鵜ノ子岬→尻屋崎[007]

第1回目(6)2011年5月10日-20日

仙台空港はやっと再開されていた

 亘理町の荒浜を出発。

 東北第2の大河、阿武隈川にかかる県道10号の亘理大橋を渡り、対岸の阿武隈川河口でスズキDR−Z400Sを止め、今度は対岸から荒浜を眺めた。太平洋に流れ出ていく阿武隈川の悠々とした流れはいつもと変らない。

 その先の海岸地帯には神明社の社が残っていた。周辺の家々は大津波で破壊されたのに、神明社だけがポツンと残っていた。またしても神仏の奇跡の現場を見た。

 県道10号沿いの「KUMA食堂」で昼食。ボリューム満点の「とんかつ定食」(800円)を食べた。「ご飯が足りなかったら、どうぞおかわりしてください」と店の奥さんに声をかけられた。ご主人と2人でやっているが、この一帯も大津波で水びたしになり、夫婦で力を合わせてやっと店の再開にこぎつけたという。

 県道10号は県道20号との交差点で通行止。その先は仙台空港の滑走路の下をトンネルで抜け、塩竃へと通じている幹線道路で、仙台を抜ける絶好のショートカットのルートなのだが…。

 交差点を右折し、県道20号経由で仙台空港まで行ってみる。

 空港周辺の道路の信号機はすべて消えている。警視庁の警官が交差点で交通整理をしている。このときばかりは「ご苦労さま」という気分で警官に頭を下げて交差点を通過した。

 大津波に直撃された仙台空港は大きな被害を受けたが、やっと再開された。

 再開されてまもない仙台空港のターミナルビルを見たあと、海沿いの県道125号を走ってみる。だが途中で通行止。その先端はすさまじい光景だ。松林はすべてなぎ倒され、道路は砂をかぶって消えている。目の前にはサハラを思わせるような砂原が広がっている。

 県道20号でいったん国道4号に出た。

 この一帯は海側からいうと県道125号、県道10号、仙台東部道路、国道4号が海岸線と平行して南北に走っている。大津波は海岸一帯を飲みつくし、海岸から5キロ近くも離れている仙台東部道路まで押し寄せた。何というすさまじさ。仙台東部道路の盛土が堤防の役目を果たし、ここでかろうじて大津波をくいとめることができた。

神仏の力を見た

 仙台からは国道45号を行く。

 多賀城では陸奥国府跡の多賀城跡を見る。多賀城跡は大津波の被害を受けることもなく無事だった。「奥の細道」ゆかりの壷碑も無事だ。今回の平成大津波は死者2万1959人を出した明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」に次ぐものだが、史上最大といわれる869年の「貞観の大津波」で陸奥国府は全滅した。

 多賀城だけを見れば、やはり1150年前の「貞観の大津波」の方がより大きな津波だったということになる。

 多賀城から国道45号で塩竃へ。

 塩竃では陸奥一宮の塩竃神社を参拝。そこではうれしい出会いが待っていた。

「300日3000湯」の温泉めぐりで何度となく出会ったホリゴメさんが待ってくれていた。ホリゴメさんからは「東北力」や「東北を目指せ!」、「東北へ進路をとれ!」などの「東北ステッカー」をもらった。

 ホリゴメさんと別れ、塩竃神社を歩いたが、ここでも神仏の力を見せつけられた。1200年の歴史を誇る塩竃神社は無傷で残った。しかし参拝する人はあまりにも少なく、境内は閑散としていた。

 塩竃では塩竃漁港を見てまわった。すでにここでの水揚げは再開され、魚市場での競りも始まっていた。仙台以南の太平洋岸と比べると、塩竃の受けた被害は軽かった。

 塩竃から松島へ。日本三景の松島になると大津波の被害はさらに少なくなり、国宝の瑞厳寺はいつも通りに参拝できた。国道45号沿いの土産物店は、すでに何軒もの店が再開し、松島湾の遊覧船も運航していた。シンボルの五大堂も無事だ。松島湾に浮かぶ無数の島々が、松島を守ってくれたのだろうか。さらにその沖合いに鎖状で連なる浦戸諸島の島々が、天然の大防波堤の役目を果たしてくれたようだ。

石巻の川沿いにはゴーストタウンがつづいた

 松島から海沿いのルートで石巻へ。

 県道27号で東松島市に入った。そこは大塚。JR仙石線の陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みも無傷で、大津波の痕跡はまったく見られない。

 大塚からゆるやかな峠を越えると東名(とうな)に入った。そこには東名駅がある。大塚から東名まではわずか2キロほどでしかない。

 信じられないのだが、この2キロが天国と地獄を分けた。大塚は無傷で、東名はすさまじい被害を受け、壊滅状態だ。

 東名からは駅舎が破壊され、列車が流された野蒜駅前を通り、県道60号→県道45号で石巻へ。

 石巻の新市街の方はいつも通りのように見えた。ところが旧北上川の河畔に出ると状況は一変し、大津波で町は壊滅状態。川沿いにはゴーストタウンがつづいた。乗り上げ船も見られた。

 日和山公園に登り、真っ先に「奥の細道」の芭蕉&曽良像を見た。台座は動いているが、像は無事だった。よかった!

 日和山公園からは旧北上川の河口を見下ろした。

 あまりにも無残な姿に変わり果ててしまった石巻の町並みにはもう言葉もない。鹿島御子神社前の展望台には多くの花が供えられていた。

 石巻からいったん東京に戻ることにした。

 石巻駅前を出発したのは18時30分。

 登米市の鱒淵小学校まで行き、「RQ市民災害センター」を拠点にしてボランティア活動をされている皆さんにお会いし、21時30分、登米を出発。三陸道→仙台北部道路→東北道と高速道路を走りつないだが、東京までは問題なく走れた。ただ、東北道の「須賀川〜白河」間は大地震の影響で路面がかなり波打っていた。

 伊勢原の自宅に戻ったのは2011年5月13日の午前6時だった。