東北を行く[10]~3.11から3年~(3)

『バイク旅行』2014年夏号より

田老の「たろう観光ホテル」は残っていた。4階まで大津波に襲われた「たろう観光ホテル」は、後に東日本大震災の「震災遺構」として残されることになった
▲田老の「たろう観光ホテル」は残っていた。4階まで大津波に襲われた「たろう観光ホテル」は、後に東日本大震災の「震災遺構」として残されることになった
陸前高田、「希望のかけ橋」巨大なベルトコンベアの一部が完成した

 2014年3月14日、御崎の国民宿舎「からくわ荘」を出発し、唐桑半島を北上。三陸海岸屈指の海岸美を誇る「巨釜・半造」を見てまわる。巨釜のシンボル、高さ16メートル、幅3メートルのオベリスク状の白っぽい大理石の石柱は、明治三陸大津波(1896年)で先端から2メートルほどが折れた。それ以来、「折石」と呼ばれている。今回の平成三陸大津波を上回る2万人以上もの死者を出した明治三陸大津波のすごさを今に伝える折石なのだ。

 国道45号に出ると、県境を越えて岩手県に入り、陸前高田へ。

 3・11の2ヵ月後に見た陸前高田の惨状が目に焼きついている。

 陸前高田の町は全滅した。それのみならず「高田松原」の7万本あまりの松も根こそぎ倒された。堤防もメチャクチャに破壊された。すさまじいばかりの津波の破壊力をまのあたりにして茫然とした。その中にあって奇跡的に残ったのが「奇跡の一本松」だった。

 気仙川にかかる国道45号の気仙大橋は落下したので、気仙川沿いに大きく迂回しなくてはならなかった。気仙川沿いの町並みは壊滅状態で、ほとんど何も残っていなかった。JR大船渡線の陸前矢作駅まで行ったが、その近くまで大津波にやられていた。海岸から7、8キロという信じられないほどの広い範囲が大津波に飲み込まれたのだ。

 国道343号→国道340号で陸前高田の中心街に入ると、すべての信号は消え、岩手県警のみならず栃木県警とか千葉県警、福井県警などのパトカーが出て交通整理をしていた。国道45号に出ると、海岸には高層ホテル「キャピタル・ホテル」がポツンと残っていたが、全く使い物にならないくらいに破壊されていた。

 あれから3年。

 陸前高田の町の復興は遅々として進んではいないが、劇的な変化が見られた。気仙川をまたいで対岸の山から市内へ延びる巨大なベルトコンベアの一部が完成した。「希望のかけ橋」と呼ばれる土石運搬のコンベアで、2キロあまりの全部が完成すると、ダンプカーだと10年以上かかる盛土工事が2年くらいに短縮できるという。結局、枯れてしまった「奇跡の一本松」は金属製のレプリカとなって再登場したが、その「奇跡の一本松」が霞んでしまうほどの「希望のかけ橋」だ。かさ上げされた造成地の一部はすでに完成し、その上には以前よりも大分小さくなったが、「キャピタル・ホテル」が再建されて営業を開始していた。

大震災3年目にして三陸鉄道は完全復活をとげる

 陸前高田からは国道45号で通岡峠を越えて大船渡へ。大船渡漁港の岸壁でビッグボーイを停めた。大船渡の中心街は復興にはほど遠い状況だが、漁港周辺は活況を呈していた。新しい魚市場の完成が目前。ここは漁業・水産関係の展示室や展望デッキ、レストランなどを備えた複合施設だ。

 大船渡の町中を貫くJR大船渡線の線路はJRバス専用の舗装路に変わり、赤いハイブリッドバスのBRTが走っている。活気を取り戻した大船渡漁港から、大船渡の中心街を走り抜け、JR大船渡線の終点の盛駅へ。盛駅の周辺は大津波の影響をほとんど受けていない。盛駅はJR大船渡線の終点であるのと同時に、三陸鉄道南リアス線(盛〜釜石)の始発駅になっている。4月5日には全線が開通するとのことで、三陸鉄道の待合室にはお祝ムードがあふれていた。4月6日には北リアス線(宮古〜久慈)の全線も開通する。大震災3年目にして三陸鉄道は完全復活をとげる。

