[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 2 モシ[タンザニア] → ダルエスサラーム[タンザニア]

キリマンジャロに登れない…

 モシからキリマンジャロ登山口の村、マラングーへ。マラングーに着くと、「キリマンジャロに登りたいのならば、キボホテルに行ったらいい」といわれた。キボホテルに行き、ドイツ人マネージャーに会うと、「キリマンジャロに登るのには、ガイドとポーターを雇わなくてはならない。当ホテルですべてアレンジします」といわれた。さらに「もし、ガイドとポーターなしで登ったら捕まって懲役刑ですよ」ともいわれた。まるでキリマンジャロを私物化しているかのような口調でいわれ、ぼくはムッとした。

 冗談ではない。ポーターもガイドも雇う金などある訳がない。で、一人で登ることにした。雑貨屋でパンと缶詰、バナナを買って山道を登っていった。道沿いには点々と小集落がつづき、バナナやコーヒー、トウモロコシが栽培されている。

 家並みが途切れたところでキリマンジャロが見えてきた。雲が切れ、最高峰のキボ峰がはっきりと見える。青空を背にした雪の白さがまぶしい。そのあとすぐに、もうひとつの峰のマウエンジー峰も見えてきた。

キリマンジャロを登っていく。キボ峰が見えてくる
キリマンジャロを登っていく。キボ峰が見えてくる
右手にマウエンジー峰も見えてくる
右手にマウエンジー峰も見えてくる
キリマンジャロの山麓。手前にサイザル麻が見える
キリマンジャロの山麓。手前にサイザル麻が見える

 キリマンジャロの2峰を見て、感激しながらさらに登っていくと、ゲートに出た。係官に「ここから先はチケットがないと入れない」といわれた。

「ここでチケットを買うことはできないのですか」
「だめだね。下のキボホテルかマラングーホテルでないと」
「そのチケットというのは、いくらなんですか」
「20シリングだよ」
「ここで20シリングを払うから、なんとか通して下さいよ」
「だめ、だめ。規則を曲げることはできない」

 仕方なく来た道を戻り、マラングーに下った。キボホテルにはもう行きたくなかったので、今度は試しにマラングーホテルに行った。が、やはり同じことだった。

「チケットだけを売ることはできないよ。ガイドとポーターを雇わなくては」
 といわれた。万事休す。キリマンジャロを諦めなくてはならなかった…。

 マラングーからは街道の分岐点のヒモまで歩いた。15キロほどある。夕日が沈みかけたころ、少年が話しかけてきた。

「寝るところがないのなら、いいとこ、教えてあげるよ」
 というのだ。

 彼についていくと、そこは学校だった。教室の机の上に寝袋を敷いて寝る用意をする。彼は12歳のジェームス。キリマンジャロで食べるつもりにしていた缶詰をあけ、夕食にする。ジェームスに一緒に食べないかといっても、首を横に振るだけ。彼はそのうち、帰っていった。

 翌朝は夜明けとともに目覚めたが、驚いたことに、ジェームスが来ていた。彼はこれからモシまで歩いていくという。一緒にヒモまでの道を歩く。歩くことにかけては、ぼくもかなり自信があったが、ジェームスの速さにはかなわない。彼についていくのがやっとだった。ヒモに着いたところで、ジェームスと別れる。彼は右へ、モシの町を目指して歩いていった。ぼくは左へ、ケニア国境を目指した。

タンクローリーの運転手

 ヒモからのヒッチハイクは快調。一発でケニアのボイまで行く車に乗せてもらえた。ヒモから15キロで国境。道はここまでは舗装路。ケニア側に入ると、真っ赤な土の道。モウモウと土煙りを巻き上げて車は走る。ツァボナショナルパークを横切っていく。キリマンジャロを一望。キリンを何度となく見る。10頭以上のゾウの群れも見る。

 ボイでナイロビとモンバサを結ぶ街道に出る。ここからモンバサまではキウリさんが運転するタンクローリーに乗せてもらった。高原を下り、インド洋岸に下っていくと、ムッとする暑さ。モンバサの入口あたりのトラックターミナルでタンクローリーを降りる。キウイさんには「がんばってまわれよ!」と、ポンと肩をたたかれた。

