[1973年 – 1974年]
ヨーロッパ編 4 バルセロナ[スペイン]→ アレニス[スペイン]
飛び降り自殺…
イギリス人旅行者のジムと一緒にバルセロナ駅から郊外電車に乗ってアレニス駅へ。
どんよりとした曇り空を映して右手の地中海は重苦しいような灰色をしていた。
カーブにさしかかると電車は速度を落とした。そして陸橋の下を過ぎたところで急ブレーキがかかり、ガクンという衝撃とともに止まった。
ぼくは窓側の席に座っていたのだが、電車が止まる直前、線路のわきにころがっているマネキンのようなものを見た。マネキンのようなものは服を着ていたが、異様に膨れ上がっているように見えた。
そのうち車内がざわつきはじめ、
「女の人が陸橋から飛び降り自殺をした」
という話があっというまに広まった。
「あれはマネキンではない、死体なんだ」
とわかると、急いで窓を開け、2、30メートルほど先にころがっている死体に目をやった。すでに数人ほどの人たちが電車から降り、すこし距離をおいて線路わきの死体を囲んでいた。
ショックだった。
ここまでの旅では何度も死にそうになったが、すぐ近くで人間の死体を見るのは26年の我が人生ではじめての経験だ。
彼女はつい今しがたまで、ぼくと同じように息をしていた。頭の中ではいろいろなことを考えていたのに違いない。しかし橋から飛び降り、電車にはね飛ばされた瞬間、すべてが止まり、すべてが終り、マネキンと何ら変らない1個の物体に変りはててしまった。
ぼくは思わず目をそむけ、窓から顔をひっこめた。いつの日か、自分もこうなるのだという本能的な恐怖心から逃れたかったのかもしれない。ジムもきっと同じような気持ちだったのだろう、いかにもいやなものを見たといわんばかりの顔をした。
強靭な精神力
ここまでの旅で何度も死にそうになったといったが、長い旅をつづけていると、死に直面するような窮地にはけっこう見舞われる。事故とか病気、または人に襲われたり…と。しかし若くて体力のあるうちは、それは一瞬のことでしかない。窮地を脱すると、「あー、よかった」で、すべてが終ってしまう。自分は死んでいたかもしれないなどと、あまり深くは考えない。なぜなら体はまたもと通りにピンピンしているからだ。
しかし、ジムのような年寄りにとっては死ぬということはぼくなどが考える以上に切実な、深刻な問題なのだろう。ジムは飛び降り自殺した女性の死体を見てからというもの、押し黙ってしまった。
我ら旅人は保護とか福祉とか、甘ったるい世界とはほど遠い所を行く。見知った人、一人としていない世界を行く。そのような異国の地で事故にあったり病に倒れたときは想像を絶する恐怖感に襲われる。
ぼくよりもはるかに死期の迫っているジムにとってはなおさらだ。
いつ、のたれ死ぬかもしれないという恐れ、日一日と感じているに違いない衰えと老い、それらの苦難を克服して旅をつづけるジムの強靭な精神力には頭がさがってしまう。
ジムを見ていて、自分もこうありたいものだと思うのだった。
フルコースの昼食
1時間近く遅れて電車はアレニス駅に着いた。夏は海水浴客でにぎわうこの町も、すでに時期が過ぎ、ひっそりと静まり返っていた。ジムの記憶は確かで、迷うことなく、高台にある病院を改造したという大きなユースホステルの前まで来た。
門をくぐると、入口まで長い階段がつづく。元気なジムだが、さすがにこの階段にはまいったようで、休み休み登った。
5年前にジムが泊ったときは、このアレニスのユースホステルは3食つきで90ペセタ(約450円)だったという。ところが現在(1974年)は225ペセタに跳ね上がっていた。そこで我々は昼食と朝食だけを頼み、夕食は抜くことにした。
「ずいぶん上がったねえ…」
ジムはため息まじりにつぶやいた。
彼の話によると、カナリア諸島も物価の上昇は激しく、オイルショック以降のこの1年間は天井知らずの上がり方だという。それは何もスペインだけのことではなく、アフリカでもオーストラリアでもヨーロッパでも、全世界が狂乱物価に見舞われていた。
「ジム、このままいったら、いったい世界はどうなってしまうんでしょうねえ」
「1930年代に気味悪いほど似ている。みるみるうちに物価が上がって不景気になって、大きな会社がいくつも倒産して失業者が町にあふれかえる。いつのまにか自由がなくなっているんだ。民主主義から全体主義に変ってしまう。とどのつまりは戦争さ」
激動の20世紀を自らの肌で感じとってきたジムの言葉には重みがあった。
アレニスのユースホステルでは生き返った。
部屋に入ると真っ先にシャワーを浴びたが、何とお湯が出る。何日ぶりか思い出せないほど、久しぶりに浴びるお湯のシャワーだった。
昼食はスープ、サラダ付きのフルコース。もう夢中で食べた。
メインディッシュはブ厚いビーフステーキ。デザートはアイスクリーム。大満足の昼食を食べ終わると、1時間以上の昼寝をした。ジムもよっぽど疲れていたのだろう、ぼくが目を覚ましても、まだ気持ちよさそうな寝息をたてていた。