第1回目(4)2011年5月10日-20日

通行止めの連続、1時間が4時間に

 五社林道(ダート2・9キロ)→黒森林道(ダート5・5キロ)と2本の林道を走りつなぎ、国道399号に出たが、そこはいわき市内の名無しの峠の峠上だった。そこから国道399号を北上。交通量は極少。広狭混在の道で阿武隈山地の山中を縫っていく。

 いわき市から川内村に入る。その境も名無し峠。県道36号との分岐を過ぎ、川内村の中心地へ。国道399号沿いの店はすべてシャッターを下ろしている。このあたり一帯は放射線高濃度の危険地帯ということで、川内村は死んだようにひっそりと静まりかえっていた。村役場近くの「かわうちの湯」に行くと休業中。「いわなの里」に向かうと、国道から右折する道は通行止だ。

 川内村からさらに国道399号を北上する。田村市との境も名無しの峠。

 旧都路村の都路で国道288号にぶつかるが、右の双葉町方向は通行止。国道288号に合流し、反対方向に5キロほど重複区間を走り、国道399号を再度、北上する。

 札掛峠を越えて葛尾村に入り、葛尾村からは登館峠を越えて浪江町に入る。国道399号はこのように次々と阿武隈山地の峠を越えていく。

 浪江町の津島で国道114号にぶつかるが、浪江方向は通行止。阿武隈山地から浜通りに出る道は、このようにすべて通行止になっている。

 津島からさらに国道399号を北上し、いちづく峠を越えて飯舘村に入る。この飯舘村も放射能の危険地帯としてたびたびニュースに登場しているので、村名は全国区的に知れ渡ったが、村内はどこもひっそりとしていた。

 いちづく峠を下った長泥で国道399号を右折し、県道62号に入った。この道が南相馬市に通じている。山中の小集落を通り、最後の集落を過ぎるとダートに突入。8・6キロのダートの途中が飯舘村と南相馬市の境。南相馬市に入り、高ノ倉ダムの脇を通り、原町に向かっていく。その途中で県道34号を横切ったが、自衛隊の車両が隊列を組んで走っていた。

 こうして東京電力福島第一原子力発電所爆発事故現場から20キロ圏の北側にやってきたが、これが最短ルート。それにしても長い長い迂回路だった。国道6号を行けば1時間ほどで走れる区間を4時間以上もかけて迂回した。

 JR常磐線の原ノ町駅前を出発し、東京電力福島第一原子力発電所爆発事故20キロ圏の北側から、通行止地点まで行ってみる。

 まずは県道120号。この道は江戸時代の五街道に準じるくらいに重要な陸前浜街道。「相馬野馬追」のクライマックスシーンの神旗争奪戦がくり広げられる雲雀ヶ原を通り、寄り道して太田神社に行ってみる。相馬野馬追の原町の騎馬武者はここから出ていく。倒れた石塔などが見られたが、太田神社は健在だ。

 県道120号に戻ると、さらに南下し、通行止地点でDR−Z400Sを止めた。その地点の写真を撮っていると、通りがかった兵庫県警のパトカーが停まり、けっこう厳しく調べられた。若い警官の言葉使いは丁寧だったが、まるで被疑者を追い詰めていくような調べ方。幸いその地点での取調べだけですんだが、警察署に連れていかれたら、もっと厳しく調べられたことだろう。

 このことからもわかるように、東京電力福島第一原子力発電所爆発事故現場から「20キロ圏」は緊張地帯で、ピリピリとした空気が漂っていた。

 県道120号の通行止地点で折り返し、太田神社の前を通って国道6号に出た。ここでも同じように南下し、今度は通行止地点のすこし手前でDRを止めた。通行止地点では警視庁の警官が検問をしていたからだ。

 県道120号と国道6号2地点の通行止地点を見ると、JR常磐線の原ノ町駅前に戻った。ここではあらためて東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故が、浜通りをズタズタに切り裂いてしまったことを実感するのだった。

 原ノ町駅前を再度、出発。国道6号を横切り、海沿いの県道74号を行く。

 南相馬市の太平洋岸は、大きな被害を受けていた。すさまじい状況に目を覆いたくなるほど。堤防が粉々に砕けているところもあった。かつては100戸、200戸とあった集落が跡形もなく、消え去っていた。

奇跡の現場、蒲庭温泉「蒲庭館」

 そんな中に奇跡の現場があった。海岸近くの一軒宿、蒲庭温泉「蒲庭館」だ。ここには何度か泊まったことがあるが、蒲庭温泉は営業を再開していた。

 夕方に飛び込みで行ったのだが、心やさしいおかみさんは部屋をあけて泊めてくれた。

 夕食も用意してくれた。

 というのは、ここには日本中からやってきた仮設住宅建設の業者のみなさんが泊まっていて満室だったからだ。

 若奥さんの津波の話は衝撃的。

 ちょうどその時は高台にある小学校での謝恩会の最中だったという。そこから巨大な「黒い壁」となって押し寄せてくる大津波が見えたという。巨大な「黒い壁」は堤防を破壊し、あっというまに田畑を飲み込み、集落を飲み込んだ。

 多くの人たちが逃げ遅れ、多数の犠牲者が出てしまった。

「地震のあと、大津波警報が出たのは知ってましたが、どうせ4、50センチぐらいだろうと思ってました。まさかあんな大きな津波が来るなんて…」

「蒲庭館」の若奥さんのそんな言葉は胸に残った。

 温泉から上がると夕食。

「何しろ食材が手に入らないもので…」
 といいながら夕餉の膳を持ってきてくれた。

 ビールを飲み干したあと、刺身や焼魚、コロッケなどの夕食をいただいた。温泉宿に泊まり、温泉に入り、夕食まで食べられたのは、信じられないようなことだった。