 モンバサを歩く。汗がドクドク流れ落ちる。港も歩いた。夜は貨物専用駅のかたすみでゴロ寝したが、さんざん蚊にやられ、あまりよくは眠れなかった。

モンバサに入っていく
モンバサに入っていく
モンバサの中心街
モンバサの中心街
モンバサの中心街
モンバサの中心街
街道沿いでマンゴーを売る少年たち
街道沿いでマンゴーを売る少年たち
タンクローリーの運転手のキウイさん
タンクローリーの運転手のキウイさん

 次の日、いったんナイロビに戻ることにした。モンバサの市内から郊外に歩いていく。交通量は多いのだが、ヒッチハイクはなかなかうまくいかない。車に乗せてもらえないまま、昼が過ぎてしまった。さらにナイロビに通じる街道を歩いていると、信じられないことが起きた。なんとキウイさんのタンクローリーが停まってくれたのだ。キウイさんは運転席から飛び下りると、ニコニコしながらぼくを手招きしている。

「さー、これから、夜通し走るからな。明日の朝にはナイロビに着いているよ」
 とキウイさんはいう。「モンバサ−ナイロビ」間は500キロだ。

 途中の村で止まり、食堂で夕食をご馳走になった。日が落ちると、ものすごい星空。夜がふけると、眠気に襲われる。キウイさんに悪いので、必死になって目をこじあけようとするのだが、ついウトウトしてしまう。そんなぼくを察してなのだろう、2度、タンクローリーを停めて仮眠した。

 夜が明けたところでナイロビに到着。キウイさんとは何度も握手をかわして別れた。

「また今度、見かけたら乗せてあげるからな」
 そんなキウイさんの言葉がうれしい。

「マリファナ4人組」

 ナイロビに戻ると佐藤さんのお宅で1日、ゆっくりと休ませてもらい、「東部アフリカ一周」に出発した。ナイロビの郊外まで歩き、この前のキリマンジャロに登ろうとしたときと同じルートでまずはタンザニアのアルーシャを目指した。

 アルーシャまでは若い男女の車に乗せてもらった。カナダ人男性が2人、女性が1人、それとアメリカ人男性が1人というメンバーだ。彼らはナイロビで車を借り、これから東アフリカをまわるという。彼らは車内でマリファナを吸っていたが、国境に近づくと、それをシートの中に隠した。国境を越えてタンザニアに入り、夕暮れ時にアルーシャに着いた。そこで「マリファナ4人組」と別れ、さらにヒッチハイクをつづけ、夜遅くなってモシに到着。町中のガソリンスタンドのすみでゴロ寝させてもらった。

ナイロビのモスク
ナイロビのモスク
ナイロビからアルーシャへ。草原の風景
ナイロビからアルーシャへ。草原の風景
牛の群れが行く。アルーシャ近くで
牛の群れが行く。アルーシャ近くで
ニャンゲさんのトラック

 夜明けとともに出発。モシから530キロのタンザニアの首都ダルエスサラームを目指した。運よく一発でダルエスサラームまで行くニャンゲさんのトラックに乗せてもらった。トラックが町や村で停まるたびに、ニャンゲさんには食事やお茶をご馳走になった。さらに車内ではカタコトのスワヒリ語を教えてもらった。スワヒリ語はタンザニア、ケニア、ウガンダの東アフリカ3国のほかにも、ブルンジ、ルワンダ、ザイール東部、ザンビア北部、ソマリア南部などで通用するアフリカの重要な言葉。とくにタンザニアでは国語になっている。

 1968年に東アフリカに来たときも、できるだけスワヒリ語をおぼえるようにした。しかし、しょせんは耳からおぼえただけなので、東アフリカを去ると忘れるのも早かった。ニャンゲさんにスワヒリ語を教えてもらうと、あのときの耳の感触がすこしは蘇ってくるようだった。

