[1973 – 1974年]
アフリカ東部編 25 ケリッシュ[北イエーメン] → ナイロビ[ケニア]
「我が国には我が国のきまりがある」
国境の町ケリッシュには軍人の姿が多く見られた。町の入口には軍の検問所。ドラムカンの上に丸太をのせたゲートがあった。そこでは所持品のすべてを調べられ、パスポートや全財産を入れた布袋、財布、地図、磁石、日記やメモ帳など文字の書かれたものが没収された。検問所の軍人と一緒にイミグレーション・オフィスに行く。そこでは、「外国人が陸路で入国することは許されない」と、まっさきにいわれた。
「アディスアベバの領事館で陸路での国境通過は可能だといわれましたよ」
「我が国の規則では外国人が陸路、北から南に入ってくることは許されない。それが我が国の規則なのだ。日本には日本のきまりがあるように、我が国には我が国のきまりがある」
そういわれると、返す言葉もなかった。
だが、ここでそう簡単に引き下がることはできない。
イミグレーションの役人とは話題を変え、できるだけ会話がつづくようにもっていった。それがよかった。とうとう役人は根負けしたようで、「キミがアデンまで行けるかどうか、これから電報を入れる。夕方までには返電が来るだろう」といってくれた。そのときぼくは「これで南イエーメンに入れる!」といった感触をつかんだ。
「あ、やられた…」
ここまで歩いてきた疲れもあって、ドドドドッと眠気がでてきた。イミグレーションの役人は奥の部屋にあった簡易ベッドをかしてくれた。そこでしばらく寝かせてもらう。彼は「返電がきたらすぐに起こすから」といって部屋を出ていった。
泥沼の奥底深くに落ちたような眠りだったので、体を揺り動かされてもすぐには起き上がれなかった。ぼくのわきにはイミグレーションではなくて、税関の役人が立っていた。彼は外貨申告書を持ってきた。アデンからの返電はまだ届いていなかったが、「これで入国はOKだな」と思った。軍の方からはさきほど取り上げられた荷物を全部、返しにくる。外貨申告書に書き込むために所持金を数えた。
「あ、やられた…」
ドルのトラベラーズチェックはちゃんとあったが、ドルの現金の方は20ドル紙幣2枚、40ドルも抜き取られていた。軍の検問所でのドサクサまぎれにやられたなと想像したが、南イエーメンに入れるかどうかの瀬戸際なのでうっかり騒げなかった。40ドルといったらぼくにとっては大金。だが、涙を飲んで諦めるしかなかった。
赤い郵便車
夕方になってイミグレーションの役人がやってきて、
「まだ返電は来ないが、週1便の郵便車がこれからアデンに向かうので、キミがそれに乗れるようにした」
と、なんともうれしいことをいってくれる。
「入国手続きはアデンのイミグレーションのヘッドクォーター(本部)でしなさい。キミのパスポートと、私からの手紙を郵便車の運転手に渡しておく。アデンに着いたら、郵便車の運転手がキミを案内するので心配しなくてもいい。これからも元気で旅をつづけるように」
彼とは何度も握手をして別れたが、イミグレーションの役人の好意が胸にジーンとしみた。
郵便車は赤塗りのランドローバーだった。ケリッシュから砂漠のガタガタ道を行く。
「アデンまで行ける!」
それはまるで夢のようなことだった。アデンに着いたら、その先はどうなるのかまったくわからなかったが、ぼくにとっては陸路でアデンまで行くことが一番、重要なことだった。国境のケリッシュで南イエーメンへの陸路での入国を最終的に拒否されたら、いったん北イエーメンのタイーズに戻り、そこからモカに行き、アラビアの帆船のダウでアデンに渡ろうと考えていたので、こうして陸路、アデンに行けるようになってよけいにうれしかった。
ダラに通じる道との分岐点まで来ると舗装路になった。アデンに近づくと雨が降ってきた。砂漠の雨だ。雨の降る中を走り、夜、遅くになってアデンに着いた。
「ついに、やったな!」
と、ぼくは満足感で胸がいっぱいになった。
北イエーメンから南イエーメンに陸路で入ることは不可能だといわれていた。そんな旅の不可能をブチ破ってやったという達成感もあった。スーダンからウガンダに入ったときもそうだったが、「そんなこと、べつにどうでもいいことではないか…」といわれそうだが、ぼくにとっては命を張ってでもやる価値のあることなのだ。
