30年目の「六大陸周遊記」[062]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 11 カノ[ナイジェリア] → ラモルディ・トロディ[ニジェール]

大旱魃の西アフリカ

 1974年7月27日、ナイジェリアからニジェールに入った。

 サハラ砂漠以南の西アフリカの国々は大旱魃で大きな被害を受けていたが、ナイジェリアからは援助物資を積んだトラックが続々と国境を越えてニジェールに入っていく。そんな援助物資の穀物を積んだトラックに乗せてもらった。アメリカからの援助の小麦粉を積んだトラックだった。

 国境から100キロほどのマラディまで、そのトラックに乗せてもらった。

 ニジェールに入ると、一気に乾燥度は増した。暑さも厳しくなった。道の両側には家畜の死骸がころがり、白骨が散乱していた。

 サハラ砂漠が南へ、南へとひたひたと押し寄せているといった印象を受けた。

 マラディからはナイジェリア国境沿いの道でビルニ・ンコンニへ。その間は250キロ。その途中で野宿し、翌日、ビルニ・ンコンニに到着。「ビルニ」はハウサ語で町を意味するという。ナイジェリア北部に住むハウサ族はニジェールにも大勢住んでいる。ハウサ語はナイジェリアのみならず、ニジェールでも重要な言葉になっている。

ニジェールの乾燥した風景
ニジェールの乾燥した風景
援助物資を積んだラクダ
援助物資を積んだラクダ
首都ニアメーに到着

 ビルニ・ンコンニからは首都ニアメーに向かう。

 フランス人の車に乗せてもらったが、道路建設の技術者で、ブッシュの中のキャンプ地に連れていってくれた。灼熱の原野の中に、突如、別天地が現れたようなところだ。プレハブの宿舎の中に一歩入ると、ひんやりとした空気が流れてくる。エアコンが寒いくらいにきいていた。

 水を出されたが、きれいな澄んだ水だ。毎日、濁った水を飲んでいたので、無色透明の水はありがたい。頭がズキンと痛くなるほどの冷えた水だった。そのあとフランス料理の昼食をご馳走になった。

 フランス人の次はアメリカ人。

 大旱魃の援助でアメリカ政府から派遣された農業技術者だ。ニアメーへの途中では、アメリカの援助で建設中の食糧倉庫を何ヶ所かで見たが、彼は食糧備蓄の重要性を話してくれた。

 ドゴンドゥチ、ドッソと通り、落ちていく夕日を追いかけるようにして西へと走り、アメリカ人の車でニアメーに到着。夜の町を歩き、ニジェール川河畔近くの市場の片すみで寝た。

オートボルタ国境へ

 ニジェールの首都ニアメーは田舎町をちょっと大きくした程度。そんなニアメーからオートボルタ国境に向かった。

 濁った茶色い流れのニジェール川にかかる橋を渡り、対岸へ。オートボルタに通じる道は交通量がきわめて少ない…。

 国境までは140キロほど。歩いて、歩いて、歩きつづける。

 雨が降り出した。あわてて道路沿いの民家に逃げ込み、雨宿りをさせてもらった。雨宿りの最中にトラックの音。あわてて道に飛び出すと、運よく乗せてもらえた。国境の村、ラモルディ・トロディまで行くトラックだった。

 ニアメーから南西に進んでいるので、緑が次第に増えてくる。おまけに雨期なので、木々の緑がよけいに目についた。

 ラモルディ・トロディには税関があり、そこでまず最初の出国手続きをし、さらに数キロ行った村でイミグレーションのパスポートチェックを受けた。

 ニジェール側最後の村を過ぎると、通る車はほとんどない。オートボルタ側の国境の村カンチャリまで歩こうと決めた。その間は25キロ。

 毎日、粗食で我慢し、20キロ、30キロと歩きつづけているので体力は目に見えて落ちている。すぐに苦しくなり、木陰をみつけては休んだ。体の調子も悪く、熱っぽく、しょっちゅう下痢をしている。

「いったい、何でこんなこと、しているんだろう…」
 という気分に襲われるが、それを打ち消すように、
「アフリカをまわるんだ、徹底的にまわるんだ」
 と自分を叱咤激励し、木陰から立ち上がり、また歩き出すのだった。

ニアメーの市場
ニアメーの市場
ニアメーの市場
ニアメーの市場
ニアメーを流れるニジェール川
ニアメーを流れるニジェール川
ニアメーを流れるニジェール川
ニアメーを流れるニジェール川
ニアメーからオートボルタ国境へ
ニアメーからオートボルタ国境へ