賀曽利隆の観文研時代[121]

賀曽利隆食文化研究所(10)浜松編

『ツーリングGO!GO!』(三栄発行)2003年5月号 所収

序論

 春一番の林道を走ろうと、DJEBEL250XCで静岡県の奥浜名に向かった。

 浜松ICで東名を降り、浜松の中心街に入っていく。

 浜松城で徳川家康像にご対面。これがカソリの浜松到着の儀式のようなものだ。

 浜松から国道257号で浜名湖北側の奥浜名の奥山高原へ。

 このエリアの林道群を走破する前に、臨済宗方広寺派の大本山、方広寺を参拝した。

 参拝を終え、門前の「ゑびす屋」で休憩したときのことである。

 ここでぼくは劇的な「食」との出会いをした。

 店の奥さんは、
「これ、関東の人には、食べられますかねえ」
 といって、お茶と一緒に、皿に盛った茶色い味噌の固まりのような豆粒を出してくれた。

 奥さんはさらに、
「八丁味噌が大丈夫な人なら、食べられるのだけど」
 ともいった。

 さっそく何粒かを手でつまんで食べてみる。

 焼き味噌のような風味がある。山椒の香りがする。何か、昔ながらの懐かしさを感じさせる素朴な味わいだ。

 それは「食べられますか?」などというものではなく、茶請けにはちょうどいい味。「いやー、おいしいですよ!」
 というぼくの言葉に、奥さんはすごく喜んでくれた。

 これがぼくの「浜納豆」との出会いだ。

調査

 日本には大きく分けると、2種類の納豆がある。

 水戸納豆で代表される糸引き納豆と、浜松の浜納豆や京都の大徳寺納豆のような乾燥納豆である。

 ぼくは大徳寺納豆は食べたことがあるが、浜納豆は食べたことがなかったので、
「いつの日か食べてみたい!」
 とずっと思っていた。

 その浜納豆に出会ったのだ。

「この浜納豆は富塚町(浜松市)の法林寺さんでつくっているのですよ。それで法林寺納豆といいます」

「ゑびす屋」の奥さんにそういわれた瞬間、ぼくは猛烈な興味を抱き、奥山高原の林道群はあとまわしにし、すぐさま浜松に戻った。

 法林寺はスズキの本社とホンダの浜松工場のちょうど中間、佐鳴湖の北東1キロぐらいのところにあった。

 方広寺には全部で170ヵ寺もの末寺があるとのことだが、法林寺もそのひとつ。さっそく住職に会い、「法林寺納豆」のつくり方を聞いた。

 そのつくり方というのは次のようなものだ。

 よく洗って水に浸した大豆を6、7時間かけて、ゆっくりと蒸す。

 次に酵母菌の混ざったコウセン(麦こがし)をまぶし、麹室で3、4日、寝かせる。

 それをキアゲ(生醤油)に漬けて半年近く熟成させる。

 最後にゴザの上に広げて天日で乾燥させる。そのときに、ひと粒づつをころがしながら形を整え、醤油漬けにしたショウガをまぶして風味を出す。

 そして袋詰めのときにサンショの実を入れる。

 このように「法林寺納豆」は大変な手間と時間をかけてできあがるもので、その話を聞いたときは、1袋300円という値段が信じられないような思いがした。

 方広寺に戻ると、そこを拠点に奥山高原の林道群を走った。最後にダート7キロの扇山林道を走り、三遠(三河・遠江)国境の瓶割峠に出た。

 峠から三ヶ日町の中心街に下っていく途中では、真言宗の大福寺に立ち寄った。

 貞観17年(875年)に創建された幡教寺(その寺跡は扇山林道のわきにある)がもとになっているという大福寺だが、この寺が「浜納豆」発祥の地。中国(明)の僧が伝えたという。そのため当時は「唐納豆」といわれたという。

 見事な庭園のある大福寺の社務所では、浜納豆の「大福寺納豆」を試食できるし、土産に買っていくこともできる。さっそく数粒、食べてみたが、「法林寺納豆」以上に焼き味噌の風味を感じた。

「大福寺納豆」は発酵させた大豆を塩水に漬けるということだが、その製法の違いが味の違いになっているようだ。

 その日は三ヶ日の奥浜名湖(猪鼻湖)の湖畔の宿に泊まった。

 さっそく浜納豆をつまみに、ビールをキューッと飲み干した。夕食後には浜納豆を酒の肴に、地酒の「奥浜名湖」をチビチビ飲んだ。

 翌朝は宿の朝食の前に、浜納豆の茶漬けをサラサラッと食べた。

 茶請けに、ビールのつまみに、日本酒の肴に、茶漬けに、すごくよく合う浜納豆だ。

結論

 浜納豆の茶漬けをすすりながら、方広寺門前の「ゑびす屋」のご主人、原田伸夫さんと奥さんの漫才のようなやりとりを思い出した。

 ご主人は地元の人で、奥さんは福島県のいわき市の出身。2人は昭和20年代に東京で出会った。

 ご主人にとって納豆といえば浜納豆のような乾燥納豆のことで、当時このあたりには、糸引き納豆はまったくなかった。

 東京に出て、「なっと、なっとー、なっと」の納豆売りの声に引かれて、初めて東京の納豆を買ったときは、飛び上がらんばかりに驚いた。

 経木につつまれた糸引き納豆は、原田さんの想像をはるかに越えた食べ物で、まったく食べられなかった。

 原田さんは奥さんと出会ってまもなく、
「これは故郷の浜納豆だよ」
 といって奥さんに手渡した。

 奥さんはてっきり「甘納豆」だと思い込み、何粒かを口の中に入れ、その瞬間に吐き出した。とても食べられるものではなかったという。

 結婚し、こちらに来て26年になるとのことだが、奥さんは今だに浜納豆は食べられない。納豆といえば糸引き納豆のことで、故郷の四倉(いわき市)の納豆は水戸納豆に負けないくらいの味の良さ。今でも四倉の納豆の味がなつかしく思い出されて仕方ないという。

 静岡は日本を東西文化に分ける分岐点というか中間地点。

 糸引き納豆は静岡以東のものだし、浜納豆などの乾燥納豆は静岡以西のものになる。

 納豆という食べ物ひとつで日本の東西文化論をおおいに語れるし、日本が手にとるようによくわかるというものだ。それが食文化のおもしろさなのである。