[1973 – 1974年]
アフリカ東部編 26 ナイロビ[ケニア] → ロドワール[ケニア]
50万円を手にする
南イエーメンのアデンからパキスタン航空機でケニアのナイロビに戻ってきた。空港からヒッチハイクでナイロビの中心街まで行き、そこからは郊外の住宅地にある佐藤さんの家へと1時間ほど歩いた。
佐藤さん宅ではうれしいことがあった。50万円の日本円が届いていたことだ。この前、ナイロビに戻ってきたとき、両親から『極限の旅』の印税が送られてきたという手紙を受け取った。それを送ってもらおうとしたら、難問が発生。第4次中東戦争後のオイルショックで日本の外貨事情は急速に悪化し、送金は1件につき200ドルまでという制限がつけられてしまったのだ。なんということ。ぼくが日本を出発した1973年の8月ごろというのは、「昭和元禄」だといって日本中が浮かれ、貯まり過ぎた外貨はどんどん使おうなどといっていたのに、わずか1年でこうも変わってしまうのだから…。それだけオイルショックの影響は大きかったということなのだろう。
すごく幸運なことに、佐藤さんと親しい菅原さんが一時帰国することになった。菅原さんは「カソリ君のご両親に会って、お金を預かってこよう」といってくれたのだ。
菅原さんは日系企業に勤めていたが、万年文学青年を思わせるような人。35歳になっても独身だった。そんな菅原さんの話はおもしろかった。
上司に結婚をすすめられたときのことだ。
「奥さんをもらうとな、朝の目覚めが苦にならなくなるよ」
「すると、なんですか、その奥さんとかいう女性は目覚まし時計のかわりですか」
「食事の心配をしなくてもすむようになる」
「すると奥さんは炊飯器のかわりですか」
菅原さんは生真面目な人だが、ユーモラスな一面もある。そんな菅原さんのおかげで、ぼくは50万円を手にすることができたのだ。
「六大陸周遊」の旅はまだまだ長い…
50万円の現金を手にすると、ぐっと心強くなる。とはいってもアフリカでは日本円の現金などまったく役にたたない。1万円札をヒラヒラさせても紅茶1杯、飲めなかった。銀行に行っても、いったいどこの国の金だといわんばかりの目つきで、両替はしてくれない。ナイロビの町中、いたるところで日本製の車やオートバイが走り、みんなが日本製のトランジスターラジオを持っているというのに…。
今、現在の所持金は250ドルあった。これでアフリカ大陸を横断し、サハラ砂漠を縦断して北アフリカに出る。そしてヨーロッパで50万円を両替し、アメリカに渡る。アメリカから南下し、6大陸目の南米へ。この50万円で「南米一周」まではできるなという計算を立てた。さらに計画を大幅に拡大していたので、アメリカに戻ったらロサンゼルスかサンフランシスコでアルバイトして旅の資金を貯め、それを元手にアメリカを横断してヨーロッパに渡り、トルコのイスタンブールから西アジアを横断してインドのカルカッタへ。最後は今回の旅の出発点、タイのバンコクまで行き、そこから日本に帰るつもりでいた。「六大陸周遊」の旅はまだまだ、この先、長いのだ。
「ナイロビ発の旅」の第5弾目
ナイロビからは赤道に沿ってアフリカ大陸を横断し、ザイールのキンシャサに向かうのだが、その前にもう一度、佐藤さんの家を拠点に旅に出たかった。第5弾目のナイロビ発の旅。目的地は決まっていた。ケニア北西部の辺境の地、ルドルフ湖の西岸地方だ。いままでに何度か行こうと思って、行けなかったところだ。なんとしてもルドルフ湖は見たかったし、スーダン、エチオピア国境に近いロキタウンまでは行きたかった。
その前に佐藤さんの家で1日、ゆっくりと休養させてもらった。奥さんのつくってくれたおいしい料理をいただき、夜は佐藤さんとウイスキーのグラスを傾けた。こうしてウイスキーを飲みながら佐藤さんと話していると、アラビア半島での旅の疲れなど吹っ飛び、新たな旅への情熱が急速に蘇ってくる。そしてまだ見ぬケニア北西部に夢を馳せるのだった。
日曜日の出発
ナイロビからルドルフ湖の西岸地方に向かったのは日曜日だった。ヒッチハイクは難しいのではないかと、何かいやな予感がした。予感は的中し、朝早く出発したのにもかかわらず、車に乗せてもらえないまま、昼近くになってしまった…。
昼過ぎになってやっとヒッチハイク成功。乗せてくれた車はナクールまで行くマツダのカペラだった。ケニア政府の高官で、彼との話が楽しかった。カペラは高速で突っ走り、ナイロビから160キロ北西のナクールにはあっというまに着いてしまった。