 盛駅のJR大船渡線のホームには赤いJRバス、BRTの気仙沼行きが停車していた。大船渡線の「盛〜気仙沼」間、気仙沼線の「気仙沼〜柳津」間がBTR区間になっている。乗りやすいバスで、3・11以前の鉄道よりもはるかに便数が増えているので好評だ。

 大船渡からは国道45号で釜石へ。その間では大峠、羅生峠、鍬台峠、石塚峠と越えていくが、それらの峠はすべて長いトンネルで抜けていく。

 釜石に到着するとJRと三陸鉄道の釜石駅に行き、三陸鉄道の釜石駅内にある「ジオラマカフェ」で「てりやきバーガーセット」を食べた。そのあと釜石市内をひとまわりしたが、大規模ショッピングセンターの「イオンタウン」の完成でにぎわっていた。この日はオープン3日目ということで、順番待ちの長い車の列ができていた。

 釜石を出発し、国道45号を北へとビッグボーイを走らせる。まわりの山々は一面の雪景色。切る風は真冬並みの冷たさだ。鵜住居(釜石市)でビッグボーイを停めた。ここは釜石市でも最大の被災地で1000人もの犠牲者が出た。悲劇だったのは、津波の避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した100人以上もの人たちが亡くなったことだ。その防災センターは取り壊されて更地になっていた。大津波に直撃されたJR山田線の鵜住居駅のホームに立ち、廃墟と化した町並みを見下ろした。

大槌、山田そして田老、町の復興はほとんど見られない

 釜石市から大槌町に入る。大槌町では地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど1300人もの犠牲者が出た。その町役場(今では旧町役場だが)はまだ残っていた。大槌の町の復興はほとんど見られないが、漁港周辺の復興はかなり進み、活気が見られた。新しい堤防の工事も進んでいた。

 大槌から山田へ。道の駅「やまだ」で「ワカメラーメン」を食べ、山田の町に入っていく。ここも大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上もの犠牲者が出た。鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで3000人以上もの人たちが亡くなっている。鵜住居から山田までは30キロ。ビッグボーイで走れば30分ほどの距離でしかない。JR山田線の陸中山田駅跡にビッグボーイを停め、廃墟のような山田の町を眺めるのだった。

 山田の気温は午後になっても氷点下で、チラチラと雪が降っている。国道45号で宮古に向かった。その途中で越えるブナ峠が難関だ。はたしてうまく越えられるかどうか。峠周辺はかなりの積雪だったが、幸いなことに路面に雪はなく、アイスバーンの区間もなかった。

 宮古に着くと天気は変わり、青空が広がった。これまでの「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、宮古を過ぎると雪に降られていたのでラッキーだ。宮古漁港に行き、昨年(2013年)7月にリニューアルオープンした「シートピアなあど」の道の駅「みやこ」で小休止。新しい建物の外壁には「2011・3・11 津波浸水 表示ライン」の青線が見上げるような高さに引かれている。

 宮古漁港から三陸海岸の名勝、浄土ヵ浜へ。この季節だとバイクでも車でも一方通行の道にそのまま入っていける。そして浄土ヶ浜の絶景をバックにして写真を撮ることができる。「浄土ヶ浜」の表示板は新たな国立公園名の「三陸復興国立公園」になっていた。

 宮古から国道45号で田老へ。

 田老は総延長2433メートルの巨大な防潮堤が、城壁のように町を取り囲んでいた。「世界最強の防潮堤」といわれ、旧田老町は「津波防災の町」を宣言したほど。この巨大防潮堤が大津波から町を守ってくれるものと、誰もが信じきっていた。

 それが今回の「平成三陸大津波」では、ほとんど役にたたなかった。高さ30メートルを超える大津波は海側の巨大防潮堤を一瞬のうちに破壊し、内陸側の巨大防潮堤を軽々と乗り越え、185人もの犠牲者を出した。

 田老の防潮堤は二重構造で、中心点から東西南北の4方向に延びるX字型をしていた。そのうち東側の防潮堤が破壊された。 田老は「明治三陸大津波」、「昭和三陸大津波」につづいて「平成三陸大津波」でも町は全滅した。

 ここでも町の復興はほとんど進んでいないが、漁港は整備され、ワカメの加工工場が完成し、漁港の周辺には活気があった。

 6階建の「たろう観光ホテル」の建物は残っていた。3階までやられたホテルの建物は田老を襲った大津波のすさまじさを見る者に伝える。ぜひとも残して、「平成三陸大津波」を後世に伝えてもらいたいものだ。

