賀曽利隆の観文研時代[128]

賀曽利隆食文化研究所(17)信州編

『ツーリングGO!GO!』(三栄発行)2004年1月号 所収

序論

 信州名物の「おやき」を食べようと、諏訪盆地の下諏訪から、佐久平(佐久盆地)の岩村田までの中山道をDJEBEL250GPSで走った。

 下諏訪宿から岩村田宿までの間の中山道には、昔ながらの面影を今にとどめる宿場町がいくつも残っている。

 おやきを食べるのにも、最適の舞台だと考えた。

 秋晴れの一日で、中山道の和田峠や笠取峠は見事な紅葉だった。

調査

 下諏訪では諏訪大社下社の秋宮を参拝。

 秋宮前を走る国道142号をわずかに行ったT字の交差点が中山道と甲州街道の合流点で、甲州街道の終点になっている。

 そこに立つ「甲州道中山道合流之地」碑には「右 江戸へ五十三里十一丁 左 江戸より五十五里七丁」と書かれている。

 右が甲州街道で左が中山道。その差はわずかに1里半(約6キロ)でしかない。

 下諏訪から東京までは甲州街道を行く方がはるかに近いように感じるが、中山道で行っても、それほど距離に変わりはないのだ。

 中山道最大の難所、標高1520メートルの和田峠は旧道で越えた。

 峠を登るにつれて赤や黄色の紅葉がまばゆいばかりに輝きを増す。

 ビーナスラインと交差する峠を越え、新道と合流。

 峠下の宿場、和田宿に向かっていく途中で、待望の「おやき」の看板を発見。

 国道142号沿いの食堂「杉の屋」だ。

 バイクを停めて店内に入ると、薪ストーブが赤々と燃えていた。

 ここには野沢菜、小豆、茄子、野菜ミックスの4種類のおやきがあった。

 1個200円。

 4種のおやきをひとつづつ買って食べてみる。小麦粉のおやきの中にはそれぞれの具がたっぷりと入っている。このバラエティーに富んだ味わいがおやきの魅力。その中でも野沢菜は小麦粉との相性が抜群にいい。

 野沢菜、茄子、野菜ミックスと野菜系の3種を食べたあと、最後に小豆餡のおやきを食べた。おやきはツーリングの途中で食べる軽食には手頃だが、4個も食べると、けっこう腹いっぱいになる。

 おやきは小麦粉をぬるま湯でこね、中に野菜類や小豆の餡を入れてゆで、焼いたもの。こねた小麦粉をゆでたあと、さらに焼くので、焼き餅ともいわれる。

結論

 食堂「杉の屋」でストーブにあたりながらおやきを食べていると、冬の秋山郷をバイクで走ったときのことが思い出されてならなかった。

 新潟、長野両県にまたがる秋山郷は久しく秘境といわれてきたところ。

 新潟側から長野側に入り、最奥の切明温泉で川原の露天風呂に入り、その夜は長野県側の小赤沢の民宿に泊まった。

 翌朝、民宿の奥さんは「おやき」の原型の「アンボ」をつくってくれた。

「昔はね、朝、早起きして、アンボをつくったものなのよ。石臼でヒエとかソバをひいて粉にして。アンボはだいたい朝食に食べましたね」

 といいながら米粉(粳米)をこね鉢に入れ、湯を注ぎ、粉をよくこねて丸め、その中に餡を入れた。

 アンボの中に入れた餡は野沢菜の漬物を刻んで油で炒めたものと、ゆでた青菜を味噌で和えたもの、それと甘い小豆餡の3種だった。

 餡を入れて丸めなおすと、鍋で湧かした湯の中に入れ、グラグラッとゆで、それをストーブの上にのせた網で焼いた。

 焼き立てをフーフーいいながら食べたが、こんがりと、焦げ目がつくくらいに焼けたアンボの香ばしさは忘れられない。

「イロリがあったころはね、熱い灰をかきわけてそこにアンボを並べ、半分くらい灰をかけておいたのよ。少しして、裏返しにして、七分くらい灰をかけて。それを裏返しして、すっかり灰をかけて焼き上げるの。焼けたアンボを灰の中から取り出して、ポンポンとたたくと、灰はきれいに落ちるのよ」

 イロリがあったころは、餡を入れて丸めたアンボはゆでることなく、そのまま熱い灰で焼いたという。だがイロリのなくなった現在では、ゆでて焼いてと、アンボのつくり方も変わった。

「おやき」の看板を掲げた店を信州各地で見かけるが、使う粉は大半が小麦粉。だが、おやきはもともとは秋山郷のような、山間の水田のほとんどない、焼畑などで盛んにヒエやアワなどの雑穀類やソバをつくっていた山村特有の食べ物。ヒエ粉やソバ粉などでつくっていた。それが小麦粉に変わった。

「おやき」は今、手頃な軽食として時代の脚光を浴びている。

 味にも工夫がこらされ、信州の街道沿いには「おやき」の専門店が次々とできている。

 これぞまさしく食文化の現代的な発展だ!