンはありませんでした。つまり、アドラルからガオまでの1600キロ間(彼の話では地図上では1500キロだが、1600キロとして計算した方が間違いないとのことだった)、ガソリンは補給できないと考えた方がいいですね。いずれにしても走破のカギはガソリンの確保と運搬です」

 賀曽利氏の話を要約すると、アドラルからガオまでの1600キロ分のガソリンをアドラル以北で準備すること。レガンからテッサリット付近までは草木一木もなく、ものの見事に見渡すかぎりの砂だけの世界であり、これだけの距離に全く何も存在しないという所は、世界でも珍しいのではないか。だが、路面はそれほど走りづらくはないだろう。テッサリットからガオ間の方が難所で、ジムニーがスタックすることは十分に予想される。いったん車がスタックすると、そこから這い出すのに膨大な体力と時間を費やしてしまい、やがて疲労困憊すると、「もう、ダメだ」と思い込んでしまいがちになる。そんな時はいったん休んで、一晩眠れば、次の日の朝には体力も回復して、「ガンバッテみよう!」という気になってくる。大切なのは、とにかく疲れ切ってしまう前に休むことだ、ということだった。

 彼はパリ〜ダカールのレース出場の際の負傷でまだ片足にギブスを巻いていたが、熱っぽく懐かしそうに、長時間に渡ってサハラについて語ってくれた。他にもたくさんの貴重なアドバイスを受け、私にとっては唯一の確かな情報の入手で、夢は次第に現実味を帯び、困難な旅であるという内容の如何に関わらず安心できた。


「サハラ砂漠縦断」を成功させた堀ひろ子さんは帰国後のお祝いの会に、カソリを呼んでくれた。その時、堀さんは次は中国のタクラマカン砂漠を走りたいと熱い口調で語ってくれた。タクラマカン砂漠といったら、ぼくの子供の頃からの夢。サハラ一色の華やいだ祝賀会場で、堀さんとタクラマカンで夢中になったシーンが懐かしく思い出される。

 そんな堀ひろ子さんは1985年に36歳という若さで亡くなった。