 今晩の宿、「グリーンピア三陸みやこ」に到着。広大な敷地内の一角には、田老の人たちが住む仮設団地がある。その一角に「たろちゃんハウス」と名付けられた3棟の仮設商店街がオープンした。「たろちゃんハウス」を見てまわったあと、「グリーンピア三陸みやこ」にチェックイン。大浴場の湯から上がると、レストランで生ビールを飲み干し、夕食の「海鮮重」を食べた。

道の駅「のだ」は「三鉄人気」で沸いていた

 翌3月15日、「グリーンピア三陸みやこ」から太平洋の海岸に下り、小堀内漁港に行った。今回の「平成三陸大津波」で波高37・9メートルを記録したところ。

 国道45号を北へ。宮古市から岩泉町、田野畑村と通り、普代村の海沿いの県道44号を行く。北緯40度線上の黒崎では、地球儀型をした北緯40度線のモニュメントを見る。カリヨンの鐘を鳴らし、高さ140メートルの断崖上から太平洋の海岸線を見下ろした。

 海岸に下った漁港は巨大な防潮堤に守られ、その内側の集落には、まったく被害は出ていない。防潮堤や水門が破壊されたり、大津波が防潮堤を乗り越えたりして大きな被害を出した現場を各地で見てきたので、ここではホッと救われるような思いがした。

 とはいっても、ここでも相当な高さまで津波が押し寄せている。漁港を過ぎた川沿いの山肌には、津波の駆け上った痕跡がはっきりと残っていた。20メートル以上の高さまで、樹木がなぎ倒されいた。

 普代からは国道45号で野田へ。ここは大きな被害を受けた。海岸の防潮堤は崩壊し、海岸からかなり内陸に入った町も多くの家が倒壊した。野田では押し寄せた津波よりも、引き波によって激しくやられたという。すべてを海に持っていかれ、何も残らなかったほどのすごさだったという。町の中心にある愛宕神社の見上げるような大鳥居は残った。そのすぐ近くには仮設の商店街がオープンした。

 道の駅「のだ」には何台もの観光バスが止まり、団体客が降りてくる。ここにある三陸鉄道の陸中野田から三陸鉄道に乗るツアー客。道の駅「のだ」は「三鉄人気」で沸いていた。

 野田からは海沿いの県道268号を行く。野田村から久慈市に入り、小袖海岸へ。ここは日本最北の海女漁の里。小袖海岸のきれいな海岸線を見ながら走る。狭路のカーブ、トンネルが連続する。断崖が海に落ち込む海岸線を走り抜けると、久慈の町に入っていく。久慈はそれほど津波にはやられなかった。30メートル超の大津波が押し寄せたが、人的被害は死者・行方不明者6名で、これは奇跡的な数字といっていい。

3月16日、下北半島北東端の尻屋崎に到着

 久慈を過ぎると、津波の被害は急速に薄れてくる。そして国道45号で岩手県から青森県に入った。今晩の宿は八戸駅前の「東横イン」だ。

 翌3月16日、八戸駅前の「東横イン」を出発。国道45号→国道338号で下北半島に入っていく。

 ラムサール条約登録地の仏沼や小川原湖から流れ出る高瀬川を見たあと、六ヶ所村から東通村へ。物見崎が六ヶ所村と東通村の村境。岬の突端には灯台が立っている。そこから南側は連続する断崖の風景、北側は活況を見せる白糠漁港と、岬をはさんで南と北ではガラリと風景が変わる。

 尻屋崎への快走ルート、県道248号を北へ。特産のヒバ林の中を走る。ビッグボーイを走らせながら、ほのかに漂うヒバの香をかぐ。これがバイク旅の良さというもの。五感を鋭くさせてバイクを走らせながら、その土地特有の匂いをかぐことができるのだ。

 県道248号の両側は一面の雪景色だが、路面にはほとんど雪がない。

 最後は県道6号で津軽海峡沿いに走る。対岸の北海道がはっきりと見えている。そして下北半島北東端の尻屋崎に到着。

 しかし岬への道は3月末まで冬期閉鎖。そこで尻屋の集落を走り抜け、太平洋側の尻屋漁港を「鵜ノ子岬→尻屋崎」のゴールにした。青い太平洋が目にしみる。

「ビッグボーイよ、よく走ってくれた!」