『地平線通信』2011年6月号より
●「鵜ノ子岬→尻屋崎」に旅立ち、「東日本大震災」の大津波で大きな被害を受けた東北太平洋岸の全域をバイクで走ってきました。出発点は東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬(福島県いわき市)、ゴールは東北太平洋岸最北端の尻屋崎(青森県東通村)です。岩手県北部の久慈を過ぎると大津波の影響は薄れ、青森県の三沢以北ではほとんど被害が出ていませんでした。それでも三沢漁港(ここはかなりの被害が出ています)で7メートル、白糠漁港(ここはほとんど被害は出ていません)で5メートルの大津波です。今回の大津波がいかにすさまじいものだったかが、東北太平洋岸最北の地の、この数字からもみてとれます。その途中の岩手県宮古市から田野畑村にかけては軒並み30メートル超の大津波が記録されています。
●三陸リアス式海岸の宮城県内の女川や雄勝、志津川、岩手県内の高田や大槌、山田などの町々は壊滅的な状態で、その惨状は目を覆うばかりでした。悪夢でも見ているかのようで、信じられないような光景がつづいていました。宮城県の石巻や気仙沼、岩手県の大船渡や釜石、宮古といった三陸海岸の拠点となる港も大きな被害を受けていました。牡鹿半島や広田半島などは大津波で半島全体がやられ、とくに牡鹿半島の集落は海岸に点在しているので、中心となる鮎川の町を含め、ほぼ全滅状態。広田半島では大津波が半島を両方向から押し寄せ、津波同士が激突した現場を見ました。
●その中にあって広田半島では、最南端の広田崎近くの漁港で1隻だけ残った漁船が大震災後、初の漁に出てカニ、タコなどをゴッソリ獲って帰港したシーンに出会いました。しかし出荷する魚市場もなく、製氷工場も壊滅状態で氷もなく、漁師さんは、ご近所のみなさんに配るのだといっていました。漁師さんの話はすさまじいものでした。大地震のあと、大津波が来るとわかったとき、家族の反対を押し切って港に駆けつけました。船をつないだロープを鉈でぶち切り、エンジン全開で沖に逃げたというのです。ほんとうに間一髪で、もしモタモタしてロープをはずしていたら、港内に押し寄せた大津波に飲み込まれてしまったということです。
●唐桑半島では南端の御崎近くの民宿「堀新」に泊まりましたが、そこの庭からは対岸の大島がよく見えました。ところが大津波が押し寄せたときは、押し寄せる巨大な黒い壁がすべてを覆い隠し、大島はまったく見えなかったといいます。巨大津波の「海の壁」は、高層ビル並みの高さで気仙沼の海岸に襲いかかってきたのです。
●このように鵜ノ子岬から尻屋崎まで、東北・太平洋岸の数百キロにも及ぶ全エリアに大津波が押し寄せたのですが、さすが日本の国力とでもいうのでしょうか、仙台以南の国道6号や仙台以北の国道45号をはじめとする幹線国道、国道につながっている県道はほとんどが通れました。通行止の区間は迂回路が通れるようになっていました。驚いたのは路面がまるで箒で掃き清められたかのように、どこもきれいになっていたことです。車道のみならず、歩道もきれいなところが多かったのです。そのすぐ脇は延々とつづくガレキの山なのに…。例外は爆発事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所の20キロ圏です。この立入禁止区域の影響は甚大で、福島県太平洋岸の「浜通り」は完全に分断され、20キロ圏の南側から北側に行くのは大変なことでした。
●福島県いわき市の四倉舞子温泉「よこ川荘」は営業を再開し、さっそく泊めてもらいました。「よこ川荘」には、4月の地平線会議の報告会で東京電力福島第1原子力発電所20キロ圏からの強制避難の生々しい話をしてくれた渡辺哲さんがバイクに乗って来てくれました。「よこ川荘」のおかみさんの話は衝撃的でした。新舞子浜では多くの犠牲者が出ました。いまだに行方不明の人たちも多くいるとのことです。犠牲者の出た理由のひとつには「津波見物」があったといいます。大地震のあとすぐに逃げれば助かったということですが、大津波警報が出ても、「どうせ4、50センチくらいの津波だろう」ということで、怖いもの見たさもあって、相当数の人たちが堤防上に座り込み、やって来る津波を見ようと待ち構えていたのです。ところが予想をはるかに超える大津波が押し寄せ、逃げる間もなく、あっというまに大津波に飲みこまれてしまったのです。
●この話を聞いた時、あらためて昨年(2010年)2月28日の大津波警報を思い返しました。前日のチリ沖地震の影響で、昼過ぎには日本に大津波が押し寄せるといって、日本中がちょっとしたパニック状態に陥ったのは、まだ記憶に新しいところです。NHKなどは全番組を停止して大津波警報を流しつづけました。この日は日曜日。鉄道が止まったりして行楽地から帰れなくなった人も多くいました。三陸海岸には10メートルを超える大津波が予想されるということでした。ところが実際に押し寄せた津波はメートル単位ではなく、センチメートル単位で、海面がわずかに盛上がった程度でした。人的被害も物的被害もゼロ。あの2010年2月28日の「大津波警報」が、翌2011年3月11日の2万人もの死者・行方不明者を出した津波被害につながっているとぼくは思っています。
●渡辺さんは大津波に襲われた直後の「よこ川荘」を見ています。その瞬間、温泉宿の再開はもう不可能だろうと思ったそうです。それが全国から集まったボランティアのみなさんの懸命な努力も手伝って、3・11の3ヵ月後を前に宿の再開を成しとげました。「大広間の水を吸った50畳もの畳を私一人で運び出したんですよ。ああいうのを火事場のバカ力っていうんでしょうね」というおかみさんの顔には大津波にうち勝ったという自信が浮かんでいるように見えました。このように頑張っている人たちが、東北各地にはたくさんいます。東北人は粘りづよく、人生に対して前向きで明るいように思われます。「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走り終えて得た大きな収穫は、そのような東北のみなさんに各地で出会えたことです。(賀曽利隆)