[1973年 – 1974年]
赤道アフリカ横断編 4 キサンガニ[ザイール] → キンシャサ[ザイール]
ザイール川の船に乗る
ザイール東部の中心地キサンガニに着くと、トラックの運転手モネバさんに「ここからどこに行くの?」と聞かれた。ザイール川の船で首都のキンシャサに向かうつもりにしていたので、それをいうと、「今日がその日だ!」というなりモネバさんはトラックの速度を上げてキサンガニの町中を走り抜け、船着き場まで連れていってくれる。
ザイール川の河港に着くと、船はいまにも出るところだった。すでにゲートは閉められ、警備している警官は通してくれない。
「待ってくれ!」
モネバさんや助手たちが船に向かって大声で叫んでくれる。そのおかげで警官はゲートをあけてくれ、船に乗ることができた。金網の向こうではモネバさんや助手たちが大きく手を振ってくれている。乗船券は船内で買った。
キサンガニには何日か滞在し、船を待つつもりにしていたので、まったく待たずに船に乗れるとは夢にも思わなかった。
ザイール川の船旅
キンシャサ行きの船は動き出す。広々としたザイール川。アマゾン川に次ぐ世界第2位の大河にふさわしい悠々とした流れだ。ザイール川の両岸はもっとうっそうと茂る大密林地帯かと思っていたが、意外と開け、人家が多かった。ひっきりなしに魚などを積んだカヌーがやってくる。
船は3等だったが、ちゃんと部屋(4人用)があり、食事もついている。
「コスティ→ジュバ」の白ナイルや「バンギ→ブラザビル」のウバンギ川と同じような船旅を想像していたので、あまりの待遇の良さに驚いた。
船内のバーからは陽気な音楽が流れてくる。それにつられ、昼間からビールを飲みながら踊っている人たちがいる。
「痛いよ…」
この「キサンガニ→キンシャサ」の船旅は何とも辛いものになった。ブニアからキサンガニに行く途中、トラックの一番てっぺんから足を滑らせて落ちたが、そのときの痛みがひどいのだ。幸い、顔と足の痛みは薄らいだ。だが、肩と胸の痛みはかえって激しくなっている。もう激痛だ。夜が大変。すこしでも寝返りを打つと、ズキーンと強烈な痛みが脳天を突き破り、飛び起きてしまうのだ。
さらに密林内でブヨにやられたところも、あまりのかゆさにかきむしっているうちに膿み、何ヵ所も腫れ上がっている。赤チンをつけ、ガーゼで押さえる。それを毎日、やらなくてはならない。うっとうしいことこの上もなかった。
キンシャサに到着
キサンガニを出たあと、ブンバ、リサラと大きな町を通り、赤道上の町ンバンダカへ。ザイール川の川幅はとてつもなく広い。川の中には島がゴロゴロしているので、大きな支流が流れ込んできてもわからない。
ンバンダカを過ぎると、北半球から南半球に入り、やがてザイール川の両岸にはなだらかな山々が迫ってくる。大ザイール盆地を抜け出たのだ。ザイール川最大の支流カサイ川が合流。船はキサンガニを出てから6日目、キンシャサに到着した。
キンシャサ港の岸壁にはクレーンが林立している。道路も鉄道も不備なザイールにとって、ザイール川の本流とその支流の水運はきわめて重要。キンシャサ港はまさにその中心なのだ。
ザイール最大の貿易港はザイール川下流のマタディ港。キンシャサとマタディの間のザイール川は渓谷を流れる急流となり、船舶は航行できない。そのためマタディ港に輸入された物資は鉄道またはトラックでキンシャサまで運ばれ、キンシャサ港からふたたび船で内陸各地の港へ、そこから悪路、トラックで運ばれていく。
コンゴのビザ
ザイール川の船を下りる。キンシャサ港を出、町中へ。目抜き通りを走るタクシーは大半が日本車。まずは腹ごしらえだ。露店でチャイを飲みながら揚げパンを食べ、そのあと食堂でキャッサバ&魚汁の食事をした。
キンシャサからはザイール川の対岸、コンゴの首都ブラザビルに渡るつもりにしていたので、ビザを取ろうとコンゴの大使館に行く。ザイールでコンゴのビザを取るのはきわめて難しいと聞いていたので覚悟はしていた。
コンゴ大使館ではザイールの外務省からのブラザビルに渡ってもよいという許可証、それと日本大使館からの書類が必要だといわれた。まずは日本大使館に行く。その場で書類をタイプしてもらったが、書記官には「旅行者がキンシャサからブラザビルに渡るのはほとんど不可能」といわれた…。次にザイールの外務省内の「CND」へ。そこでブラザビルに渡るための許可証を出してくれるという。パスポートを渡し、書類を書き込むと、予想に反して、「明日の午後3時に来るように」といわれた。
「なんだ、おい。キンシャサからブラザビルに渡るのなんて、簡単ではないか」
難関を突破し、心をうきうきさせてキンシャサの町を歩いた。
「明日、来い」
翌日、午前中はキンシャサの町を歩き、午後3時、CNDに行った。さんざん待たされ、そのあげくにまた「明日の午後3時に来るように」といわれた。仕方ない。夕暮れの町を歩き、ザイール川沿いで野宿した。翌々日、午後3時にCNDに行くと、またしても「明日、来い」なのである。
いいかげん、頭に来たが、その翌日、午後3時にふたたびCNDに行く。すると「月曜日の朝に来なさい」といわれた。もう我慢できずにCNDの最高責任者の部屋に押しかけ、直訴した。
「明日来い、明日来い…で、今日になったら月曜日に来いといわれたんですよ。ひどすぎます。なんとかしてください」
でっぷりと太ったCNDの最高責任者は「うんうん」と聞いてくれ、そして「月曜日の朝には必ず許可証は出る」という。もうその言葉を信じるしかなかった。
なつかしい!
