『バイク旅行』2013年夏号より

3・11から2年後の南相馬市の被災地を行く。被災直後は一面、海のように水をかぶり、その中に多数の車の残骸が浮かんでいた。今では水も引き、車の残骸も瓦礫も撤去され、電柱が立ち並んだが、復興にはまだまだほど遠い光景だ
▲3・11から2年後の南相馬市の被災地を行く。被災直後は一面、海のように水をかぶり、その中に多数の車の残骸が浮かんでいた。今では水も引き、車の残骸も瓦礫も撤去され、電柱が立ち並んだが、復興にはまだまだほど遠い光景だ
風評被害は続き、漁港にかつての活気は見られない

「東日本大震災」から2年後の3月11日、東北太平洋岸最南端の地、鵜ノ子岬に相棒のスズキの250ccバイク、ビッグボーイに乗ってやってきた。岬の北側が福島県の勿来漁港で、南側が茨城県の平潟漁港になる。岬突端の海に落ちる岩山にはポッカリと海食洞の穴があいていて、そこから平潟漁港の一部が見えている。

 勿来漁港の岸壁に、ビッグボーイを停める。ニューカラーのブルーが東北の青い海によく映えている。

「さー、行くぞ、ビッグボーイよ!」

 これから東北太平洋岸最北端の地、下北半島の尻屋崎を目指して、長い旅が始まる。

 勿来からは国道6号経由で小名浜へ。

 小名浜海岸の臨海工業地帯の復興は速く、大津波の被害の痕跡は注意して見ていないと気がつかないほど。道路も新たに舗装され、段差はなくなり、消えている信号もない。通行止区間もほとんどなくなり、海沿いの県道239号のごく一部の区間が通れないだけ。

 小名浜の臨海工業地帯から小名浜漁港へ。魚市場は再開されているものの、東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故による風評被害をまともに受け、水揚げされる魚も少なく、小名浜漁港は閑散としていた。ここで運命の14時46分を迎えた。町中に鳴り響くサイレンの音に合わせ、海に向かって1分間の黙とうをした。

 2年前の2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするM9・0という超巨大地震が発生した。M9・0以上の大きな地震はM8・0以上の「巨大地震」と区別して「超巨大地震」といわれるが、日本ではこれまでに記録されたことのないような大地震なのだ。日本は「地震大国」だが、M8・0以上の「巨大地震」に見舞われたこともほとんどない。それだけに今回の「東日本大震災」がいかに大きな地震であったかがよくわかるM9・0なのである。

 ちなみに明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」をひき起こした地震はM8・5、昭和8年(1933年)の「昭和三陸大津波」をひき起こした地震はM8・1。三陸海岸には昭和35年(1960年)にも「チリ沖地震津波」が押し寄せ、岩手県の大船渡などが大きな被害を受けたが、このときのチリ沖地震はM9・5。20世紀以降では世界最大の地震になっている。

 小名浜漁港を出発だ。ここからは三崎、竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎、富神崎といわき市内の岬をめぐる。岬と漁港はセットのようなもので三崎には小名浜漁港、竜ヶ崎には中之作漁港、合磯岬には江名漁港、塩屋崎には豊間漁港、富神崎には沼ノ内漁港がある。

 これら岬の風景は大津波以降も何ら変わりは無いが、中之作漁港にしても江名漁港にしても、漁港にはかつての活気はなく、どこもひっそりとして静まりかえっている。東電福島第1原発の爆発事故による風評被害の大きさを見せつけている。

慰霊祭が各地で盛大に行われている。静かに手を合わせた

 美空ひばりの歌碑の建つ塩屋崎を境にして北側が薄磯海岸、南側が豊間海岸になる。ともに堤防を乗り越えた大津波によって、豊間も薄磯も大きな被害を受け、300人以上もの犠牲者を出した。いわき市内では最大の被災地だ。

 豊間では大勢の人たちが集まって盛大な慰霊祭が行なわれていた。次々にやってくる人たちが祭壇に花を供え、海に向かって手を合わせる。慰霊祭の会場や堤防の上にはキャンドルが置かれている。その数は3500にもなるという。地元のみならず、日本各地から送られたキャンドルもある。日が暮れると、いっせいに火が灯されるという。

 薄磯の方ではすでに慰霊祭は終ったのか、人の姿はほとんど見かけない。堤防のすぐ下に設けられた祭壇に手を合わせた。

 白い灯台の立つ塩屋崎の北には富神崎がある。こんもりと盛上がった山。この富神崎の南側が薄磯で大津波の直撃を受け、集落は全滅した。すさまじいやられ方だ。ところが岬北側の沼ノ内の集落はほとんど無傷のように見える。海岸のすぐ近くに家々が建ち並んでいるのだが、壊れた家は1軒もないし、ここでは1人の犠牲者も出ていない。地元のみなさんは富神崎が沼ノ内を守ってくれたといっている。

 沼ノ内を過ぎると、冷たい潮風を切って太平洋岸を走る。新舞子海岸には松林がつづく。この道は県道382号。震災直後は夏井川にかかる橋で大きな段差ができ、しばらくは通行止がつづいたが、今ではきれいに舗装されて橋の段差はわからなくなっている。

定宿「よこ川荘」での「献杯」と「鎮魂の舞踏」

 今晩の宿は四倉舞子温泉の「よこ川荘」。宿のおかみさんにまずはお礼をいう。震災の復旧工事や放射能測定の業者のみなさんが泊まり、ほぼ満室だったにもかかわらず、かなり無理をして部屋を空けてくれたのだ。

