30年目の「六大陸周遊記」[036]

[1973年 – 1974年]

アフリカ東部編 12 テルアビブ[イスラエル] → エイラート[イスラエル]

テルアビブの無料ホテル

 ロッド空港からイスラエルの航空会社、エルアル航空のバスでテルアビブ市内へ。バスターミナルではツーリストインフォメーションでいわれた通り61番のバスに乗り、モノポールホテルに行った。キプロスのニコシアは東京とほぼ同緯度の北緯35度。イスラエルのテルアビブはそれよりも南の北緯32度。3度の緯度の差なのだろう、ニコシアに比べるとテルアビブは暖かく、寒さに震えることはなかった。

 モノポールホテルのフロントで空港内でもらった書類を見せると、ほんとうに宿泊も食事も無料だった。「やったねー!」という気分。部屋は2人用でオランダからやってきた小学校の先生と一緒になった。30過ぎの先生は半年間の休暇をもらい、イスラエルにやってきた。キブツの教育制度に興味を持ち、キブツで働きながらそれを研究するのがイスラエルに来た目的だという。

 翌朝、朝食を食べ終えたところで、モノポールホテル内にあるキブツのオフィスへ。そこでは「あなたはどのあたりのキブツがいいですか」と1人1人の希望を聞き、それに沿ったキブツを紹介してくる。

 いよいよぼくの番になる。場所はどこでもいいと思っていた。できることなら一番、辺境のネゲブ砂漠あたりがいい。

「あなたはキブツでどのくらい働きたいのですか」
 と最初に聞かれ、1ヵ月くらいと答えた。すると最低でも3ヵ月なのだという。

「3ヵ月か…」

 イスラエルからはギリシャのアテネに飛び、さらにイギリスのロンドンに飛び、ロンドンからヒッチハイクでアテネまで南下し、さらに中東の国々をめぐり、また、アフリカに戻るつもりにしていた。それだけに、キブツでの3ヵ月は長すぎる…。

「残念ながら3ヵ月は働けません」

「そうですか。ではまた次の機会に、ぜひとも来て下さいね」

 担当の若い女性はいやな顔ひとつしないで、そういってくれた。

 ぼくは恐る恐るホテルの宿泊代と食事代はどうしたらいいのか聞いてみたが、「一銭も払う必要はありませんよ」とありがたいことをいってくれた。

テルアビブの町歩き

 イスラエル最大の都市、テルアビブはおもしろいところだった。歩いても歩いても、すこしもあきない。このところしばらく忘れていた町歩きのおもしろさを思い出させてくれた。人々のさまざまな表情が見てとれる。世界のありとあらゆるところから集まってきたユダヤ人たち。町にはきわめてコスモポリタン的な空気が漂っていた。

 市内地図を片手に歩いていると、「どこに行くのですか。もし道がわからないのなら、教えてあげましょう」と、好意的な声を何度となくかけられた。その人がわからないと、ほかの人たちを呼んででも、教えてくれようとした。「どうして、みんがこうも親身になって道を教えてくようとするのだろう」と不思議でならなかった。苦労した人は他人の苦労がよくわかるからなのだろうか。ユダヤ王国滅亡後の二千数百年という気が遠くなるほどの長い年月、他民族から迫害されつづけてきた流浪の民、ユダヤ人の苦しみつづけてきた民族性がそうさせるのだろうか。

テルアビブの中心街
テルアビブの中心街
サイドカーを見る
サイドカーを見る
エルサレムへ

 テルアビブ南駅から列車でエルサレムに向かった。「テルアビブ〜エルサレム」間はバスがひんぱんに出ているので、列車の本数は多くはない。車内はすいており、ゆったりとしたシートには気持ちよく座れた。

 ジーゼルカーに引かれた列車は静かにテルアビブ南駅を離れていく。テルアビブの市街地を抜け出ると空港のあるロッドを通り、丘陵地帯に入っていく。岩肌の露出した山の斜面のあちこちで盛んに植林されている。ゆるやかに流れる小川の両側には、黄色い春の草花が咲いていた。

 ジーゼルカーはあえぎながら山の斜面を登っていく。丘陵地帯を登りきり、エルサレム駅に到着した。テルアビブから80キロほどの距離だ。

テルアビブ駅から列車でエルサレムへ
テルアビブ駅から列車でエルサレムへ
エルサレム行きの列車内
エルサレム行きの列車内
列車とすれ違う
列車とすれ違う
列車は丘陵地帯に入っていく
列車は丘陵地帯に入っていく
世界の聖地

 エルサレム駅から町を歩きはじめた。何か胸がワクワクしてくるような気分だ。エルサレムは首都の建設が急ピッチで進む新市街と城壁で囲まれた旧市街の2つに分けられる。エルサレムは世界の聖地。その中心となる旧市街は世界中から訪れる人たちでにぎわっていた。

 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地である旧市街はジャファ門から入っていった。そこは「クリスチャン地区」、「モスレム(イスラム教徒)地区」、「ユダヤ教徒地区」、「アルメニアン(アルメニア人)地区」の4地区の分かれていた。このエルサレムの旧市街が最高におもしろい。たとえば休日ひとつをとってみても、それぞれに習慣が違うので、クリスチャン地区は日曜日、モスレム地区は金曜日、ユダヤ教徒地区は土曜日が休みになる。

 狭い迷路のような路地を歩いていくと、金色のドームが輝く「岩のドーム」に出る。ここはイスラム教徒にとってはメッカ、メジナに次ぐ第3の聖地になっている。階段を下っていくと、そこは「嘆き壁」。ユダヤ教徒にとっては一番の聖地。イスラムの聖地のすぐ下がユダヤ教徒たちの聖地なのである。

