[1973年 – 1974年]

アメリカ編 5 ラレド[アメリカ]→ オアハカ[メキシコ]

難しいメキシコでのヒッチハイク

 1974年10月14日、モンテレーのバスターミナルに到着すると、メキシコ・シティーに向かって歩きはじめる。相当の交通量なのだが、なかなか乗せてはもらえない。メキシコのヒッチハイクは難渋をきわめた。

 スペインの場合とまったく同じだ。ヒッチハイクを嫌うラテンの民族性なのか。半日以上、歩きつづけ、やっと乗せてもらったと思ったら、メキシコ人ではなく、テキサスからやってきたアメリカ人の車だった。

 ビクトリアまで乗せてもらい、町中で野宿。夜明け前に警官にたたき起こされ、まだ暗い町を出、メキシコ・シティーに向かって歩いた。

 またしてもまったく乗せてもらえないまま歩きつづける。あまりにも楽だったアメリカでのヒッチハイクと比べると、天国と地獄のような違いだ。この日もアメリカ人旅行者に救われた。テキサスからやってきた旅行者の車でメキシコ湾岸のタンピコまで乗せてもらった。

 タンピコに到着すると、メキシコでのあまりのヒッチハイクの難しさに打ちのめされ、メキシコ・シティーまではバスに乗った。これから先のことを考えると、気分はすっかり落ち込んでしまう。

世界最悪の公害都市

 メキシコの首都、メキシコ・シティーに到着すると、あまりのスモッグのひどさに息をするのも苦しくなった。ドヨーンと汚れきった空気が標高2200メートルの盆地全体に溜まっていた。それまでまわってきた中では最悪の公害都市。一刻も早く逃げ出したくなった。

「これでは体がやられてしまう…」
 と本気で心配した。

 やっとの思いでグアテマラの大使館を探し出し、ビザを申請する。窓口には「ヒッピーの入国禁止」の貼紙がしてあった。髪の毛を長くした旅行者にはビザを発行しないというのだ。

 ビザの申請用紙には、
「髪の色は?」
「目の色は?」
「肌の色は?」
 と、書き込む欄があった。

「ふざけんなよ、関係ないだろ」
 といいたかったが、ぐっとその言葉を飲み込み、窓口にビザの申請書を提出。その日のうちにビザを発行してもらった。

エレン&チコのカップル

 グアテマラ大使館でビザを受け取ると、メキシコ・シティーのあまりの公害のすさまじさに、またしてもヒッチハイクする気をなくし、バスでプエブラに向かった。そのバスの中では、ホセという若者と隣同士になる。彼のおかげで楽しいバス旅になった。

 プエブラに着くとバーで一緒にビールを飲み、その夜はホセの家に泊めてもらった。

 翌日はオアハカに向かう。天気は晴天。メキシコで見る初めての青空だ。

 そのおかげで、
「よし、頑張ってヒッチハイクしよう!」
 という気になった。

 しかしここでも乗せてはもらえない。歩いて歩いて、クタクタになるまで歩いた。何度もいってきたことだが、車に乗せてもらうまでは歩きつづけるというのが「カソリ流ヒッチハイク」の仕方だ。

 そしてついに乗せてもらった。

 それもアメリカ人旅行者の車。エレン&チコの若いカップルが乗っていた。2人とは話が弾み、夢中になってここまでの旅を語った。それを2人はおもしろがって聞いてくれた。チコには悪かったが、透き通るような肌をしたエレンにどうしても目がいってしまう。

 その夜は車中泊。ぼくは外で野宿するといったのだが、「一緒でいいから」といわれ、座席を倒した車中で3人で川の字になって寝た。

 翌日、オアハカに到着すると、エレン&チコの2人と一緒にオアハカの遺跡を歩き、マーケットを歩いた。そのあとの、悲しくなるくらいの2人との別れ…。エレンはぼくを抱きしめキスしてくれた。

 2人と別れたあとオアハカから南に向かって歩いたが、エレンの唇の柔らかさ、胸のふくらみ、体の温かさがいつまでも残り、体が火照ってくるようだった。

 さようなら、エレン&チコ!