『バイク旅行』2012年夏号より
震災から1年、道路だけ見ればいわきは大分、復興していた
「東日本大震災」1年後の東北太平洋岸を走ろうと、2012年3月10日10時、東京・新宿の「スズキワールド新宿」を出発。バイクはスズキのニューモデル、V−ストローム650ABS。山手通りから首都高に入り、常磐道を北へ。V−ストロームの高速性能は抜群だ。アクセルを軽くひねるだけでキューンという心地よいエンジン音とともに一気に加速する。
いわき勿来ICで常磐道を降りると、東北・太平洋岸最南端の鵜ノ子岬へ。この岬を境にして関東側は平潟漁港、東北側は勿来漁港になっている。
勿来漁港の岸壁にV−ストロームを停めると、ヤマハのセローに乗った渡辺哲さんがやってきた。今日一日、同行してくれるという。渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだ自宅には戻れない。そんな大変な思いをしているのだが、ライダー特有の明るさとでもいおうか、渡辺さんと話しているとかえって元気をもらってしまうほどなのだ。
鵜ノ子岬を出発点にして渡辺さんとの旅が始まった。カソリのV−ストロームが先を走り、渡辺さんのセローが後を走る。
国道6号を走り、小名浜に向かう。
震災直後は段差が連続した国道6号だが、今ではすっかり道がよくなり、走りやすくなっている。国道6号から小名浜に向かう道も新たに舗装され、段差や亀裂、陥没箇所がなくなっている。震災から1年、道路だけ見ればいわきは大分、復興している。信号もすべて点灯している。震災後しばらくは、信号の消えた交差点で各地からやってきた警察官が交通整理していた。そんな光景が今ではなつかしい。
小名浜には活気が戻っていた。
東北最大の水族館「アクアマリン」は奇跡の復活をとげ、かつての人気スポット「いわき・ら・ら・ミュウ」も営業を再開し、そこそこの人を集めて海産物を売っている。「市場食堂」の新店舗も完成。そこでは「マグロの漬け丼」を食べた。ここまではよかったのだが…。
「キロ100円…」と漁師は嘆く。風評被害の大きさに怒りを覚えた
小名浜漁港の岸壁で漁師たちの話を聞いたとたんに気持ちは暗くなる。魚市場も再開しているのだが、いまだに水揚げされる魚はほとんどない状態だ。「小名浜」というだけで、まったく買い手がつかないという。金華山沖で獲ったカツオを小名浜漁港で水揚げすると、「キロ100円だよ…」といって漁師は嘆いた。福島県沖で獲れたのではないのに。あまりの風評被害の大きさに怒りがこみあげてくる。
小名浜からは三崎、竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎…と4、5キロの間隔で連続する岬をめぐる。それらの岬は漁港とセットになっている。竜ヶ崎の中之作漁港、合磯岬の江名漁港、塩屋崎の豊間漁港…と。それらいわき市内の漁港はどこも閑散としていた。
塩屋崎の南側は豊間、北側は薄磯で、ともに大津波に襲われ集落は全滅した。いわき市内では最も甚大な被害を受け、300人を超える人たちが亡くなった。
しかしすでに瓦礫は撤去され、家々の土台が残っているだけで、一面の広野にしか見えない。これが震災後1年の風化というものなのだろうか、あの大津波に襲われた直後の生々しい光景はまるで幻のように思えた。
豊間と薄磯の両集落は全滅したが、岬の灯台の下に建つ美空ひばりの『みだれ髪』の歌碑は無傷で残った。まさに「奇跡のスポット」だ。
「暗らや涯なや塩屋の岬 見えぬ心を照らしておくれ ひとりぽっちにしないでおくれ」の歌碑は大津波に相通じるようなものがある。この奇跡のスポットをひと目見ようと、観光バスやマイクロバスが次々にやってくる。大津波の被災地を巡る観光バスを数多く見るようになったのも、震災後1年という時間を強く感じさせた。
ひとつ残念なのは塩屋崎の高さ50メートルほどの海食崖の断崖上に立つ灯台が、いまだに立入禁止になっていることだ。地震で大きな被害を受けたのだろうが、1日も早く復旧し、灯台に登れるようになって欲しいと願った。
福島第1原発の20キロ圏で、一般車両は通行止め
塩屋崎からは新舞子浜を北上。松林の中の県道382号を行く。県道382号は夏井川にかかる橋に大きな段差ができ、長らく通行止めになっていたが、今は通行可。海岸には大きな瓦礫の山がいくつもできている。この瓦礫処理が一日も早く終わりますように!