ナクールからは次の町、エルドレットに向かったが、今度は全然待たずに乗せてもらえた。モロに行く車で、エルドレットへの道との分岐点まで乗せてもらった。その先がしんどいヒッチハイクになった。交通量はかなりあるのだが、なかなか乗せてもらえない。
植林された森林を貫く道を歩く。高原のキリリと締まった空気。ケリチョーに通じる道との分岐点まで歩いた。大半の車はそこで曲がり、大きな茶のプランテーションがあるケリチョーの方向に行ってしまう。高度が2500メートル前後の高地なので、日暮れが近づくと、風が冷たくなり寒さに震えてしまう。
「こんな寒い中での野宿はいやだ」
と、夜通しのヒッチハイクをすることにした。
日本は遠い…
すっかり日が暮れ、あたりは真っ暗になった。そんな中で、なんとしたことか、いったん走り過ぎていった車が戻ってきた。フランス製のプジョーの乗用車。なんともラッキーなことにエルドレットの先まで行くとのことで、乗せてもらえた。
車を運転していたのはインド人のシーク教徒のサンドゥーさんという人。40過ぎの人で、助手席にはお母さんが乗っていた。そのお母さんが、「あの人を乗せておやり」といったので、Uターンして戻ってきたのだという。
天気が崩れ、雨が降ってきた。霧も出てきた。赤道の標識をヘッドライトが照らす。なんとも寒々とした赤道だ。
エルドレットの町を通り過ぎ、ウガンダに通じる道と北のキターレに通じる道との分岐点に来る。車はその分岐点を右に曲がり、キターレの方向へ。それはぼくの目指す方向だった。サンドゥーさんは「うちの農場に来て、ひと晩、泊まっていきなさい」といってくれる。ありがたく、そうさせてもらうことにした。
サンドゥーさんの農場はキターレに通じる道を左に折れ、すこし行ったところにあった。トーモロコシを主につくっているという。トラクターが6台もある大農場だ。夕食をご馳走になったあと、お茶を飲みながらサンドゥーさんの話を聞いた。
東アフリカを舞台にくりひろげられるサファリ・ラリーはアフリカ人もヨーロッパ人もインド人も熱狂するが、1ヵ月ほど前に終わった今年のサファリ・ラリーでは、「フライング・シーク(空飛ぶシーク教徒)」の異名をとるインド人のシーク教徒のジョギンデール・シン選手が三菱のランサーに乗って優勝した。サンドゥーさんはジョギンデール・シン選手のことをまるで自分の兄弟のように誇らしげに語るのだ。シーク教徒たちの結びつきはそれほど強い。
サンドゥーさんは「ランサーはすごい車だよ。プジョーもフォード・エスコートもボルボもまったくかなわなかった。ランサーにしても、ダットサン(ニッサン)にしても、日本はほんとうにすごい車をつくる国だ。私は日本という国がいったいどうなっているのか、いつも見たいと思っている。だけど、なにしろ遠いからねえ…。仕事でナイロビからロンドンに行くのとはわけが違う」
といって極東の国、日本の遠さを嘆くのだった。
にわかシーク教徒
翌日は朝食をいただき、農場を案内してもらったあと、キターレに通じる道まで送ってもらった。サンドゥーさんとは「今度は日本で再会しましょう!」といって別れた。ところがこのキターレへの道は交通量は多いのに、なかなか乗せてもらえない。ヒッチハイクが成功しないまま2時間、3時間と歩いた。その間では車にひかれたヘビの死骸を何度となく見る。ぼくはヘビが大の苦手なので、そのたびに身震いした。
午後になってやっとキターレまで行く車に乗せてもらえた。エルゴン山麓のキターレは標高が2000メートル近い高原の町。ルドルフ湖西岸の中心地ロドワールには、キターレからトラックが出ている。ロドワールへの道は交通量が極端に少なくなると思われるので、お金を払ってトラックに乗せてもらうつもりでいた。
夜はシークテンプル(シーク教の寺院)で泊めてもらう。ちょうど夕食の祈りの時間だった。ひと晩、タダで泊めてもらう恩義もあって一緒に座り、シーク教の教典が読まれるのを聞いている。にわかシーク教徒といったところだ。翌朝は8時30分が祈りの時間。シーク教徒と一緒になって祈り、シークテンプルを出た。
トラックでロドワールへ
バークレー銀行で20ドルを両替すると、ロドワールへのトラックが出るという店に行く。ベンツのトラックに穀物やタバコ、中国製の石油ストーブ、ビスケット、ペプシコーラなどが積み込まれ、最後に郵便物が積み込まれると出発だ。ロドワールまでは25シルだった。そのトラックはロドワールからさらにエチオピア国境近くのロキタングまで行くとのことで、その分としてもう15シル払った。行けるところまで行ってみたかった。