毎日毎日、キンシャサの町を歩いたので、月曜日までキンシャサにいたくはなかった。そこでザイール川の港町マタディまでヒッチハイクで行くことにした。マタディまでは350キロほどだ。
キンシャサの町外れまで歩いたところで、ンバンザ・ングング(旧テイスビル)まで行く車に乗せてもらった。その途中でインキシ・キサントゥのアンゴラに通じる道との分岐点を過ぎる。なつかしい!
「アフリカ一周」(1968年〜69年)のときには、ここからまさに決死の覚悟で、アンゴラに向かっていったのだ。
思い出の「決死の国境越え」(その1)
1969年9月16日、今回とは逆のコースで、ブラザビルからフェリーでキンシャサに渡った。キンシャサからはアンゴラに向かい、南アフリカのケープタウンまで行くつもりにしていた。しかし、最大の難関は陸路でアンゴラに入ること。それはほとんど不可能なことだといわれていた。
スズキTC250を走らせ、キンシャサからアンゴラ国境に向かうぼくの心臓は極度の緊張で高鳴った。インキシ・キサントゥでマタディに通じる舗装路からアンゴラのマケラドゾンボに通じるガタガタ道に入っていく。山がちの風景に変わる。日差しが強かった。夕方、ンギディンガという村に着いた。国境まで20キロほど。ンギディンガの村を通り過ぎようとしたとき、若い警官に止められた。そしてその先のマレレという村まで連れていかれた。
若い警官はマレレの警察署長。署内で持ち物、すべてを調べられた。そのあと若い署長にいわれた。ザイール側の国境の村キゼンガからアンゴラ側の国境の村バンザソソーまでの8キロ間には地雷が埋設されているので、その間の通行はまったく不可能だという。
ぼくは彼にどうしてもアンゴラに入りたい、もしアンゴラに入れないと、これから先、にっちもさっちもいかなくなってしまうと訴えた。すると彼は
「なんとかしてあげよう」といってくれたのだ。
「明日、テイスビルに一緒に行こう。そこのオーソリティーで特別な許可を出してくれるかもしれない」
その夜、署長は村のバーに連れていってくれた。土の壁が赤と白に塗り分けられ、中にはテーブルが2つ3つあるだけのバー。ザイール製のビールを飲みながら、我々はおおいに語り合った。ザイールのこと、日本のこと、世界のこと。いたるところでくりひろげられている戦いの悲惨さ、無意味さ。
署長とはぐてんぐてんになるまで飲みつづけた。ふらつく足でバーを出、月明かりに照らされた村の中を歩き、署長の家に行く。まだ少女のようなあどけなさの残る奥さんが夕食をつくって待ってくれていた。その晩は彼の家で泊めてもらった。
翌日、朝食をごちそうになったあと、署長の乗るトラックについて走り、テイスビルの町に向かった。その途中でぼくは思いもよらない幸運をつかむことができた。偶然にもこの地方の知事に出会ったのだ。彼は新しくこの地方にやってきた人で、各地を視察している最中だった。
署長からぼくの話の一部始終を聞くと、知事は「キミの望むコースは無理だが、マタディからならアンゴラに入れるかもしれない」といって、手紙を書き、「これを国境で見せなさい」といった。そこでぼくは署長と別れ、知事にお礼をいってマタディに向かったのだ。マタディの町中から4キロほど行くと、アンゴラとの国境だ。ザイール側の国境事務所に行き、「アンゴラに行きたいのですが」というと、国境の役人は何をいってるんだといった態度だった。そこで知事にもらった手紙を見せると、役人の態度は一変し、次々と電話をする。3時間近く待たされたが、ついにザイール側の出国許可が下りた。次はバイクの手続き。ぼくは役人の持ってきた台帳を見て心底、驚いた。マタディ→ノーキ(アンゴラ側の町)間を旅行者の車が通過したのは1959年の10月が最後で、それ以来、10年間というもの1台の車も通過していなかった。
世界中に大きな衝撃を与えたあのコンゴ動乱、アンゴラの独立を目指す解放戦線とポルトガル軍の激しい戦闘、極度の治安の悪さが10年もの間、旅行者の車を1台も通さなかったのだ。
思い出の「決死の国境越え」(その2)
スズキTC250を走らせ、ザイールからポルトガル領アンゴラの国境事務所へ。そんなぼくの姿を見ると、ポルトガル人の役人たちは驚き、あわてふためいて軍に電話する。ジープに乗った軍の将校が飛ぶようにしてやってきた。