四倉で国道6号と合流し、波立海岸へ。短いトンネルで抜けたところが岬。国道沿いの「波立食堂」は大津波に押しつぶされたが、反対側の「波立薬師」は無傷で残った。それ以上に驚かされたのは岬の岩礁に立つ赤い鳥居が残ったことだ。なぜ、どうして…といいたくなるが、鳥居には何か目に見えない力があるのだろうか。それとも鳥居の形に何か秘密があるのだろうか。今回の大津波では、いくつもの鳥居が同じようにして残った。
波立海岸から久之浜へ。町並みは壊滅状態。ここでは大津波に襲われ、それに追い討ちをかけるように大火に見舞われた。その中にあって秋葉神社だけが残った。荒野と化した被災地にポツンと残った神社。ここでもまたしても、「なぜ、どうして?」と声が出てしまう。秋葉神社は火除けの神だが、まるでそれを証明するかのように、大津波から残っただけでなく、大火の火も秋葉神社の手前で止まっているのだ。これはもう「神の成せる業」としかいいようがない。
いわき市から広野町に入り、広野町と楢葉町の町境まで行った。そこが爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏で、警察の車両が国道を封鎖し、一般車両は通行止になっている。同行の渡辺さんの実家はここからすぐのところにあるのだが、いまだに帰ることはできない。国道6号が通行止になっているので、福島県太平洋岸の浜通りは南北に完全に分断されてしまった。南から北に行くのは大変なことなのだ。
この国道6号の通行止地点を折り返し地点にして、いわきに戻った。その途中、久之浜では小学校の校庭の一角にできた仮設の商店街に立ち寄った。そこの「からすや食堂」で夕食にする。ラーメンライス&餃子を食べた。ラーメンも餃子もじつにうまかった。この店は夫婦でやっている。もともとの店は久之浜の町中で、秋葉神社の近くにあったという。2人も秋葉神社が残ったのは不思議だといっている。我々が最後の客で、2人は店の電気を消すと車で仮設住宅のある勿来に向かっていった。
四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊まった。
「よこ川荘」は海岸近くの宿で、大津波をまともに受けた。震災直後の姿を見た渡辺さんは、「よこ川荘はもう無理ですよ…」と、わざわざ電話をくれたほど。それが全国からやってきたボランティアの人たちの支援もあって、おかみさんは見事に宿を再開させた。
「大広間の50畳もの畳を全部、私が運び出したのよ!」
というおかみさんの話は今や伝説だ。
「よこ川荘」の湯に入ったあと、渡辺さんと大広間でビールを飲んだ。
おかみさんは「これ、食べなさい」といってマグロやカツオ、ホタテ、タコの刺身を持ってきてくれた。おかみさんの好意の刺身を肴に渡辺さんとしこたま飲んだ。というよりも飲まずにはいられないような気分。復興からはるかに遠い震災1年後の浜通りだ。
3.11の朝は、四倉舞子温泉「よこ川荘」で迎えた。
渡辺さんと一緒に海岸を歩く。冬を思わせるような冷たい風が吹き、太平洋の水平線上には厚い雲が垂れ込めていた。
「この海が1年前、牙をむいて襲いかかってきたのか…」
「よこ川荘」に戻ると塩ジャケと目玉焼き、納豆の朝食を食べ、8時に出発。
渡辺さんと別れ、いわき四倉ICから常磐道に入り、磐越道→東北道で福島西ICへ。
福島からは国道115号で浜通りの相馬に出た。
1年たっても、まだ、現実を受け入れられないという
相馬から国道6号を南下し、南相馬市に入ったところで「東日本大震災」の発生した運命の14時46分を迎えた。V−ストロームを路肩に停めると、太平洋に向かって1分間の黙とうをした。
南相馬市では国道6号の通行止地点まで行った。そこが東電福島第1原発20キロ圏の北側になる。
国道6号の通行止地点で折り返し、海沿いの県道260号→県道74号を行く。延々と大津波の被災地がつづくが、すでに大半の瓦礫は撤去され、無人の荒野が果てしなく広がっていた。
このような海沿いの被災地のただ中にある蒲庭温泉の一軒宿「蒲庭館」に泊まった。
ここは「東日本大震災」2ヵ月後の5月11日に泊まった宿。そのときに聞いた若奥さんの話は忘れられない。
「高台にある学校での謝恩会の最中に、巨大な黒い壁となって押し寄せてくる大津波を見たんですよ。大津波は堤防を破壊し、あっというまに田畑を飲み込み、集落を飲み込みました。多くの人たちが逃げ遅れ、大勢の犠牲者を出してしまいました。この磯部地区だけで250人以上の人たちが亡くなりました。大津波警報が出たのは知ってましたが、どうせ4、50センチぐらいだろうと思ってました。まさかあんな大きな津波が来るなんて…」
若奥さんに聞いた今回の話も心に残るものだった。
「被災したみなさんは1年たっても、まだ現実を受け入れられないのです。悪夢を見ているのではないか、朝、目をさませば、また元の村の風景、元の家、元の生活が戻ってるのではないかって思っているのです。あまりにも一瞬にして、多くの人命とか財産を失くしてしまいましたからね」