六大陸周遊記[001]

アジア編 01 バンコク[タイ]→ タンジュンカラン[インドネシア]

出発点はタイのバンコク

 1973年の終戦記念日は、猛烈に暑い日だった。

 重いザックを背負い、水筒を肩からぶらさげたぼくは、羽田空港へと急いだ。

「これでしばらくは、日本ともお別れだな…」
 と思うと、いつもの見慣れているはずの東京がどこか知らない遠くの町に見え、なにか異国を旅している時のような新鮮な気持ちを感じた。長い旅に出る直前の、うれしいような、寂しいような、怖いような、揺れ動く複雑な心境だった。

 これから2年間の予定で、アジア、オーストラリア、アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカという順に世界の6大陸をまわろうという「六大陸周遊計画」と名づけた旅の第一歩。まずはタイのバンコクに飛び、マレー半島からインドネシアのスマトラ島に渡り、インドネシアの島々を東へ。東端のティモール島からオーストラリアに渡るのだ。

 17時45分発のパンアメリカン航空001便は、定刻よりも30分ほど遅れて羽田空港を出発した。暮色に包まれた日本列島を眼下に見下ろしながら、「六大陸周遊」の出発点、タイのバンコクに飛んだ。

 バンコクに到着すると、下町の安宿に泊まり、そこを拠点に町を歩いた。チャオプラヤ川の船にも乗った。まさに「水の都バンコク」。チャオプラヤ川の本流とその支流では、人々は川で体を洗い、洗濯をしている。野菜や果物、雑貨を満載にした船がひんぱんに行き交う。乗客を乗せた水上バスも行ききしている。そのあと、バンコク市内でバイクを借り、古都のアユタヤやクワイ川の「戦場にかける橋」などに行った。

 いよいよバンコク出発だ!

 バンコク中央駅のフォアランポーン駅から急行列車でマレーシアのバターワースに向かった。超満員の乗客。車内には入れず、デッキに腰をかけ、流れゆく田園風景に目をこらした。広々とした水田。日が落ち、あたりが暗くなっても外を見ていた。すっかり暗くなり、何も見えなくなっても、不思議と満たされた気分だった。「六大陸周遊」の旅に出た喜びがジワーッと胸にこみあげてくる。

 いくつかの駅に停まり、車内がすこしすいてきたところで通路にシートを敷く。夜がふけてきたところでシュラフにもぐり込んで眠った。窮屈な格好で、エビのように体をキュッと曲げて眠ったが、列車の規則正しいガタゴトン、ガタゴトン、ガタゴトンという振動音が子守歌になり、ぐっすりと眠れた。

 目がさめたのは夜が明けかかるころだった。天気は悪く、低くたれこめた雨雲からは細かい雨が降っていた。列車はすでにクラ地峡を通りすぎ、マレー半島に入っていた。熱帯の赤色土壌、ラテライトが強烈に赤い。線路沿いにはゴム園を多く見かけた。

 昼前に南タイの中心地、ハジャイに到着。乗客はゴソッと降り、やっと座席に座れた。そこから国境のパダンベサール駅へ。列車は1時間ほど停車し、駅でタイの出国手続きとマレーシアの入国手続きをした。タイからマレーシアに入り、終点のバターワース駅に着いたのは夕方。バンコクから24時間の列車の旅だった。

 フェリーで目の前のペナン島に渡る。島の中心のジョージタウンへ。安宿に泊まると、夜の町を歩いた。ジョージタウンには中国人が多く、にぎやかな目抜き通りに面して、何軒もの宝石店や金を売る貴金属店が軒を連ねていた。ここからインドネシアのスマトラ島に渡るのだ。

スマトラ島横断、バスの旅

 8月21日、ペナン島からマレーシア航空の851便で、インドネシア・スマトラ島のメダンに飛んだ。飛行機の小さな窓から、くいいるようにして濃紺のマラッカ海峡を眺めた。一筋の長い航跡を残して、大型タンカーがシンガポールの方向に進んでいた。

 飛行機は高度を下げ、厚い雲の中に入る。グラグラグラッと大きく揺れた。雲を抜け出ると、スマトラ島の長い海岸線が見えてくる。海岸沿いの平原の向こうには、山並みが連なっている。島とは思えないような雄大な風景。スマトラ島は面積が44万平方キロで、日本よりもはるかに大きい。

 このスマトラ島を皮切りに、ジャワ島、バリ島、ロンボック島、スンバワ島、フローレス島、ティモール島とインドネシアの大スンダ、小スンダ列島を島づたいに東へ、東へと進んでいくのだ。

 スマトラ島に渡ってまっさきに感じたことは、「なんて涼しいんだろう」ということ。マレー半島の暑さが厳しかったので、よけいにそう感じたのかもしれない。メダンはスマトラ島ではパレンバンと並ぶ大きな町。ここからスマトラ島南端のタンジュンカランまではバスで行く。その距離は日本列島縦断以上で、2000キロを超える。40人乗りのオンボロバス。窓ガラスはない。そのかわりにビニールで窓をカバーしている。満員の乗客。うれしいことに、ぼくの隣は若い女性のソフニ。バスには2人の運転手と2人の助手が乗っている。2人の運転手は交替でバスを運転し、昼夜の別なく走りつづけるという。