「キミはほんとうにこのモト(オートバイ)でルアンダ(ポルトガル領アンゴラの首都)まで行くつもりなのかね」
「はい」
ルアンダまでは約450キロ。ところが北部アンゴラでのポルトガル軍と解放戦線との戦いは激しく、その道はポルトガル軍の車ですら通れないという。
「明朝5時、サンアントニオ・ド・ザイール(ザイール川河口の町)に行く陸軍の輸送船がある。それに乗れるようにとりはからってあげよう。そこからルアンダまでは、軍の護衛のもとで行くことができる」
将校は呆れ顔というよりも、諦め顔でこういってくれたのだ。
ポルトガル領アンゴラの入国手続きを終えると、国境の町ノーキへ。そこには軍人の姿しかなかった。軍隊だけの町だった。その夜、師団長は将校の夕食会にぼくを招いてくれた。
「いやー、国境から連絡をもらったときは驚いたねえ。日本人がモトに乗って自殺しにやって来たと思ったよ」
と、スープをすすりながら言った。それを聞いて、みんな大笑いをした。
師団長は日本をよく知っていた。日本が現在のような経済大国になったのは高度の教育水準と日本人の勤勉な国民性、この2つだという。また、彼はリスボンの陸軍大学で3年間、日本人の先生に柔道を習ったという。その先生を心から尊敬していた。
翌朝、5時前に陸軍の輸送船はノーキ港を離れ、まだ真っ暗なザイール川を下っていった。マタディ港に向かう大型の貨物船にすれ違うと、輸送船は大波を受け、グラグラ揺れた。ボマの町を過ぎると、それまでつづいていた丘陵地帯は途切れ、川幅はグッと広がった。カタンガの奥地から幾多の支流を集めて流れてきた大河ザイール、その4200キロにも及ぶ長大な流れも、そろそろ終わろうとしていた。
4日間、サンアントニオ・ド・ザイールに滞在したあと、ルアンダに向かうバスについて走り、この町を離れた。70キロ南のキンザオの村までは戦闘の危険はないという。キンザオからは陸軍の護衛がついた。先頭には2台の野戦用小型トラック。それぞれに自動小銃を構えた15人づつの兵士が乗っている。その後ろにルアンダに向かうバス、民間のランドローバー、ぼくのスズキTC250がつづき、後ろには先頭と同じような2台の野戦用小型と高射砲をそなえつけた大型トラックが走った。
夕日が林の向こうに沈みかけたころ、ンブリッジ川の河畔に着いた。フェリーで川を渡り、アンブリゼーテに到着。ノーキから連絡が入っているからと、軍人がぼくを迎えに来てくれた。これではまるでポルトガル軍の客人のようだ。
まずは大西洋でとれたエビを肴にポルトガルのビールを飲み、そのあとで夕食をご馳走になった。食事がすむと軍主催の映画会がサッカー場でおこなわれ、それを見せてもらった。アンブリゼーテからは大部隊になる。先頭にはさらに3台の野戦用小型トラックと高射砲を据えた大型トラックが1台加わり、軍用車の間には何と72台もの民間の大型トラックが入ってきた。その光景はまるで民族の大移動のようだった。
林の中の狭いガタガタ道を走っているときのことだった。先頭の車から銃声が響いた。数人の兵士が飛び降り、地面に身を伏せた。戦闘が始まるのかと、一瞬、緊張したが、兵士が草むらからひきずり出したのは射ち抜かれた1羽の大きな鳥だった。
バナナや油ヤシ、サトウキビの大農園が見えてきた。川を渡ったところで、軍の護衛隊は解散となった。ルアンダまであと80キロ、もう戦闘の心配はないという。やがて日が暮れる。夜道を走る。小高い丘を越えると、突然、眼下にきらめく夜景を見た。ルアンダの灯だ。ケープタウンまであと4000キロだった。
キンシャサに戻る
あっというまに通り過ぎていったインキシ・キサントゥの分岐点だったが、そんな「アフリカ一周」での「決死の国境越え」のシーンを思い出すのだった。そしてマタディへ。街道に沿って送電線が走っている。ザイール川のインガ・ダムの第1期工事が完成し、すでに送電が開始されているという。山上の町ンバンザ・ングングに着くと、その夜は警察でひと晩、泊めてもらった。
翌日、マタディへ。ほとんど待たずに、マタディまで行く車に乗せてもらえた。ベルギー人の学校の先生。なつかしのマタディに着くと、町を案内してもらった。ザイール川のマタディ港も見た。その夜は先生夫妻の家で泊めてもらった。そして月曜日の朝、キンシャサに戻ったのだ。