南イエーメンの歴史
アデンはアラビア半島の南端、アデン湾に面した港町だ。湾というにはあまりにも広いアデン湾だが、その対岸はソマリアになる。アデンは昔からアラビアとアフリカ、ペルシャ、インドを結ぶ海上交通の要衝の地だった。そのためアデンの支配をめぐる歴史の変遷には目まぐるしいものがある。
アデンは1513年、ポルトガル領になった。1538年にはトルコ領、その直後にはイエーメンのスルタンの領土になり、1838年にはイギリスの東インド会社に所属した。そしてそのままイギリス領になる。1869年にスエズ運河が開通すると、紅海は西洋と東洋をつなぐ海上交通の一大幹線ルートへと大変身をとげた。アデンの重要度は一気に増し、港湾都市アデンは急速に発展した。
アデンの周辺は1937年にはイギリスのアデン保護領になり、東はマスカット・オーマン、北はサウジアラビア、イエーメンと国境を接した。それ以前はスルタン(首長)、シャリフ(族長)、アミール(土候)が統治する細分化された領地だった。
1963年にはアデン保護領とアデン直轄植民地が連合し、イギリスのもとで南アラビア連邦が成立した。イギリスのねらいは石油。ペルシャ湾の石油権益を確保するためには、どうしても軍事拠点としてのアデンが必要だった。アデンの急進的な民族主義の動きを親英的な勢力で押さえ込もうとした。
アデンは当時としては世界でも最大級の給油基地だった。イギリスの中東軍司令部が置かれ、イギリス空軍最大の基地もあった。さらに商業港としても繁栄していたので、イギリスとしてはどうしてもアデンを手離せなかった。
しかし、アラブ民族主義の大波はイギリスのアデン支配を激しく揺さぶった。反英闘争はエスカレートし、反英テロが続発した。そしてついに1967年、南イエーメン人民共和国として独立し、1970年にイエーメン人民民主共和国に国名を改め、社会主義の道を歩んでいた。これがおおまかなアデンを中心とした南イエーメンの歴史だ。
北イエーメンの歴史
一方の北イエーメンは古くからアラビア半島でも一番自然に恵まれたエリアで、「幸福のアラビア」と呼ばれてきたが、16世紀にオスマン・トルコに征服されてトルコ領になった。1918年にトルコ勢力を一掃し、王国として独立すると、イエーメンは鎖国政策をとった。王家は宗教、政治、経済のすべてを牛耳った。
1962年、民衆の王制への不満はクーデターとなって表れ、王制から共和制に変わり、イエーメン・アラブ共和国になった。それとともに共和国政府はただちに奴隷制度を廃止して奴隷を解放し、開国を宣言した。
しかし、その後エジプトの支援を受ける共和派と、サウジアラビアの支援を受ける王制派が激しく対立し、内戦になる。世界にも大きな影響を与えたイエーメン内戦である。その内戦も1970年には終結し、1974年のこの時点では、表面的には平静を保っているように見えた。
空港の待合室で寝る
郵便車はアデン市内を走りまわり、ぼくをイミグレーションのヘッドクォーターに連れていった。郵便車の運転手にはほんとうに世話になった。イミグレーションに着くと、彼はぼくのパスポートと国境の役人からあずかった手紙を係官に手渡した。
イミグレーションの高官はすでに帰宅していていなかった。ぼくのパスポートと国境事務所からの手紙を受け取った係官はあちこちに電話している。やがて高官に連絡がついたようで、「すぐにチーフオフィサーが来るから」といわれた。
イミグレーションの高官が来ると、裸電球のともる部屋で調べられた。次から次へと質問を浴びせかけてくる。その結果、高官は「我が国は外国人の陸路での入国を認めていない」といって、入国許可を出してはくれなかった。
ひととおりの調べが終わると、車に乗せられた。行き先はまったく告げられなかった。深夜のアデンの町を猛スピードで突っ走り、行き着いたところはアデンの国際空港だった。空港待合室に連れていかれ、「ここで寝るように」といわれた。
