30年目の「六大陸周遊記」[090]

[1973年 – 1974年]

アメリカ編 3 ピッツバーグ[アメリカ]→ サンアントニオ[アメリカ]

自給自足のクリシュナファーム

 ペンシルバニア州の重工業都市、ピッツバーグを出発した日は強烈な寒さ。ガタガタ震えながら歩いた。その日はオハイオ州のコロンバスに向かったが、クリシュナ教徒の乗ったオンボロ車に乗せてもらった。

 彼らに「自分たちの所に来ないか」と誘われ、丘陵地帯のクリシュナ・ファームでひと晩、泊めてもらった。

 そこはクリシュナ教徒たちが住む自給自足の農園。クリシュナといったらヒンズー教の神だが、クリシュナ教徒にはインド人のみならずアメリカ人の若者が多かった。彼らは髪を長くし、裸足の若者もいる。「ベア(裸足)は健康にいいんだ」といっている。全員がベジタリアン(菜食主義者)のようで、食事には肉は一切、出なかった。

「しばらく泊まっていったらいい」
 といわれたが、翌朝、ウイリーンの町まで送ってもらってヒッチハイクを始めた。

リンカーンの生まれた町で

 ペンシルバニア州からオハイオ州に入り、州都コロンバスへ。

 いったん都市に入ると、出るのが大変だ。そこからシンシナティに通じる高速道路、I(インターステーツ)71のインターチェンジまではひたすら歩いた。インターチェンジに到着すると、入口に立って車を待つのだが、ほどなくシンシナティまで行く車に乗せてもらえた。このようにアメリカでのヒッチハイクはほとんど待たずに乗せてもらえた。

 シンシナティからは夜中のヒッチハイクでケンタッキー州に入った。

 ケンタッキー州最大の都市、ルイビルからは、家具を積んだトラックに乗せてもらった。そのトラックは小さな町の家具店で停まった。

 トラックの運転手は
「この日本人はヒッチハイクで世界中を旅しているんだ」
 と、家具店の主人にぼくのことを話した。

 すると何ともラッキーなことに、店の主人には近くのレストランに連れていかれ、豪勢な昼食をご馳走になった。何しろ毎日、腹をへらしているので、ぶ厚いビフテキに夢中になってくらいついた。

 涙が出るくらいうまいステーキだったが、家具店の主人は昼食をご馳走してくれただけでなく、20ドル紙幣を1枚、別れぎわにくれた。20ドルといったら、ぼくの10日分くらいの食費だ。ありがたくいただくことにし、家具店の主人とは何度も握手をかわして別れた。

 その家具店のある町は、アメリカ第16代大統領リンカーンの生まれた町だという。

行く先は運転手まかせ

 ケンタッキー州からテネシー州に入る。

 州都ナッシュビルからメンフィスへ。アメリカの「母なる流れ」のミシシッピー川を渡り、アーカンソー州に入る。

 東部から中部に入るとヒッチハイクは難しくなったが、それでもスペインやフランスなどに比べるとはるかに楽。「ヒッチ天国」のようなものだ。

 アーカンソー州で乗せてもらった車はオクラホマ州の州都、オクラホマシティーまで行くという。ぼくの予定ではアーカンソー州の州都、リトルロックからテキサス州のダラスに向かうつもりにしていたが、急きょ、リトルロック→オクラホマシティー→ダラスとルートを変更した。行く先は風まかせ、運転手まかせの毎日だ。

 オクラホマ州の州都、オクラホマシティーから南下してテキサス州に入り、ダラスでは町の中心の第35代大統領、ケネディーの暗殺現場を見た。

 ダラスからは人口80人という小さな村まで乗せてもらった。その夜は村のパーティー。飛び入りで参加させてもらったが、何とも楽しい一夜で、ひと晩泊めてもらった。

 アメリカ縦断もいよいよ最終ステージ。

 テキサス州の州都オースティンからサンアントニオを通り、メキシコ国境の町、ラレドに向かった。