第3回目(6)2011年9月11日 – 14日
これからもずっと走ろう
9月14日。夜明けとともに起き、「グリーンピア三陸みやこ」の周辺を歩く。
広い敷地内には仮設住宅が建てられ、岩手県北バスの「仮設住宅前」のバス停ができている。ここには「宮古市田老仮設団地」の案内板が立っている。
ラジオ体操の時間になると、仮設住宅から次々と人が出てくる。みなさんと一緒になってラジオ体操をした。
7時前には宮古駅前行きのバスが来た。通勤や通学のみなさんがバスに乗り込んでいく。
「グリーンピア三陸みやこ」に戻ると朝食を食べて出発。まずは田老まで戻る。
残った一番手前、内側の大防潮堤の上を歩き、大津波から半年後の田老を見た。瓦礫はすっかり取り除かれ、その跡には夏草が茂っている。国道45号沿いの町並みは壊滅的な被害を受けたが、高台の寺、常運寺は無傷で残っている。
次に三陸鉄道北リアス線の田老駅に行く。田老駅もほとんど無傷。三陸鉄道の北リアス線は「宮古ー小本」間の運転が再開されている。ちょうど1両編成の宮古行きの列車が到着した。
田老からは太平洋岸の真崎へ。断崖がそそり立ち、ストンと海に落ちている。見上げると断崖の上まで津波が到達したことが一目でわかる。潮をかぶった松が枯れているからだ。真崎からは和野、青野滝と海岸線を行く。この一帯は今回の大津波でもとくにすさまじい大津波に襲われたところ。真崎で30・8メートル、和野で35・2メートル、青野滝で34・8メートルの大津波を記録している。
田老から「グリンピア三陸みやこ」に戻ると、今度は太平洋岸の小堀内漁港へ。ここは37・9メートルの大津波を記録したところ。これは綾里湾で記録した40・1メートル、重茂半島の姉吉で記録した38・9メートルに次ぐものだ。
「鵜ノ子岬→尻屋崎」では『ツーリングマップル東北』のほかに、『東日本大震災 復興支援地図』(昭文社)を持った。これがすごい地図なのだ。間違いなく歴史に残る1冊だとぼくは思っている。
何がすごいかというと、東北太平洋岸に押し寄せた大津波の被害がひと目でわかるようになっている。大津波による浸水範囲が黄色く色分けされているのだ。震災直後の道路の不通箇所も克明に出ている。
この『復興支援地図』の7ページ目が「田老」になる。
田老の市街地はほぼ全域が黄色くなっている。ところが真崎から和野、青野滝、小堀内は真っ白で大津波による浸水地帯はまったくない。
これが宮古以北の三陸海岸の大きな特徴だ。
宮古以北の三陸海岸は隆起海岸で、30メートルを越える大津波も海岸にそそり立つ断崖にはばまれ、はじき飛ばされている。大津波はこの断崖を越えることはない。そのため海岸段丘上に点在する小集落は津波の被害をまったく受けていない。それにひきかえ宮古以南は沈降海岸なので、漁港を中心とした海岸の町々は大津波をまともに受け、大きな被害を出している。
国道45号を北上し、宮古市から岩泉町に入る。小本川河口の小本の集落と小本港を見てまわる。小本も大きな被害を受けたところだが、小本川の右岸のやられかたがひどい。それにひきかえ左岸側はそれほどでもないように見える。
国道45号をさらに北上し、岩泉町から田野畑村に入ると国道45号を右折し、太平洋岸の道を行く。三陸鉄道の田野畑駅周辺の羅賀に行きたかったのだ。
羅賀は今回の平成三陸大津波では27・8メートルを記録したが、死者21959人を出した史上最大級の大津波、明治三陸大津波(1896年)では非公式ながら高さ50メートルという大津波を記録した。想像を絶する大津波だ。それを見た時の恐怖感といったら、どれほどのものであったろうか。
羅賀を最後に国道45号に戻り、久慈を通り、岩手県から青森県に入った。
八戸から三沢へ。三沢漁港に寄ったが、震災2ヵ月後とは比べものにならないくらいに落ち着き、漁港には活気が感じられた。
三沢からは国道338号で下北半島に入り、白糠漁港に立ち寄る。ここまで来ると大津波の痕跡はまったく見られず、震災前と変らない活気が漁港に満ちあふれていた。
こうして東北太平洋岸最北の地の尻屋崎に到着。ここでぼくは心を決めた。
「これからもずっと、ことあるごとに鵜ノ子岬→尻屋崎を走ろう」
「次は震災1年後の鵜ノ子岬→尻屋崎だ!」
尻屋崎の夕日を見て出発。
むつから国道279号を南下。横浜では八幡神社の秋祭りを見た。
野辺地からは国道4号で青森へ。21時、青森駅前に到着。
青森からは東北道をひた走る。
1時、岩手山SAに到着。「焼き走りラーメン」を食べる。
6時、国見SAに到着。
8時45分、佐野SAに到着。「朝定食」を食べる。
9時45分、浦和料金所に到着。
東北道から首都高、東名と走り、伊勢原の自宅に帰り着いたのは11時30分。
全行程2094キロの第3回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」だった。