30年目の「六大陸周遊記」[052]

[1973年 – 1974年]

赤道アフリカ横断編 1 ナイロビ[ケニア] → ベニ[ザイール]

ケニアからウガンダへ

 1974年6月7日、佐藤さん一家に別れを告げ、ナイロビを離れた。ナイロビ郊外のウエストランドからヒッチハイクを開始。ナクールへ。「赤道アフリカ横断」の第1歩だ。なんとも幸先のよいヒッチハイクでほとんど待たずにナクールまで行く車に乗せてもらえた。運転しているのは日本人。東アフリカのマイクロウェーブ網の建設にたずさわる技術者だった。

「この前、ヒッチハイクしているアメリカ人の女の子を乗せてあげたのだけど、ホテル代に1日100シル(約4000円)かかるっていったら、彼女は100シルあれば1ヵ月は生活できるっていうんだ。驚いたね」

「この国に来て一番いやなことは、何かしてあげても、すべて当たり前という顔をされることだ。感謝の気持ちがない。国にしても同じことで、豊かな国から援助してもらうのは当たり前だと思っている」

 そんな話を聞きながらナクールに到着。郊外のメンネガイ山近くの山上ステーションまで連れていってもらった。機材を調べ、アンテナを点検する。そのあと火をおこし、日本製のインスタントラーメンをいただいた。アフリカで食べる日本製インスタントラーメンの味は格別だった。

 ステーションの点検が終わると、まだ時間があるからといってメンネガイ・クレーターに連れていってもらった。クレーターの直径は10キロほどあるという。深さは500メートルほど。古い火山のなごりをとどめるクレーター内はうっそうと茂る人跡未踏を思わせるような森林で、まわりの壁は切り立った崖になっている。

 標高2277メートルのメンネガイ山の山頂にはポールが立っている。それには世界各地への距離が書かれていた。カイロ2200マイル、ローマ3600マイル、ロンドン4300マイル、メッカ1500マイル、カラチ2800マイル、ボンベイ3000マイル、東京6424マイル、ソールズベリー1200マイル、ケープタウン2600マイル…。そこからの眺望は抜群でナクールの町並みやナクール湖を一望できた。

 ナクールから次の町、エルドレットへのヒッチハイクも快調で、ほとんど待たずに乗れた。エルドレットには夕方に到着。ここからウガンダのトロロまでは列車で行くことにした。エルドレット発は22時。トロロの手前でケニア側のイミグレーションの出国手続きがあったが、ウガンダ側の入国手続きはなかった。

 午前4時、ウガンダのトロロ駅に着いた。外はまだ真っ暗。夜空には星がまたたいていた。バスターミナルに行き、ゴロ寝する。夜明けまで気持ちの良い眠りを楽しんだ。

独立とは何なのだろうか…

 トロロの町は平原の中にポコッとそそり立つ岩山の麓にある。町の郊外にはセメント工場がある。そんなトロロからはカンパラまで行く車に乗せてもらった。200キロあまりの距離だが、昼前にはカンパラに着いた。カンパラの町を歩きながらウガンダの独立について考えてみた。

 ウガンダはケニアに比べると物価が高い。ウガンダ・シリングが下落しているので当然のことなのだが、ケニアで40セントだったチャイ(ミルク入りの紅茶)が60セント、1シルのコーラが1シル20セント、1枚1シルの絵はがきが1シル20セント、1シル50セントのポテトチップスが3シル…といった具合だ。

 とにかくウガンダは変わった。

 以前だったら町はいうに及ばずどんな小さな村に行っても見られたインド人商人は、まるで魔法使いに吹き消されたかのように、きれいさっぱりと消え去った。そのかわり、店屋をのぞくと、商品はほとんど見当たらない。インド人を追い出したらこうなることはわかりきっていたのに、ウガンダ政府は今になってあわてふためいて制限つきでインド人を呼び戻しはじめたという。

 この混乱したウガンダの現状を見せつけられ、ウガンダの独立について考えさせられたのだ。この国を支配していたイギリス人やインド人を追い出したかわりに、ほんのひと握りのウガンダ人がその位置についただけではないか。

 ウガンダは東アフリカでは一番豊かな恵まれた国だった。それだけに大多数のウガンダ人は物価の高騰、自国通化の暴落、乱れた国の姿を見ていったいどう思っているのだろうか。あらためて独立し、国を治め、発展させていくのは大変なことなのだと思い知らされた。とはいうものの1963年のウガンダの独立からまだ10年ほどしかたっていない。独立がどうこういうのは早計で、もっともっと長い目で見なくてはいけないことかもしれないとも思った。

カンパラのバスターミナル
カンパラのバスターミナル
アルバート湖の湖岸に立つ!

 カンパラからはザイールに向かう前に、アルバート湖とマーチソン・フォールスに行くことにした。カンパラの郊外まで歩き、ヒッチハイクで200キロ北西のマシンディへ。そこから森林地帯を通り抜け、アルバート湖畔のブティアバの町まで行った。小波の寄せるアルバート湖の対岸には、ザイールの山々が連なっている。しばし湖岸にたたずみ、そんな風景を目に焼き付けた。アルバート湖から流れ出るナイル川がアルバートナイルで、スーダンに入ると白ナイルになる。そんなアルバート湖を見るのはぼくの憧れだった。これで1番目の目的を達成!

