[1973年 – 1974年]
ヨーロッパ編 5 アレニス[スペイン]→ セルベレ[フランス]
「イギリスまで乗せてもらえませんか?」
スペイン北部の地中海岸の町、アレニスのユースホステルではフルコースの昼食を食べ、何とも気持ちのいい昼寝をした。夢心地で目覚めると、イギリス人旅行者のジムはまだ寝息をたてていたが、彼の起きるのを待って一緒に町を歩くことにした。
ジムは目覚めると、町に出ていく前に、5年前にこのユースホステルに泊った時の話をしてくれた。
そのときは、車でアフリカを旅し、イギリスのロンドンに帰る途中だったイギリス人も泊まっていたという。
その車に同じくロンドンまで行こうとしていたオーストラリアからの青年と南アフリカからの若い女性、それとジムの3人が、ガソリン代を払って乗せてもらったという。
ジムは今度もまた、そんなうまい話があるかもしれないといって、紙とマジックを借りに事務所にいった。
戻ってくるなり、
「タカシ、おまえもどうだ」
という。
ぼくもスペインでのヒッチハイクはもううんざりだったので、喜んでその話にのった。ジムはすぐさま、
「Two Passengeres would be glad of a rift to England. Would share cost of petrol. (イギリスまで乗せてもらえたらうれしいのですが。2人です。ガソリン代は分担してお払いします)」
と書いて、その紙を掲示板に貼った。
「タカシ、これでよし!」
「ジム、うまくいくといいね」
「あー、今、旅してる!」
ジムと夕暮れのアレニスの町を歩き、地中海に面した公園のベンチに座り、暮れゆく海を眺めた。暗くなると裏町のカフェに入り、1杯のコーヒーで1時間以上もねばった。
ジムは冷たくなったコーヒーをすすりながら、遠い昔に目をやるように、過ぎ去った旅の思い出話を聞かせてくれた。
一生涯、旅をつづけたいというジムの話には、すごく胸を打たれた。
さらに夜のアレニスの町を歩きつづけ、歩き疲れたところでユースホステルに戻った。我々の部屋には、2段ベッドが全部で10個置かれていた。
その部屋には4人のアイルランド人と2人のドイツ人、2人のイギリス人、ベルギー人とカナダ人が1人づつ、それとぼくとジムの12人が泊っていた。
お互いに旅人同士、国籍も年齢も関係なく、すぐにうちとけてお互いの旅情報を交換し合った。その中でも印象的だったのは、ベルギー人青年の話。アフリカのザイール横断の壮絶な旅を話してくれた。
「あー、今、旅してる!」
と、そんな気持ちにさせてくれるひと時だった。
大盛り上がりの旅話がつづいたが、やがて消灯時間になり、部屋の明かりが消えたところで我々の盛上がった旅話も終りを告げた。
電車でフランス国境へ
翌朝、事務所前の掲示板に行ってみたが、ジムの書いた貼紙に反応はなかった。
その掲示板にはオランダのアムステルダム警察から送られてきた文書が張られていた。それには日本人旅行者が殺された事件で、フランス人男女が逮捕された、みなさんのご協力を感謝しますといった旨が書かれていた。
ジムと一緒に食堂でコーヒーとパンの朝食を食べる。
彼はバルセロナに戻り、バスでフランスのパリまで行き、そこからは大幅な割引のあるロンドン行きの夜行列車に乗るという。
ぼくはアレニス駅から電車でフランス国境まで行き、フランスに入ったところでまたヒッチハイクを再開することにした。
ジムと別れ、アレニス駅へ。フランスの国境の町、セルベレ駅までの切符を買う。1500ペセタで決して安くはなかったが、あの地獄のようなスペインでのヒッチハイクはもうしたくはなかった。
切符を買うと60ペセタのコインが余った。それでイギリスの新聞「ザ・デーリー・テレグラフ紙」を買った。なにしろニュースに飢えているので、電車に乗るまでの1時間半、夢中になって読んだ。
11時41分発のセルベレ行きに乗る。この日はあいにくの霧雨で、真っ青な地中海はかげをひそめ、ボーッと一面鉛色にけむっていた。
電車は地中海の海岸を離れると内陸へ。森を走り抜け、バルセロナからの幹線に合流。ゲローナの町を過ぎると、遠くにはピレネー山脈の山並みが見えてくる。ピレネー山脈に近づくにつれて真っ黒な雨雲は後ろに去り、前方には水色の空が広がっている。風が強い。
ピレネー山脈の山々がグングン迫り、トンネルに入る。2番目のトンネルを抜け出ると、真っ青な地中海が見えてきた。強風の影響で、あちこちに波頭が立っている。青い海と白い波頭の対比が色鮮やかだ。
スペインの国境の町、ポルトボウを過ぎるとまもなくフランスの国境の町、セルベレに到着。そこが電車の終点だった。電車を降りると、スペイン、フランス両国のイミグレーションと税関があるが、両国ともフリーパス。
こうしてスペインからフランスに入ったのだ。