ぼくのアデンからの予定は次のようなものだった。ソマリアのベルベラに渡り、そこからは陸路でハルゲイサ→ブラオ→ガローエ→ガルカイオ→ベルトウエンを経由し、首都のモガデシオへ。さらに陸路でケニアに入り、マンデラからワジールを通り、首都のナイロビに戻るというものだった。
だがこれから先、どうなるかはまったくわからなかったが、とにかく眠ることだと自分で自分にいい聞かせ、快適な空港待合室のソファーに横になった。夜中に2、3便、飛行機が着陸したようだ。そのたびにざわついたが、なにしろ疲れきっていたので、目はさめない。うつらうつらでそのざわめきを聞いた。夜が明け、東の空が白みはじめたところで、目がさめた。夜が明けると目がさめるのは、もう習性のようなものだ。
「タイーズに戻りなさい!」
まだ、朝も早い時間にイミグレーションの役人が空港にやって来た。前の晩にぼくを取り調べた高官よりもさらに位が上の人だった。彼にはすぐさま、「タイーズに戻りなさい!」といわれた。
「キミはこの空港から一歩も外には出られない。我々としてはトランジっトのビザも発行できない。ここからすぐにタイーズに飛びなさい」
だがぼくとしても、「ハイ、そうですか」と、簡単に引き下がる訳にはいかない。
「国境のケリッシュではアデンに着いたら16シリング(南イエーメンの通化はディナール。1000フィルスが1ディナールになるが、習慣で50フィルスを1シリングと呼んでいた)払ってビザをもらいなさいって、そういわれましたよ。それなのにどうして空港から一歩も出られないのですか」
「ケリッシュの役人がそんなことをいうわけがない」
「たしかにそういわれました。それにぼくのパスポートと一緒に手紙があったでしょ。それを読んでもらえばすべてわかりますよ」
ところがイミグレーションの役人は、「そんな手紙はない。私があずかっているのはキミのパスポートだけだ」と手紙の存在を頑強に否定した。ぼくはそれを聞いてすべてを納得した。ぼくの入国を最初から認めるつもりはなかったのだ。
こうなったら必死になってくいさがるしかない。
「お願いします。どうかビザを発行して下さい。入国を認めて下さい。現に、ぼくはこうしてアデンにいるではないですか。もし、どうしてもダメなら、トランジットでもかまいません。ジプチかソマリアのビザを取ったら、すぐにアデンを離れます」
しかし無駄だった。高官は一歩も譲歩できないといった頑な態度だった。お互いの間に沈黙の時間がつづく。重苦しい、押しつぶされてしまいそうな重圧だった。
ついに諦めたかのように高官は出ていった。ぼくはどうしようか…と改めて考えてみたが、タイーズに戻ることは絶対にできない。自分の性分として、戻るということができないのだ。
その後、2度、3度とイミグレーションの係官がやってきたが、話し合いはつかない。アデンのイミグレーションの主張は「タイーズに戻れ!」の一点張りなのだ。
とうとう何ら結論が出ないまま、1日が過ぎた。いやになるほど長い夜を迎え、またぼくは空港待合室のソファーで眠った。
「ナイロビに飛ぼう」
空港待合室で迎えた2日目の朝、ぼくは決心した。
「ケニアのナイロビに飛ぼう」
もうこれ以上、ねばっても無理だという判断を下した。下手したら拘留されたり、強制的な国外退去の処分を食らいかねない。ナイロビならばケニアのビザを持っているので問題ない。
そう決めると、さっそくイミグレーションの役人を呼んだ。例の高官が来てくれた。ケニアのナイロビに飛びたいというと、高官は急に顔色を明るくし、
「そうか、そうか」
といって喜んでくれた。これで背負いこんだ荷物を下ろせるという安堵感が彼の顔には漂っていた。
すばやい対応だった。イミグレーションはさっそく車を用意し、係官を1人つけ、ぼくを町中のパキスタン航空のオフィスに連れていく。「アデン→ナイロビ」は61ディナール550フィルスでなんと200ドル近くにもなってしまう。痛い出費だったが、仕方ない。これがぼくに残された唯一の方法なのだ。ナイロビまでの航空券を買うと、出発は明後日だった。
次にイミグレーションのヘッドクォーターに連れていかれ、そこでパスポートを返してもらった。そしてトランジットのビザを発行してもらう。国境でいわれた通りで、ビザ代は16シリングだった。