「よこ川荘」には「東日本大震災」以降、東北各地を精力的にまわっている古山里美さんと、地元、楢葉町の渡辺哲さんが来てくれた。3人で「よこ川荘」に泊まるのだ。

 夕食の膳ではビールで犠牲者のみなさんに「献杯」。夕食を食べながら渡辺さんには「浜通り」の現状をいろいろと聞いた。古山里美さんには今日1日まわったところの話を聞いた。

 大広間での夕食だったが、同じテーブルで食事をしている女性がいた。札幌からやってきた小田原真理子さんだ。何と小田原さんは被災地のみなさんに「鎮魂の舞踊」を見てもらいたくてやってきた。札幌にはご主人とお子さんたちを残してきたという。食事がすむと「アベマリア」と「ラブ」の2曲に合わせて「鎮魂の舞踊」を踊ってくれた。一心不乱になって踊りつづける小田原さんの姿は感動的で、我々のみならず、「よこ川荘」のおかみさんもすっかり心を奪われてしまったように見える。小田原さんはこの「鎮魂の舞踊」を今日の薄磯の慰霊祭で披露したという。

 我々は部屋に戻ると、飲み会を開始。被災者の渡辺さんからの差し入れをいただく。

 渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだに自宅には戻れない。すでに大津波から2年もたっているというのに家族がバラバラになってしまったままだ。そんな大変な思いをしているのだが、そこはライダー特有の明るさとでもいおうか、渡辺さんと話していると、かえって元気をもらってしまうほど。気持ちがいつも前向きなのだ。

 渡辺さんの差し入れをすべて食べ尽くし、飲み尽くしたところで宴会終了。渡辺さんとは枕を並べて寝た。明日は「よこ川荘」からバイクで出社するという。

 3月12日。6時前に起き、四倉舞子温泉「よこ川荘」の朝湯に入り、早朝の海岸を歩いた。穏やかな海。やがて太平洋の水平線上に朝日が昇った。

「よこ川荘」に戻ると、渡辺哲さん、古山里美さんと一緒に朝食を食べ、7時には出発。渡辺さんはここからいわき市内の会社に出社し、古山さんは宮城県の東松島市に向かっていく。カソリは「浜通り」を北上する。

「よこ川荘」のおかみさんは手を振って我々を見送ってくれた。

「また来ますよ〜!」

 海沿いの県道382号を走り、国道6号の四倉の交差点に出たところで、渡辺さん、古山さんと別れた。

川内村には村民が戻ってきた。線量計も小数点以下に下がっている

 カソリは国道6号を北へ。トンネルを抜け出ると波立海岸。国道の脇にある波立薬師を参拝。ここも大津波に襲われた所だが、波立薬師は残った。目の前の弁天島の赤い鳥居も残った。波立海岸から久之浜へ。ここは大地震、大津波の後、さらに津波火災の大火に見舞われ、海岸一帯の町並みは全滅。その中にポツンと秋葉神社の祠だけが残った。

 国道6号をさらに北上し、広野町から楢葉町に入る。今は楢葉町の全域に行けるようになっているが、住民はまだ戻っていない。住めるような状態ではないのだ。ここが渡辺さんの町。いわき市内からわずかな距離でしかないのに自宅に戻れず、さぞかし悔しい思いをしていることであろう。

 楢葉町を北上し、富岡町との境まで行く。ここが一般車両の通行止地点。警官が車を1台1台止めている。この通行止地点で折り返し、国道6号の1本東側の県道244号を行く。県道244号の楢葉・富岡の町境は無人のゲートで、ここが通行止地点になる。

 楢葉町の海岸地帯を離れ、阿武隈山地の山裾を走る県道35号に出る。この県道35号から乙次郎林道経由で川内村に向かった。

 川内村には村民が戻ってきている。人の生活のにおいがする。建設中の新しい家を見る。居酒屋もオープンしている。道路沿いの線量計の数値も「0・505マイクロシーベルト」と小数点以下まで下がっている。桃源郷のような山間の村、川内村が震災以前のような姿に戻ることを願うばかりだ。

 川内村からは国道399号を北上。田村市、葛尾村と通って浪江町に入る。浪江町の次は飯舘村だが、長泥地区が封鎖されているので、大きく迂回しなくてはならない。国道114号で水境峠を越えて川俣町に入り、川俣町の山木屋から飯舘村に入った。飯舘村は大半の村民が避難しているので人影はない。まるで無人の荒野を行くかのようだ。

 飯舘村から県道12号で八木沢峠を越えて南相馬市に入る。国道6号に出たところにある道の駅「南相馬」でビッグボーイを停めた。何とも長い迂回路だった。

 南相馬からは海沿いの県道74号で相馬市に入り、蒲庭温泉の一軒宿、「蒲庭館」に泊まった。この一帯の磯部地区では250人もの犠牲者を出したが、「蒲庭館」は残った。

 蒲庭温泉の湯につかり、湯上りのビールを飲み干したところで夕食。宿の若奥さんは震災当日の話をしてくれた。

「あの日は午後5時から、中学校の卒業式のあとのお別れ会がウチでおこなわれる予定になってました。PTAの会長さんら50人ほどが集まっての宴会になるはずでした。それがあのような大津波に襲われてしまって…。PTAの会長さん一家は6人全員が亡くなりました。お別れの会を夕方の5時ではなくて午後の3時ぐらいから始めていたら…、みなさん、助かったのに」