[1973年 – 1974年]
アメリカ編 7 サンサルバドル[エルサルバドル]→ パナマ[パナマ]
ハリケーン・フィーフィー
中米・エルサルバドルの首都サンサルバドルを出発。南を目指したが、ヒッチハイクは難しい。まったく乗せてくれない。ほとんど1日歩き、ついにエルサルバドルでのヒッチハイクを断念、ホンジュラスとの国境までバスに乗った。
アメリカから国境を越えてメキシコに入ってからというもの、乗せてくれたのはすべてアメリカ人。中米でのヒッチハイクは不可能だ…。
国境に着いたのは深夜。ひと晩野宿し、翌朝、国境を通過した。
ホンジュラスに入るとバスで首都のテグシガルパへ。目をこらして車窓の風景を眺めつづけた。
イギリスを出発するとき、「ハリケーン・フィーフィー、60万人の家を奪う」という新聞一面の大見出しを見た。命綱に必死につかまって濁流から逃れようとする人たち、溺死した子供を抱きかかえて茫然とする父親、その2枚の大きな写真は強烈なインパクトで目の底に残った。
ハリケーン・フィーフィーは史上最大級のハリケーンで、死者は7000人から8000人。とくにホンジュラスのカリブ海沿岸で大きな被害が出た。
しかしエルサバドルとの国境から太平洋側を通っているからなのだろう、ハリケーン・フィーフィーの被害の様子はまったくみられなかった。
こじんまりとしたテグシガルパの町を歩いたあと、ここからもバスに乗り、ニカラグアとの国境へ。小さな国がつづく中米なので、簡単にひとつの国を横断し、次の国に到着する。もう中米では「ヒッチハイクをしない!」と決めたので気が楽だった。
廃墟と化したマナグア
ニカラグアに入り、バスで首都のマナグアへ。日が暮れ、夜になってからマナグアに着いた。世界中に大きな衝撃を与えた1972年12月24日の「マナグア大地震」のマナグアだ。
大地震からすでに2年近くたっているが、死者は何万人になるのか、いまだにわかっていない。
バスターミナルでひと晩ゴロ寝し、翌朝、マナグアの町を歩いて愕然とした。中心街はまさに廃墟といっていい。復興にはほど遠い状態で、あたり一面、草原が広がっている。マナグアは地上から消えてしまったかのようだ。
廃墟と化したマナグアを歩きながら、ぼくは東京を思った。
「東京もいつかこうなるのか…」
という漠然とした恐れ。
高層ビルが倒れ、あちこちから火の手があがる東京の光景がマナグアと二重映しになった。
国境での詐欺!?
マナグアからもバス旅がつづく。
まずは国境まで行き、コスタリカに入ると、首都サンホセ行きのバスに乗った。
夜のサンホセに到着。バスターミナル近くで野宿した。
夜が明けると、サンホセの町を歩き、7時45分発パナマ行きの「ティカバス」に乗った。トイレつきの大型バスだ。
国境に到着。コスタリカの出国手続きを終え、中米最後の国、パナマへ。
ところがパナマにはすんなりとは入れなかった。
外国人はパナマからの出国のチケットがないと、入国は認められないという。
そのバスにはぼくのほかに2人のスイス人、2人のノルウェー人、アメリカ人の老夫婦、カナダ人が乗っていた。8人全員でイミグレーションに猛烈に抗議したが、認められなかった。国境には「ティカバス」のオフィスがあり、そこで「パナマ→サンホセ」の切符を買うようにといわれた。
パナマに入れなければ、ここからサンホセまで戻るしかないので、全員がその切符を買った。我々、外国人全員はパナマから南米のコロンビアに渡るので、「パナマ→サンホセ」のチケットなど必要はない。おまけにそのチケットはパナマでキャンセルはできないといわれたのだ。
これではイミグレーションとバス会社がグルになった詐欺ではないか。
さらにトラブルはつづいた。税関での荷物検査では「正露丸」の小瓶がひっかかった。検査館は「麻薬だ!」といって顔色を変えた。麻薬ではなく薬だといっても信用されず、自分だけがバスから降ろされるのを覚悟した。
しかし、いよいよバスが発車するという時になって、白黒をつけず「正露丸」を没収するということで決着がつき、パナマ行きのティカバスに乗れた。
パナマの首都パナマに着いたのは夜中の1時。この夜もバスターミナルの近くで野宿した。