トラックはエルゴン山麓の高原地帯を行く。トウモロコシ畑がつづく。トラクターを多く見かける。恵まれた、豊かな農地を感じさせた。カペングリアとの分岐点を過ぎると道は悪路に変わり、人もぐっと少なくなる。高地から低地に下っていく。それとともに豊かな農地は消えた。ケニアからいったんウガンダに入ったが、そこには国境を示す標識があるだけで、べつに国境のチェック・ポストはなかった。
ウガンダ領内を走っているときにトラックが故障し、停まってしまった。エンジンの不具合のようで、なかなかよくならない。一夜、そこで野宿か…と思っていると、日没直前になって動きだした。暗くなったころ、進行方向に大きな流れ星を見た。スーッと、地表スレスレまで流れ落ちた。
ウガンダ領内の集落を2つ通り過ぎ、ふたたびケニアに入った。そして真夜中にロドワールに着いた。キターレから350キロ。夜が明けるまで、トラックの運転席で寝かせてもらった。
トゥルカナ族の人たち
きれいな夜明けだった。朝日が昇る直前、雲はピンクに染まり、空一面に大輪の花が咲いたかのようだ。ロドワールではタバコだけを降ろして出発。涸川を何本も越える。ケニア北西部に住む遊牧民のトゥカナ族の人たちによく出会うようになる。
ロキチョキオに通じる道との分岐点を過ぎる。北西方向のロキチョキオはケニア、エチオピア、スーダンの3国国境に近い。この道を行けば、ロキチョキオからスーダン国境を越え、スーダン南部の中心地、ジュバに出る。
ロキタングを目指して北へ。その途中では道を外れ、荒野を横切り、小さな集落に立ち寄った。そこにはソマリア人の店があって、ペプシコーラを降ろした。店ではコカコーラやペプシコーラを売っていた。1本1シル。町と変わらない値段だ。トゥルカナ族は最も現代文明から遠く離れたところで生活している民族のひとつだ。そんな彼らもコカコーラやペプシコーラを飲んでいる。
トゥルカナ族の男たちは布を1枚、体に巻きつけただけである。風が吹くと布はなびき、その下の男根がまる見えになる。宗教的な意味があるのだろう、体には傷をつけている。腕には刃の部分を革で覆ったナイフをつけている。実用と同時に装飾にもなっているようだ。木製の折りたたみいすを持ち歩いている人が多い。それは夜、寝るときには枕になる。
トゥルカナ族の女たちは赤、青、白、黒、紫と、色とりどりのビーズのような首飾りをしている。耳たぶに穴をあけてイヤリングをし、下くちびるにも穴をあけ飾りをつけている。腕にはちゃらちゃらと金属製の腕輪をいくつもはめ、足首にもはめている。布を1枚、体に巻きつけ、下半身には布や皮をつけている。頭の毛をまんなかだけ残し、それに飾りをつけている女、頭から背中にかけて朱色の塗料を塗りたくった女、胸をあらわにしている女、そんなトゥルカナ族の女たちからは強烈な生臭さが漂ってくる。きっと、つけている油のせいなのだろう。ぼくにはそれがトゥルカナ族が生活の糧としているラクダやロバ、ヒツジ、ヤギの臭いのようにも思えた。さらにはトゥカナ族の生活の舞台であるケニア北西部の荒涼とした荒野そのもののようにも思えた。
ケニア最北の町、ロキタングに到着
ロキタングに近づくと、前方にはエチオピア国境の山々が見えてきた。ルドルフ湖にも近いが、このあたりからだと湖は見えない。ロドワールから250キロ、ケニア最北の町、ロキタングに到着したのは夕方になってからだった。ここはイギリス統治時代、ケニア独立の英雄、ジョモ・ケニヤッタが幽閉されていたところだ。その夜は食堂でトラックの運転手に夕食をご馳走になり、トラックの運転席で寝たが、ひと晩中、蚊の猛攻をくらってウツラウツラの状態だった。
翌日は雑貨屋で残りの荷物をすべて降ろした。この店の主人はケニア山麓に住むメルー族の人だった。トラックは昼過ぎにはロドワールに戻るというので、乗せてもらうことにした。積み荷を降ろした雑貨屋の隣りは肉屋。その隣りの空き地でヤギが殺されるのを見ていた。このヤギはトラックの運転手が買ったもの。ヤギの首が切られると、トゥルカナ族の女たちは争うようにしてその血を洗面器に受け、口のまわりを真っ赤に染めてゴクゴクと飲み干した。そのあと肉屋は鮮やかな手つきでヤギをあっというまにバラバラにする。ヤギの解体が終わると、空き地で火を焚き、炎天下での盛大な焼肉パーティーになる。トラックの運転手は雑貨屋のメルー族の主人らを招き、焼き上がったヤギ肉を食べる。ぼくも呼ばれ、遠慮なく食べた。ヤギ肉にはまったくくさみもなく、調味料をかけるまでもなく、そのままで食べられた。肉だけで満腹になるのだった。
炎天下での焼肉パーティーが終わったところでロキタングを出発。夕方にはロドワールに戻ってきた。運転手とは何度も握手をして別れた。