南イエーメンへの入国手続きが終わると、イミグレーションの車でホテルに連れていかれた。「20ジュン」という中級といった感じのホテルだったが、2泊分のホテル代はイミグレーションが出してくれるという。ぼくはそのホテルでやっと解放され、自由の身になったのだ。
アデンを歩いて考える
ナイロビ行きの飛行機が出るまで、アデンをめったやたらと歩きまわった。夜は映画館に行き、インド映画を見た。ぼくは繁栄を謳歌していたころのアデンは知らないが、今のアデンは繁栄とは無縁な町に変わりはてていた。反英闘争の名残で中心街のビルは崩れ落ち、さながらゴーストタウンのようだった。町を歩いていると、やたらと「革命」という言葉を目にし、耳にした。
アデンには物乞いが多かった。子供の物乞いも大勢いた。金を持っていそうな人たちのまわりにまとわりついている。そんな町を軍人たちが威張り散らして歩いている。秘密警察の私服の警官も多いとのことで、ちょっとおかしな行動をとると、有無をいわせずに警察に引っ張り込み、取り調べをするという。
町には国営○○会社、国営△△会社、国営××会社と、やたらと国営企業の看板が目立つ。国営にすれば、すべてがよくなると思っているようだ。崩れかかったビル群の上空を銀色の翼を光らせてジェット戦闘機が飛び去っていく。いったい何のための革命だったのか、誰のための革命だったのか…。政府高官やひとにぎりの軍人のための革命だったのではないかとアデンの町を歩きながら思うのだった。
その向こうへ…
アデン出発の朝は、7時に「ホテル 20ジュン」を出た。パキスタン航空のナイロビ行きPK745便の出発予定時間は12時25分。南イエーメンのお金はケニアでは両替できないだろうと思い、ディナールを使いきってしまおうと、朝食は優雅にレストランでとった。トーストにハムエッグ、トマトサラダ、それとデザートのプディンだ。
1時間前には空港に行った。なにか、ものすごく懐かしい。なにしろ2夜連続でここの待合室で泊まったので、顔なじみになった空港職員が何人もいた。カラチを出たパキスタン航空機はアデン空港への到着が遅れ、結局、4時間遅れでの出発となった。アデンの空港を飛び立つと、アラビア半島はすぐに見えなくなり、飛行機は青いアデン湾の上空を飛んでいた。
飛行機の中では退屈だった。何もすることもなく、目をとじてぼんやりしていた。そして北イエーメンを思い出していた。北イエーメンはおもしろい国だった。長い間、鎖国をしていたからかもしれない。
エチオピアのアッサブからダウでモカに渡ったとき、そこにまったく違う世界を見た。女たちの姿が消えた。たまに見かけても、黒いベールで顔を覆っていた。男たちはフォータという腰巻きのような布を巻いていた。暑く乾燥しているので、「これが一番、いいのだ」といっていた。その上から太めのベルトをし、青龍刀を小さくしたようなナイフを差し込んでいた。
ほおにコブのある人がやたらと多かった。最初はほんとうにコブだと思っていた。ところがそのうちに、それがコブではなく、カットという木の若芽をほうばっているということがわかった。カットには覚醒作用があるようだ。
砂漠地帯の海岸から内陸に入っていくと、2000メートルから3000メートルの山岳地帯に変わり、雨が降り、緑も多かった。「耕して天にいたる」といった感じの見事な段々畑をあちこちで見た。
北イエーメンは時間をかけ、もっとゆっくりとまわってみたかった。
いや、北イエーメンばかりではない。しばらく滞在してみたいと思ったところはいたるところにあった。ぼくの今回の旅は世界の6大陸をまわることだ。たえず向こうへ、その向こうへと、旅の歩みを止めることはなかった。それがなけなしの金で世界の6大陸をまわれる唯一の方法だったからだ。だが、それとは正反対に1ヵ所に長く滞在するような旅もしてみたいという気持ちはいつもあった。
「それは、またの機会だな」
いつもそう自分で自分にいい聞かせながら、ここまで旅をつづけてきた。
そんなことを考えているうちにパキスタン航空機はアフリカ大陸の上空に入り、やがてナイロビ空港に着陸した。