第4回目(6)2012年3月10日 – 21日
被災地の明暗
名取川河口の閖上から県道10号を北上し仙台へ。
仙台港周辺も大津波で大きな被害を受けたところだが、大半の工場は操業を再開している。ここでは仙台港のフェリー埠頭でV−ストローム650を停めたが、ちょうど太平洋フェリーの「いしかり」が名古屋港に向けて出港するところだった。
県道10号から国道45号に合流し多賀城へ。
多賀城では陸奥の国府、多賀城跡を見る。多賀城跡は無事。「奥の細道」ゆかりの壷碑も無事だ。
今回の東日本大震災の大津波は、死者2万1959人を出した明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」や、日本の史上最大といわれる869年の「貞観の大津波」に迫るもの。「貞観の大津波」では陸奥の国府は全滅した。多賀城跡だけでの比較でいえば、やはり1150年前の「貞観の大津波」の方がより大きな津波だったということになる。
多賀城から国道45号で塩竃へ。塩竃では奥州の一宮、塩竃神社を参拝する。
塩竃から松島へ。日本三景の松島は大津波の被害はそれほどでもなく、シンボルの五大堂や国宝の瑞厳寺にもほとんど被害は見られない。国道45号沿いの土産物店などもいつも通りの営業で、松島湾の遊覧船も運航している。松島湾に浮かぶ無数の島々と松島湾口に並ぶ桂島や野々島、寒風沢島といった浦戸諸島が、松島を守ってくれた。
松島からは海沿いの県道27号を行く。松島町から東松島市に入るとそこは「大塚」。JR仙石線の陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みも無傷。大津波の痕跡はまったく見られない。その次が「東名」で、ここには東名駅がある。
「大塚ー東名」間はわずか2キロでしかないが、この2キロが同じ松島湾岸を天国と地獄を分けている。ゆるやかな峠を越えて東名に入ると信じられないような惨状。大津波から1年になるが、復興とはほど遠い光景をそのまま残している。東名の大津波は石巻湾の方から野蒜海岸を越えて押し寄せてきた。
東名から野蒜へ。ここも大津波をまともに受けたところ。JR仙石線の野蒜駅前でV−ストローム650を停める。駅前の県道27号の信号は倒れたままだ。無人の野蒜駅構内を歩き、おそらく2度と使われることのないであろうホームに立った。
JR仙石線の野蒜駅跡をあとにすると、県道27号から鳴瀬川の堤防上の道を走り、国道45号に合流。東松島市の中心、矢本を通り、石巻の海岸地帯を走る。大きな被害を受けた日本製紙の石巻工場は復旧し、操業している。
旧北上川の河口をまたぐ日和大橋を渡り、石巻漁港へ。
漁港周辺の水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられたが、震災から1年がたったというのに、まだ瓦礫がそのまま残り、震災直後といった状態だ。
「もう再開しているのではないか…」
と期待した魚市場の「斉太郎食堂」だが、魚市場にはいまだに近づけない。石巻漁港の魚市場の再開までには、まだまだ相当な時間がかかりそう。石巻の被害は甚大だ。と同時に復興の遅れをものすごく感じた。
石巻からは国道398号で女川へ。渡波で牡鹿半島に入っていく県道2号と分岐するが、この一帯も激しくやられた。
ところが渡波を過ぎ、万石浦沿いになるとほとんど大津波による被害は見られない。
石巻市から女川町に入る。そこには「マリンパル女川」の仮設市場ができていた。
女川町に入っても、無傷の家並みがつづく。V−ストローム650に乗りながら、
「なぜ? どうして?」
と、思ってしまう。
万石浦沿いの方がはるかに大きな被害が出ても不思議でないような地形に見える。津波のメカニズムは不思議だらけだ。
JR石巻線の浦宿駅前を過ぎると万石浦を離れ、ゆるやかな峠を登る。峠上には女川高校がある。そこまでは全く大津波の痕跡はない。
ところが女川高校前を過ぎ、坂道を下り始めると、全壊した家々が見られ、全滅した女川の中心街が眼の中に飛び込んでくる。あまりにも無惨な光景。ここでは倒壊してひっくり返ったビルを何棟も見る。しかし3・11から1年がたち、女川の町の瓦礫はほとんど撤去されていた。
女川から国道398号で三陸のリアス式海岸を行き、ふたたび石巻市に入る。
旧雄勝町雄勝の公民館の屋根上に乗ったバスは3・11から1年を機に下に降ろされたが、雄勝湾の一番奥に位置する雄勝の町には何も残っていない。女川同様、町が消え去った。瓦礫が撤去されているので、よけい異様な光景に見える。まるで遺跡を見るかのようだ。ただ女川と違うのは、女川では復興の息吹きを強く感じたが、雄勝にはまったく感じられない。復興の気配さえないのが雄勝といっていい。旧雄勝町は石巻市と合併したことによって、石巻市から見捨てられてしまったかのようだ。
雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので長らく通行止がつづいたが、今は通行できる。
新北上大橋の右手には、今回の大津波では一番の悲劇の舞台になったといっていい大川小学校がある。ここでは78人の生徒と11人の職員が津波に流され、助かったのはわずか4人の生徒と1人の職員だけだった。ここは北上川河口から約5キロの地点。これだけの大津波が太平洋から5キロも内陸の地に押し寄せるとは誰も想像もしなかった。
新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。
2005年4月、平成の大合併で石巻市と雄勝町、北上町、牡鹿町、河南町、河北町、桃生町の1市6町が合併し、今の石巻市になった。そのうちの旧北上町の庁舎は北上川の河口近くにあった。避難所になっていたが、大津波はその庁舎を一瞬にして呑みこんだ。ここには吉浜小学校の生徒たちも避難していたが、多数の生徒が亡くなっている。
石巻市では今回の大津波で3000人以上もの犠牲者を出した。
その夜は旧北上町の民宿「小滝荘」に泊まった。飛び込みで行ったのだが、ありがたいことに夕食も用意してくれた。
夕食後、宿のみなさんの話を聞いた。
1年前の3月11日も寒い日だった。大津波から逃げて生き残った人たちも、その夜の寒さを乗り越えることができず、何人もの人たちが凍死したという。3月11日は東北ではまだ冬同然なのだ。
北上川河口の堤防上では大勢の人たちが津波見物をしていた。
「どうせ4、50センチぐらいの津波だろう」
と、誰もがタカをくくっていたという。ところが想像をはるかに超える20メートルもの大津波に車もろとも流されてしまった。
国道398号沿いの民宿「小滝荘」は高台にあるので無事だった。ここには相川小学校3年生の空君がいるが、相川は海辺の集落、相川小学校も海岸のすぐ近くにある。それにもかかわらず、空君を含めて70余名の生徒、全員が無事だった。
地震発生と同時に生徒たちは先生方と一緒に小学校の裏山を駆け登った。すぐ後まで迫る大津波の恐怖といったらなかったという。「東日本大震災」の3日前に、相川小学校では津波の非難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登った。相川小学校の裏山は、大川小学校の裏山よりもはるかに急な斜面。生徒たちは励ましあい、草の根につかまって山肌をよじ登った。
同じ石巻市内の大川小学校と相川小学校は今回の大津波ではあまりにも明暗を分けてしまったが、何度となく津波の非難訓練をやってきた相川小学校と津波の避難訓練を一度もやったことのない大川小学校の違いがあからさまに出てしまった。