[1973年 – 1974年]
サハラ砂漠縦断編 7 カサブランカ[モロッコ] → タンジール[モロッコ]
ケニトラのキャンプ場
モロッコ最大の都市、カサブランカを過ぎると、それまでは道路の右側にあったキロポストは、道路の左側になる。モロッコの道はすべてが「カサブランカに通ず!」か。
モロッコの首都ラバトからアフリカの旅のゴール、タンジールまでは、ワーゲンのオンボロ車に乗せてもらった。タイという若者の運転する車。彼はタンジールまで行くという。
ケニトラの町に近づくと、タイのオンボロ・ワーゲンは調子が悪くなった。
「今日はここに泊ろう」
といってキャンプ場に行く。閑散としたキャンプ場で、旅行者の姿はほとんどない。ドイツやイギリス、フランスなどからの旅行者でにぎわっていたアガディールのキャンプ場とは大違いだ。
タイは「明日、明るくなってから、車の修理をする」
といっている。
麻薬の館
ケニトラのキャンプ場ではシュラフのみで寝た。さんざん蚊にやられ、かゆくてかゆくて仕方ない。
朝、シュラフを見ると、ノミが飛び跳ねている。クソッ。捕まえてつぶした。さらに下着にはびっしりシラミがついている。前の晩の「かゆみ」は蚊、のみ、シラミのトリプルパンチだった。
キャンプ場のシャワーを浴び、下着をとりかえた。シラミにやられた下着は、もったいなかったけれど捨てた。
タイは車の修理をはじめた。ポイントが原因だったようで、新しいのに替えると、エンジンはふたたび調子よさそうな音をたてる。
さ、出発だ。
タンジールを目指して北へ。道のわきではメロンやブドウを売っている。水田やサトウキビ畑、塩田を見る。
タンジールの手前、40キロほどのところでは、
「いいところに連れていってあげる」
といわれ、とある家に入った。そこはまさに「麻薬の館」。ヒッピー風の5人の若者たちがハッシーシを吸っている。5人ともイギリス人旅行者で、1人は女の子。1人はかなり重症で、ゲッソリとやせこけ、指は絶えず震えていた。
タイはぼくにも吸わないかといったが、タバコも吸わないので断った。
タンジールに到着!
「麻薬の館」を離れ、タンジールへ。
タイは車を運転しながら、ずっとハッシーシ入りのタバコを吸っている。「麻薬の館」で手に入れたハッシーシをタバコに混ぜ、紙で巻き、それを吸っているのだ。
「これはタバコに混ぜているから、強くはないよ」
といってるが、車内にはハッシーシ特有のにおいが充満した。
「六大陸周遊・アフリカ編」のゴール、タンジールに到着。
タイと別れ、町を歩く。感無量だ。
「とうとう、ここまで来たか…」
タンジールからジブラルタル海峡を越えてスペインのアルヘシラスに渡るのだ。
モロッコ領内に盲腸のようにくっついているセウタからアルヘシラスに渡れば、フェリー代は3分の1で済むが、どうしても「アフリカ編」の最後をここ、タンジールにしたかった。
日が沈むと2度、「ドーン」、「ドーン」と大砲の音が響き渡った。この日からイスラム教の断食月「ラマダーン」が始まった。この砲声を合図に、1日の断食を終え、最初の食事をとるのだ。
モロッコを出られない…
タンジールの町をひと歩きしたところで、港に行く。港前のエージェントでスペインのアルヘシラスまでの切符を買い、乗船口へ。19時発のフェリーに乗船する。
まずは税関、つづいてパスポートチェック。
ところがなんと乗船直前だというのに、
「(パスポートにモロッコへの入国印がないので)イミグレーション・オフィスに行くように」
といわれてしまった。
イミグレーション・オフィスに行くと、
「なぜ、モロッコの入国印がないのか」
と、聞かれた。
「陸路でモロッコに入ったので、その地点にはイミグレーションがなたったんです」
と、答えた。
そうか、わかったということで、イミグレーションのオフィサーは一度はポンとパスポートに出国印を押してくれた。
だが、そのあとがいけなかった…。
「ところで、どこからモロッコに入ったのかね」
「はい、スペイン領サハラからです」
イミグレーション・オフィサーはそれを聞くと、急に怒り出し、
「サハラ・エスパニョールではない。サハラ・ド・モロッコだ」
といって、出国を取り消され、イミグレーション・オフィスからポリス・フロンティア(国境警察)に連れていかれた。
まずいことになった…。
ポリス・フロンティアではコミッショナー(署長)に連絡が行き、彼が来るまで待つようにといわれた。その間に19時発のフェリーは出てしまった。
コミッショナーが来るまでの間、警官のモハメッドさんと話した。彼はさんざんイスラエルの悪口をいったあと、ワールドカップのアフリカ代表がザイールになったことに腹をたて、
「アフリカ代表はモロッコでなくてはダメだ!」
といって怒り心頭といった顔をする。
やがてコミッショナーがやってきた。
パスポートをチェックされ、いくつかの質問をされた。
「キミはイスラエルには入ったかね」
「いいえ」(ほんとうは入っている…)
「キミはレッド・アーミー(日本赤軍)のメンバーかね」
「いいえ」
「モロッコは好きかね」
「はい」
それでフロンティア・ポリスでの取調べは終った。
モハメッド警官に連れられてフェリーの待合室へ。そこでひと晩、寝られるようにしてくれた。さらに「明日の朝の便に乗れるようにしておくので」ということで、船会社のオマールさんを訪ねるようにといわれた。
21時30分、最終のフェリーが到着。それからしばらくして待合室の電気は消えた。ベンチで寝たが、さんざん蚊にやられた。もう踏んだり蹴ったりだ。
さらば、アフリカよ!
1974年9月18日。
はたしてうまく7時10分発のフェリーに乗れるかどうか。一抹の不安をかかえてフェリー待合室で朝を迎えた。まずは船会社に行き、オマールさんに会うと、すでに話は通じていて、そのままのチケットで船に乗れるようにしてくれてあった。
乗船手続きがはじまる。
税関のあと、パスポートチェック。ここでは昨夜と同じように「モロッコの入国印がないではないか」で、とがめられたが、「ポリス・フロンティアのコミッショナーからの出国許可をもらっている」のひと言で出国OKになった。
パスポートに再度、ポンと出国印を押された。
だが…、何とも偶然なことに、それはイスラエルの入国印の隣りだった。
「もし、バレたら…」
と、その瞬間、冷や汗が吹き出した。
7時10分、モロッコ船のフェリーはタンジール港を離れていく。ソ連の客船、イタリアの客船が見える。
離れていくタンジールの町並みに向かって、
「さらば、アフリカよ!」
と、叫んでやった。
オーストラリアのパースからインド洋のモーリシャス島に渡り、「アフリカ編」の旅を始めたのが1973年12月13日。それから280日目にアフリカを離れ、次ぎの大陸のヨーロッパへと向かっていく。