 ところでアルバート湖だが、ザイールの大統領の名前をとってモブツ・セセ・セコ湖と湖名が変わっていた。ルウェンゾリーの南のエドワード湖はウガンダの大統領の名前をとってイディ・アミン・ダダ湖になっていた。モブツもアミンも独裁者。この先、クーデターがおき、大統領が変わったら、きっとまた湖の名前は変わることだろう。

ウガンダの森
ウガンダの森
ウガンダの森
ウガンダの森
アルバート湖への道
アルバート湖への道
アルバート湖周辺の風景
アルバート湖周辺の風景
アルバート湖
アルバート湖
南京虫とノミ、毛虫のトリプルパンチ

 ブティアバからマシンディに戻り、次にマーチソン・フォールスに向かう。マーチソンの滝は白ナイル水系最大の滝。そのマーチソン・フォールスもカバレガ・フォールスに変わっていた。それにともないナショナルパークの名称も、マーチソン・フォールス・ナショナルパークもカバレガ・フォールス・ナショナルパークに変わっていた。

 1968年に来たときも、同じようにヒッチハイクでマーチソン・フォールスまで行こうとした。しかしナショナルパークなだけにヒッチハイクは難しく、結局、諦めてしまった。今回は再挑戦なのである。

 マシンディから歩き、マーチソン・フォールスに通じる道に入っていく。かなり歩いたところに「ツェツェ・コントロール」(ツェツェ蠅のチェックポスト)があり、そこで車を待った。1日待ったがダメだった。カンパラからやって来た観光会社のマイクロバスが3、4台通った。それが1日の全交通量。マイクロバスはツアー客をのせているので、当たり前のことだが乗せてはくれない。

 夜は「ツェツェ・コントロール」の若い係官が、星空のもとでの夕食にさそってくれた。彼はそのあと空いている家をかしてくれ、土間にパピルスの茎で編んだゴザを敷いてくれた。ところがゴザの上に寝袋を敷いて寝たのはいいが、南京虫とノミのダブルパンチをくらい、猛烈なかゆみで寝られたものではない。

 それでも寝袋にもぐり込んで寝たが、夜中には飛び起きてしまった。草屋根からポトンと落ちたのだろう、寝袋の中に大きな毛虫が入った。それに足をさされ、さらにつかんで外へ投げたので、手のひらもさされた。最初は痛く、そのうちに痛がゆくなり、足も手のひらもパンパンに腫れてくる。南京虫とノミ、さらに毛虫とトリプルパンチを食らって夜明けまで一睡もできなかった。

 次の日も午前中いっぱい「ツェツェ・コントロール」で車を待った。しかしヒッチハイクは成功しない。昼過ぎになってカンパラまで行く車がやってきたとき、マーチソン・フォールスに行くのは諦め、その車に乗せてもらった。若い係官にお礼をいって「ツェツェ・コントロール」を離れたが、「ナショナルパークに行くには、やっぱりお金を払わなくてはだめだなあ…」と思い知らされた。

赤道を往復

 カンパラに戻ると、夜汽車でルウェンゾリー山麓の町、カセセに向かった。そこが鉄道の終点。目をさますと夜が明けようとしていた。霧雨のような雨が降っていた。丘陵地帯にさしかかると、蒸気機関車はガクンとスピードを落とし、あえぎあえぎ登っていく。

 蒸気機関車は荒野を走りつづけ、昼過ぎに終点のカセセ駅に着いた。赤道直下の雪山、ルウェンゾリー(5119m)は厚い雲の中。その麓さえ見えなかった。それがまた「神秘の雪山」にふさわしい眺めでもあった。ルウェンゾリーを見るのはきわめて難しいことなのである。

 駅近くの食堂で腹いっぱい食べ、ザイール国境のカシンディへ。道はクイーン・エリザベス・ナショナルパーク内に歩いて入っていく。ここもルウェンゾリー・ナショナルパークに名前が変わっていた。カモシカ類を多く見かける。バッファローの群れや象も見た。この道はムバララ経由でカンパラに通じる幹線道路なので、ナショナルパーク代を払う必要もないし、ゲートがないので歩くこともできる。この道と分岐し、国境のカシンディに通じる道は2本ある。1本は赤道の北側の道、もう1本は南側の道になる。赤道を通過したかったので、南側の道を通ることにした。

 しばらく歩いたところで車に乗せてもらった。じきに赤道を通過し、カシンディへの道との分岐点で降ろしてもらった。周囲の広々とした草原ではカモシカが群れていた。

 赤道の南側のカシンディに通じる道を歩いていくと、標識があり、この道だとナショナルパークの入園料を払わなくてはならなかった。それは絶対にできない。ということで幹線道路まで戻り、歩いて赤道を越えた。これで赤道を北から南へ、南から北へと往復して越えたことになる。