 まずは「モジャ、ンビリ、タトゥ、イネ、タノ、シタ、サバ、ナネ、ティサ、クミ」と、1から10までを教えてもらう。次があいさつ。スワヒリ語は朝でも昼でも夜でも「ジャンボ」が使えるのできわめて便利。英語の「How are you?」の相当するのが「ハバリ」とか「ハバリガニ」、「ありがとう」が「アサンテ」、「さよなら」が「クワヘリ」になる。さらに「はい」が「ンディオ」、「いいえ」が「ハパナ」、「どこに行くのですか?」が「ナクエンダワピ」、「どこから来ましたか?」が「ナトカワピ」、「日本から来ました」が「ナトカジャパニ」、「お名前は?」が「ジナラコニナニ」、「私の名前はタカシです」が「ジナラングータカシ」、「何歳ですか?」が「ウナミアカミンガピ」、「26歳です」が「ニナミアカ・イシリニナシタ」…と、ニャンゲさんに教えてもらった言葉をノートに書き、それを何度も繰り返していった。

みくびられたタンザニア政府

 その夜はインド洋の港町、タンガに通じる道と首都のダルエスサラームに通じる道との分岐点に近いコログウェで泊まることになった。ニャンゲさんは給油するためにカルテックスのガソリンスタンドに行った。

 ニャンゲさんはキリマンジャロ・リージョン(モシが中心地)の役人で、ダルエスサラーム港に農業機械を引き取りに行くところだった。彼はガソリンスタンドの主人に4枚のコピーからなる政府の支払い証明書のようなものを見せる。ところがガソリンスタンドの主人には何か強い口調で文句をいわれ、給油してもらえなかった。

 何といわれたのか聞いてみると、「ガソリンは現金でしか入れられない。政府は信用できない」といわれたというのだ。このあとトータル、シェル、アジップとコログウェにあるすべてのガソリンスタンドをまわったが、結果は同じで、どこでも給油してもらえなかった。給油できないまま、バスターミナルの近くにトラックを停め、そこで寝た。

 翌朝、ニャンゲさんは警察に行った。その支払い証明書が本物であるという証明書をもらうためだ。1時間以上もかかって証明書の証明書をもらい、再度、ガソリンスタンドをまわった。ところがやはり、どこも給油してくれなかった。まったくタンザニア政府もみくびられたものである。

 ニャンゲさんはついにその支払い証明書で給油してもらうのを諦め、お金を払った。
「ダルエスサラームに着いたら、役所で返してもらうから」

 といったが、ほんとうにすんなりと返してもらえるのかどうか…。ニャンゲさんが何か気の毒になった。

ダルエスサラーム到着

 給油を終えたところで、ダルエスサラームに向けて出発。コログウェの町を出るとじきに分岐点を通過する。ここを右へ、ダルエスサラームへ。左に行くとタンガに行く。このあたりは一面のサイザル麻畑。サイザル麻はマニラ麻と同じ硬質繊維の麻で、ロープなどの原料になる。タンザニアは世界的なサイザル麻の産地で、タンガはその積み出し港として繁栄した。ところがサイザル麻は最近ではすっかり化学繊維に押され、すっかり荒れ果てたサイザル麻畑をあちこちで見る。

 ダルエスサラームに向かって南下していくと、気候が変わったのが目でわかる。カサカサに乾いた茶色の世界から、したたるような緑の世界へと鮮やかに変わっていった。

 昼すぎにチャリンゼに着いた。ダルエスサラームからザンビアに通じる幹線と、ここで交差する。道の両側には食堂が軒を連ねている。ニャンゲさんはトラックを停めると、そのうちの1軒に入り、一緒に昼食をご馳走になった。

 チャリンゼからダルエスサラームまでは100キロほど。ダルエスサラームに着くと、町中を走り抜け、港へ。そこでニャンゲさんと別れた。よく晴れている。インド洋の海の色が目にしみる。ぼくがこれからザンビアからザイールに行くというと、ニャンゲさんはずいぶんと心配し、「ザンビアはともかく、ザイールには悪いやつが多いと聞いている。十分に気をつけて。持ち物から目を離してはダメだよ」と忠告してくれるのだった。

ダルエスサラーム港
ダルエスサラーム港
ダルエスサラーム港
ダルエスサラーム港