賀曽利隆の観文研時代[64]

下関(6)

1976年

下関を歩く

 下関滞在の3日目は下関駅前から火の山まで歩いた。

 海峡の町らしく、下関の町並みは関門海峡沿いに細長く延びている。源平の合戦で有名な壇の浦で山は海に落ち、町並みは途切れる。その先にある火の山は標高268メートル。山頂からは関門海峡を一望する。

 下関駅から火の山まで歩いた中で、強く印象に残ったのは春帆楼だ。ここは下関でも一流の料亭で、日清戦争の講和会議が開かれた所。下関にやって来て、近代日本における下関と大陸のかかわりの歴史に興味を持ったので、よけい春帆楼は印象に残ったのだろう。

 明治28年3月20日、ここで日本側全権の伊藤博文、陸奥宗光と、清国側全権の李鴻章との間に講和会議がおこなわれた。3月27日には休戦協定が結ばれ、4月17日に講和条約が結ばれた。いわゆる下関条約である。この条約によって日本の朝鮮支配の基礎が固められ、大陸への進出に拍車がかかった。日本は帝国主義への道をひたすらに走るようになる。

 春帆楼の門をくぐるとすぐ右手に記念館がある。そこには講和会議に使われたイスやテーブルが並べられ、その時の模様を描いた大きな絵が掲げられている。春帆楼にいるだけで、自分自身が歴史の舞台に立っているかのような思いにとらわれた。

 春帆楼の隣は赤間神宮だ。静けさの漂う春帆楼とは異なり、観光バスが次々にやってくる。観光客は列をなして朱と白の色鮮やかな水天門をくぐる。源平の合戦で壇の浦のもくずと消えた安徳天皇を祀る赤間神宮の水天門は竜宮城の入口を思わせた。

 赤間神宮の境内には大連神社が祀られている。満州の大連にあった大連神社のご神体を日本に持ち帰り、祀った神社。大陸への玄関口の下関らしい大連神社だ

赤間神宮の水天門
赤間神宮の水天門
赤間神宮の境内にある大連神社
赤間神宮の境内にある大連神社
大連神社から見る関門海峡
大連神社から見る関門海峡

 鉄道が開通する以前、下関第一の繁華街だった唐戸は赤間神宮に近い。下関の中心は唐戸から細江、竹崎と、西へ西へと移っている。それでも唐戸には百貨店や魚市場、それに隣接した商店街があって、歳末の買い物客でにぎわいを見せていた。唐戸から対岸の門司へ、渡船が出ている。

 唐戸で目につくのは、明治の文明開化の香りを残す赤い煉瓦造りの建物である。旧イギリス領事館で、現在は下関市の考古館として保存されている。イギリス領事館が下関に開設されたのは明治34年。その後、ノルウェーとアメリカの領事館が開設されたが、現在では韓国領事館があるだけだ。

 壇の浦で関門海峡に落ち込む山は、切り立った崖を作っている。その上をまるで舞うように本州と九州を結ぶ関門橋がかかっている。

 このあたりが関門海峡が一番狭くなる早鞆の瀬戸。わずか800メートルほどでしかない瀬戸の下を国道トンネルと新幹線のトンネルが通っている。

 関門橋の真下に座り込み、海峡を行き来する船を眺めた。

 日本船だけでなく、外国船もひんぱんに通る。早鞆の瀬戸はまるで大河のようだ。あちこちで渦を巻き、周防灘から響灘の方へ勢いよく流れている。速い流れを見ていると、壇の浦の合戦で潮流の変化が勝敗に大きな影響を与えたということが実感できる。