2010年6月17日
台湾一周を決心してから42年
今回のVストローム250SXを走らせての「台湾紀行」は第4回目になる。第1回目は2010年のアドレスV125Gを走らせての「台湾一周」。それを連載でお伝えしよう。
2010年6月17日、成田空港を出発。9時40分発のCL107便(チャイナエアライン)で台北へ。成田を飛びたってから3時間後、台湾が見えてきた。いよいよ長年の夢だった「台湾一周」が始まる。
ぼくが初めて「台湾一周」に想いを馳せたのは「アフリカ大陸縦断」(1968年~69年)の時のことだった。
1968年4月12日、横浜港でオランダ船の「ルイス号」に乗り込み、南部アフリカモザンビークのロレンソマルケス(現マプト)港に向かった。友人の前野幹夫君と一緒だ。2台のスズキTC250も同じ船に乗っている。
横浜港を出港した「ルイス号」の乗客は、約100人のブラジルに移民する台湾人と、日本で農業実習を受けて帰国する4人の日系ブラジル人、南米を一人旅しようとしている日本人青年が5人、それとアフリカ南部のモザンビークで下船するぼくたちの2人。
台湾人は誰もが感じがよかった。年配の人たちは、ほとんどの人たちが日本語を話し、若い世代の中にも、日本語を勉強している人は何人もいた。そんな台湾人の中でぼくは同世代の女性の素琴とは仲良くなった。彼女は甲板で台湾の歌を聞かせてくれたが、透き通るような歌声と抑揚のあるもの悲しいリズムが胸にしみた。
「ルイス号」は横浜港を出たあと、神戸港に入港した。神戸では日本に里帰りした5人の日系ブラジル人と、ボリビアに移民する約20人の沖縄人が乗り込んだ。当時の沖縄はまだ日本に復帰する以前のことなので、日本人の移民は1人もいなかった。
「ルイス号」はこの航海が最後になった。日本から南米への移民がほとんどなくなったからだ。すでに太平洋航路の日本の移民船はなくなっていた。「ルイス号」は日本から出た最後の南米への移民船ということになる。1960年代の後半というのは日本が高度経済成長の道をまっしぐらに突っ走り、まさに絶頂期にさしかかろうかという時代であった。「ルイス号」は韓国の釜山港に寄港し、そこで100人ほどの韓国人移民が乗り込んだ。
釜山港を出ると、香港、シンガポール、ポートセッテンハムと寄港し、インド洋を南下。モーリシャス島に寄港し、南回帰線を越えると、水平線上にマダガスカル島が霞んで見えてくる。ぼくたちの目的地のアフリカはもうすぐだ。
モザンビークのロレンソマルケス港に着く前夜、大勢の人たちが甲板に集まり、ぼくたちのために、お別れパーティーを開いてくれた。素琴は台湾の歌を歌ってくれた。なにかというと「コリアン・ナンバーワン(韓国は世界一!)」をくり返していた韓国人青年は、しんみりとした韓国の歌を歌ってくれた。
ぼくはこのとき、いたたまれないほどの別れの辛さを味わった。この1ヵ月以上の船旅で、家族同様に親しくなった多くの人たちとの別れ。それまでは人との別れが辛いものだとは思ってもみなかった。
横浜港を出港してから37日目の5月18日、「ルイス号」はモザンビークのロレンソマルケス港に到着した。モザンビークは当時はポルトガル領で、ポルトガル人のイミグレーションの係官が乗船し、入国手続きは船内でおこなわれた。モザンビークへの入国手続きは簡単に終わり、ぼくたちはあっけないくらいにアフリカの大地に降り立った。バイクの通関には日数がかかるといわれ、「ルイス号」の出港の日までそのまま船内で宿泊させてもらい、1日3度の食事も船内の食堂で食べさせてもらった。
5月21日、「ルイス号」のみなさんとのほんとうの別れとなった。日が落ち、暗くなったところでぼくたちは下船した。午後8時、「ルイス号」は2度、3度と汽笛を鳴らし岸壁を離れていく。甲板ではみんなが懐中電灯を振ってくれている。ぼくたちは声のつづくかぎり叫びつづけた。
「さよ~なら~、さよ~なら~!」
「ルイス号」は暗い海に出ていった。懐中電灯のいくつもの明かりが小さく、遠くなっていく。やがて「ルイス号」はポツンとした点のような明かりになり、暗い波間の向こうに消えた。
「アフリカ大陸縦断」(1968年~69年)
このときぼくは決心した。「アフリカ大陸縦断」を終えたら南米を一周しよう、さらに台湾も韓国も一周しよう!
「南米一周」を成しとげたのはそれから16年後の1984年、「韓国一周」は32年後の2000年。そして42年後の2010年、ついに「台湾一周」を実現させたのだ。
アマゾン流域の悪路を行く。バイクはDR250S
「南米一周」(1984年~1985年)
韓国本土最南端の土末で。バイクはDJEBEL250XCのGPSバージョン
「韓国一周」(2000年)
台湾最南端の鵝鑾鼻。バイクはアドレスV125G
「台湾一周」(2010年)
CL107便は12時10分(日本時間13時10分)、桃園国際空港に着陸した。空港には台鈴工業総経理の藤照博さんが出迎えてくれた。何ともなつかしい藤さんとの再会。1996年にはスズキのDJEBEL250XCで「オーストラリア2周7万2000キロ」を走ったが、藤さんはその当時のオーストラリア・スズキの社長で、ずいぶんとお世話になった。
空港のロビーで何度も握手したが、14年ぶりの再会に胸が熱くなった。それと同時にオーストラリアでのさまざまなシーンが蘇り、台湾とオーストラリアが瞬時に結びついた。このような劇的な出会いは旅の大きな魅力だ。
桃園国際空港から藤さんと一緒にタクシーで台北へ。台北の中心街を貫く松江路にある台鈴工業の本社に到着。そこでは董事長の黄さんにお会いする。日本の上智大学に留学しただけあって日本語が上手。「賀曽利さん、よく来てくれました」と歓迎され、しばらくは黄さんと歓談した。「ぼくは小田急線の伊勢原に住んでいます」というと、「私は小田急線の東海大学前に住んでいました。伊勢原もよく知ってますよ」という話になって、黄さんとは小田急線談義で盛り上がった。
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