賀曽利隆の観文研時代[89]

讃岐うどん(1)

1986年

 宇高連絡船の船上ですごい光景を見た!

 宇高連絡船は岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ連絡船だが、8月11日(1986年)、宇野発14時54分の第15便に乗った。船はお盆の帰省客をのせ満員だった。

 連絡船の甲板の片隅には「さぬきうどん」と染め抜かれたのれんを掲げた店がある。乗船してすぐ甲板に上がったのにもかかわらず、すでに店の前には長蛇の列ができていた。

宇高連絡船の船上で「讃岐うどん」を食べる大勢の人たち
宇高連絡船の船上で「讃岐うどん」を食べる大勢の人たち

 ベンチに座ったり、甲板にそのままベタッと座り込んだり、デッキにもたれかかったり…と、甲板のあちことちで、さまざまな格好で、男も女も大人も子供も湯気のたちのぼる讃岐うどんを食べている。

 それは壮観な眺めで、日本一の「うどん大国」、讃岐に入っていくのにふさわしいものだった。

 ぼくもさっそく讃岐うどんを味わった。

 夏の強い日差しを浴び、青々とした瀬戸内海の海を見ながら味わう讃岐うどんは、また格別なものだった。

「さすが!」
 と思わせたのは、うどんの腰の強さである。粘り気もある。歯ごたえがすごくいい。

 それと汁である。

 醤油よりも塩をきかせているので、汁は澄んでいる。見た目にもきれいだ。汁のだしは味には定評のある瀬戸内海産のイリコを使っているので、単調なものではなく、手のこんだ風味がある。

 瀬戸内海産のイリコは天下一品。カタクチイワシやウルメイワシなどの幼魚を煮てから干したもの。塩味とイリコだし、この2つが讃岐うどんのベースになっている。

 讃岐産の讃州塩は播州塩と並んで、味の良さで知られていた。

 塩の代名詞として「十州塩」の言葉が残っているが、瀬戸内海の讃岐、阿波、伊予、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門の10国の塩のことで、その中でも讃岐と播磨の塩は良質なものとされていた。讃岐うどんの塩味は、そのような讃岐塩の伝統に裏打ちされたものだった。

 宇高連絡船の甲板で讃岐うどんを食べていると、まわりの人たちの声が聞こえてくる。讃岐うどんを食べながら、「うどん談義」をしている人たちもいる。

「東京で暮らして、何が辛いかっていったら、このうどんを食えないことだな。東京のうどんは汁はまっ黒だし、気持ちが悪いよ。それに何よりも、汁に味がない。うどんもふにゃふにゃしている。東京人はよくあんなものを食えるよ」

「大阪のうどんはけつね(きつね)で有名だけど、讃岐のうどんとは汁が違うね。讃岐はイリコだしだけど、大阪はカツオだしだから。うどんのだしはイリコに限るよ」

 讃岐人たちの「讃岐うどん礼賛」の話はじつにおもしろいし、宇高連絡船の讃岐うどんの店に大勢の人たちが並ぶ理由をそこにみるような思いがした。

 讃岐への帰省客は故郷を目の前にして、讃岐の土を踏む前に、一刻も早く故郷の味を口にしたかったのだろう。その連絡船は午後の便で、昼食の時間はとうに過ぎていたが、讃岐うどんの店の行列は連絡船が高松港に入港する直前までつづいた。

 ぼくはその光景を見て、自分自身の体験を思いおこさずにはいられなかった。

 1年、2年と長期に海外を旅したことが何度かあるが、その間は日本食を食べたいとはまったく思わなかった。ところが帰国し、いったん日本の土を踏むと、無性に日本の味が欲しくなる。

 すし屋を見ると、ほとんど無意識のうちにのれんをくぐった。

 すしだけではない。うどん、そば、ラーメンを食べ歩いた。

 家でもご飯に味噌汁、納豆、豆腐、塩辛、海苔、漬物…といった日本の味を十分に堪能するまでの何日間かは、朝、昼、晩と食べた。まるで拒絶反応を示すかのように、日本的なもの以外は体が受け付けないのである。

 宇高連絡船の船上での光景は、自分自身の体験に近いように思えた。

 故郷を離れた讃岐人にとって、東京や大阪は異国のようなところ。そんな異国からの帰省で、最初に出会う故郷の味が讃岐うどんなのである。

 それだからこそ、一刻も早く故郷の味を確かめたくて、一目散に讃岐うどんの店に駆け込むのだろう。