 今度は赤道の北側の道を行く。その道はカシンディに通じる一般道のようで、ナショナルパークの入園料はとられることはなかった。白と黒の毛がふさふさした猿が何びきも道に飛び出してきた。それほど歩かずに車に乗せてもらい、カシンディに着いた。

ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
ルウェンゾリー山麓の風景
赤道を通過
赤道を通過
クウィーンエリザベスナショナルパークを行く
クウィーンエリザベスナショナルパークを行く
クウィーンエリザベスナショナルパークを行く
クウィーンエリザベスナショナルパークを行く
クウィーンエリザベスナショナルパークを貫く道
クウィーンエリザベスナショナルパークを貫く道
ルウェンゾリーの主峰群が見えている
ルウェンゾリーの主峰群が見えている
夕闇に沈むルウェンゾリー

 カシンディから国境のチェックポストに向かって歩いていく。このあたりはルウェンゾリーの南側になる。ウガンダ側の国境事務所ではポリスチェックだけで出国手続きはすぐに終わった。なんともラッキーなことだったが、ザイール側の国境事務所までは乗合タクシーがタダで乗せてくれた。ザイール側に入ると、クイーン・エリザベス・ナショナルパークはビルンガ火山群からとったビルンガ・ナショナルパークに名前が変わる。ザイール側での入国手続きも簡単に終わった。

 ここで車が来るまで待たせてもらった。じきにベニまで行くトラックが来た。国境からベニの町までは約80キロ。運転手に乗せてもらえないだろうか…と頼むと、3ザイール(約1500円)だといわれた。3ザイールは払えないので、「よーし、ベニまで歩こう」と決めた。2日あれば着けるなとふんだ。昼間は暑いので、夜通し歩くことにした。国境の役人たちに「これからベニまで歩いていく」と伝えると、彼らはとんでもないと血相を変える。

「このあたりにはライオンや象がたくさんいるんだ。夜歩いたら、ライオンに食い殺される」といって止めにかかる。

 ぼくはそんな役人たちに「いやー、大丈夫ですよ」と平気な顔を装い、歩き出した。言葉とは裏腹に内心はビクビクもの。日が西に傾いてくる。ガサッと音がしたと思ったら、カモシカだった。もうそれだけで心臓が停まるような思いだ。水辺近くではドサドサッと象の糞が落ちている。まだ新しい糞だ。それを見て心臓が早鐘のように鳴った。

 何気なく振り返ったとき、強烈なシーンが目に飛び込んできた。草原の向こうにルウェンゾリーの峰々がくっきりと浮かび上がっていた。雲はすっかり取り払われている。いまにも沈もうとする夕日を浴びて、赤道直下の雪をいだいた峰々はやわらかな橙色に染まっていた。しばらくは動物の怖さも忘れ、何もかも忘れ、立ちつくした。日が沈むと、ルウェンゾリーは青紫色に変わり、悲しくなるほどの早さで濃紺の夕空に消えていった。

「地獄に仏」だ!

 夜が深まるにつれ、恐怖感は増してくる。草原からは気味の悪い動物の鳴き声が聞こえてくる。まったくの闇夜なので、道がはっきりとは見えない。星空が唯一の頼り。月が出ていれば、どんなに楽なことか…。

 手をギューッと握りしめ、「恐くない、恐くない」といい聞かせながら歩く。手のひらは汗でびっしょり。立ち止まるとよけい恐くなるので、ひと休みしたくても立ち止まれない。

「地獄の仏」とは、まさにこのことだ。前方にランプの明かりが見えたのだ。疲れきった体にムチを入れ、明かりを目指して走った。そこにはビルンガ・ナショナルパークのゲートがあり、そのわきにはゲームワーデン(狩猟監視員)たちのキャンプ地があった。彼らには大歓迎された。遅い夕食をいただき、かしてくれた簡易ベッドで何の不安もなくぐっすりと眠れた。

ナイルの源流、セムリキ川を渡る

 次の日は夜明けとともに起き、ゲームワーデンたちに別れを告げ、ベニを目指して歩き始める。やがて朝日が昇る。日が高くなるとあっというまにきつい暑さになる。それでも昨夜の野生動物への恐怖感にくらべたら、暑さの方が楽だった。

 なにしろ交通量の少ない道なので、ベニまで歩く覚悟だったが、なんともラッキーなことに乗用車が通りがかり、ベニまで乗せてもらえた。やがてセムリキ川を渡る。この川はエドワード湖からルウェンゾリーの西麓を流れ、アルバート湖に注いでいる。ナイル川の源流のひとつといっていい川だ。

 ベニに近づくと、谷間から山道に入り、急勾配の斜面を登っていく。目の前には巨大なルウェンゾリーの大山塊が横たわっている。ベニの町に着いたときは心底、ホッとした。ザイール東部の中心地、キサンガニまで800キロ。

「ここまで来れば、あとはヒッチハイクも楽になるだろう」
 と、ぼくは何とも楽観的だった。