 スマトラ島横断のバスは人ごみをかき分けるようにしてターミナルを発車。ごちゃごちゃと家が建ち並ぶメダンの町並みを抜け出ると、一面のゴム園が広がる。ゴム園が途切れると、今度は油ヤシ園。ゴムと油ヤシの林が交互に車窓に現れた。

 マラッカ海峡沿いの平原からスマトラ島中央部の高地に入っていくと、一段と涼しくなった。肌寒いくらいだ。山々の間にきれいなトバ湖を見る。バスは湖畔の道を走り、中央高地の峠を越え、インド洋岸に下っていった。天気が変わり、激しい雨が降っていた。夜になってシボルガに着く。バスは夜通し走りつづける。なにしろ窮屈な座席なので、隣のソフニといやでもおうでも抱き合うな格好で寝るのが、なんともうれしいことだった。彼女の体のあたたかさがジンジン伝わってくる。

 真夜中にバスはガクンと止まった。ぬかるみに車輪をとられ、立ち往生してしまったのだ。ザーザー降りの雨の中、我々、乗客はズブ濡れになってバスを押した。

 スマトラ島横断の第2日目。雨はやむ気配もなく、ずっと降りつづいている。気温は20度を越えているが、寒さすら感じるほどだ。バスは赤道を越えた。赤道の通過地点には簡単なモニュメントがあった。北半球から南半球に入ったのだ。別に世界が変わるわけでもないが、赤道を越えたというだけで、なにか胸がドキドキしてくる。

 ブキティンギを通り、夜になってスマトラ島のインド洋岸では最大の町、パダンに着いた。ここでメダンから乗った乗客の大半が降りた。ソフニも降りた。彼女とは握手をして別れたが、ぼくのメモ帳に住所を書いてくれた。ひと晩、抱き合って寝た? だけに、忘れられないソフニだ。

 パダンを過ぎても雨は降りつづいた。スマトラ島のマラッカ海峡側とインド洋側では雨量が全然違う。マラッカ海峡側のメダンの年間降水量は2000ミリだが、インド洋岸のパダンはその倍の4000ミリにもなる。

 スマトラ島横断の第3日目。バスはインド洋岸から中央高地へと、山道をあえぎあえぎ登っていく。気温はグングン下がり、海岸地帯とは10度近くも違う。夜が辛い…。狭い座席で、ほとんど身動きもできない。その中で眠るのだから、思うことは「おもいっきり足を伸ばして寝たい!」ということばかりだった。

 スマトラ島横断の第4日目。目がさめるとすでに山影はない。バスはスマトラ島東部の広々とした平原の中を走っていた。地平線を赤く染めて朝日が昇る。天気がよかったのは早朝だけで、じきに雲に覆われてしまう。

 南シナ海に流れ出る川を何本も渡る。どの川も水量が豊か。悠々と流れている。川では村人たちが沐浴したり、洗濯をしている。ほとんどの川には橋がかかっていないので、フェリーで渡る。そのため川を1本渡るのに、ずいぶんと時間がかかった。

 ガタガタ道を走っているときに、ちょっとした事件が起きた。悪ガキが走ってバスの後部に飛び乗り、テールランプを盗った。運転手はバスを停めると、助手と一緒になって悪ガキを追ったが、逃げられてしまった。

 スマトラ島横断の第5日目。メダンと並ぶ大きな町のパレンバンに近づくと、油田から噴き出すガスを燃やす炎が、あちこちで見られた。日が暮れると、夜空を焦がす炎は不気味なほどだった。日本の援助でつくられたという大きな橋を渡ってパレンバンの町に入っていく。パレンバンまで来ると、「スマトラ島横断」も、やっとゴールが見えてくる。

 スマトラ島横断の第6日目。今日がいよいよその最終日だ。熱帯の巨木、マホガニーが空を突く森林地帯を見る。だが、それもごく一部で、伐採が激し過ぎた結果なのだろう、森林が草原に変わってしまったところを多く見かける。草原の中に残る巨木の切り株が、なんとも寂しげだ。西空がうすらとピンクに染まり、スマトラ島の山々が紫色に沈むころ、バスはスマトラ島南端の終点のタンジュンカランに到着した。

 ずっと固い座席に座りっぱなしだったので、尻が痛くて痛くてどうしようもない。バスの中ではあまりよく眠れなかったので、目が腫れぼったい。

「スマトラ横断」の6日間、ほとんど歩いていないので、バスから降りると、足がふらついてどうしようもなかった。夜はメダンから乗ってきたバスのバス会社、ALSの事務所で寝かせてもらった。部屋の片すみにシュラフを敷いて、思いっきり足を伸ばして寝ることができた。

カソリング33号 2003年2月1日発行より