 キリスト教徒にとっても、イスラム教徒にとっても、ユダヤ教徒にとっても、エルサレムは一生に一度は巡礼したいという聖地。旧市街の雑踏の中を歩いていると、何百年、何千年と積み重ねられてきたこの地の歴史のずっしりとした重さが伝わってくるかのようだった。

 エルサレムからキリスト生誕の地のベスレヘムまではバスで行った。電撃的なイスラエルの勝利に終わった第3次中東戦争(1968年)以前は、エルサレムはイスラエル領とヨルダン領に二分され、ヨルダン川から死海にかけての西側はヨルダン領だった。ベスレヘムもヨルダン領内にあった。そのせいなのだろう、ベスレヘム行きのバスは旧市街のバスターミナルから出るアラブのバス。「エルサレム〜ベスレヘム」間はほんのわずかな距離で、町つづきのような感じだった。

 ベスレヘムでは「生誕教会」などの教会を見てまわったあと、アラブの市場に行く。エルサレムでは1ポンドで2個しか買えなかったオレンジが、ここでは50アゴルット(100アゴルットが1ポンド)で4個も買えた。

 ベスレヘムからエルサレムに戻り、ユースホステルに泊まる。その夜のことだ。近くの店に買い物に行った。そこで小さな女の子を連れた一家と出会い、2こと3こと、言葉をかわした。それだけのことだったのに、中年の夫婦には「よかったらウチに遊びに来ませんか」と誘われ、一緒についていった。

 その方はイスラエルの名門大学、ヘブライ大学で動物学を教えている先生だった。サソリとクモが専門だという。女の子はシーグルちゃんで、「英語だとカモメちゃんだ」といって先生は笑った。先生はエチオピアに行ったことがあり、ヘブライ語とアムハラ語がすごく似ているのには驚いたという。ヘブライ文字とアムハラ文字にも似ている点があるという。コーヒーを飲みながらの先生一家との話は楽しかった。

エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
エルサレムの新市街
イスラム教の聖地「ロック・オフ・ドーム」
イスラム教の聖地「ロック・オフ・ドーム」
ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」
ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
エルサレムの旧市街を歩く
死海で浮んだ!

 エルサレムからは世界最古の町といわれるジェリコに寄ったあと、バスで死海に向かった。この道がすごい。何がすごいかというと、標高800メートル近い高原の町、エルサレムから、世界最低地点の海面下400メートルにもならんとする死海まで、下り坂が際限なくつづくのだ。まるで奈落の底に落ちていくような気分。シーレベル(海抜0m)の標識を過ぎると、エルサレムではヒンヤリしていたものが、ムッとする暑さに変わる。前方には巨大な壁が立ちふさがっている。ケニアのナイロビ近くで見られる大地溝帯(グレートリフトバレー)の風景とそっくりだ。

 ゴラン高原のヘルモン山を源とし、イスラエルとヨルダンの国境を流れるヨルダン川は、地溝帯の中を北から南へ、死海へと流れ込むが、このヨルダン河谷の地溝帯こそ、紅海からアフリカ大陸へとつづく大地溝帯の北端にあたるのだ。

 バスはヨルダンの首都アンマンに通じる道と分かれ、死海への道を南下する。バスの運転手の話ではヨルダン川にかかるアドバラッ橋を渡ってアンマンに通じる道は閉鎖されているとのことで、ジェリコからアレンビー橋を渡っていく道だけが開いているという。アンマンまでは手の届くような距離だが、イスラエルからヨルダンに入るのは容易なことではない。

 死海に到着。湖面の高さは海面下392メートル。渇水期になると、さらに水位は下がるという。死海の面積は1000平方メートル。琵琶湖の1・5倍といったところだ。最大水深は356メートル。地溝帯の中にできた地溝湖なのできわめて深い。

 いつの頃か、はっきりとはおぼえていないが、たぶん小学校の低学年の頃のことだろう。死海にプカプカ浮かびながら本を読んでいる、そんな写真か、マンガを見たおぼえがある。その時以来、「死海」が頭から離れず、いつの日か自分も同じように死海で体を浮かべてみたいと思うようになった。

 そんな長年の願いをかなえようと、死海の湖畔で服を脱ぎ捨て、湖に飛び込んだ。なるほどなるほど。じつによく浮かぶ。浮きすぎて泳ぎにくい。泳いだ拍子に水を飲んだが、まるで毒物でも飲んだかのような味の悪さ。塩分が濃すぎるのだ。舌には針かなにかで刺されたような感触が残り、気持ち悪くて吐きそうになった。死海に浮かぶのは決して気持ちのいいことではない、ということがよくわかった。

 湖から上がると、空気は乾ききっているので、おまけに猛烈に暑いので、濡れた体はあっというまに乾いてしまう。しかし塩が体にこびりつき気持ち悪い。湖面はコップの中で作った濃い塩水のようにトローンとしている。対岸には乾燥したヨルダンの山々が連なるている。

死海
死海
死海
死海
エイラート湾とアカバ湾

 死海の湖畔から紅海の港町、エイラートまではヒチイハイクで向かう。死海の西側の低地はネゲブ砂漠へとつづく砂漠地帯だ。イスラエルに入っている唯一の日本車のスバルに乗せてもらいエイラートへ。死海の南側では大規模な製塩がおこなわれている。

 死海を離れ、ネゲブ砂漠に入っていく。砂漠の中に一筋の舗装路がはてしなく延びる。所々に、砂漠を灌漑した農地が現れる。荒野と緑野が鮮やかな対比を成している。道路標識がおもしろい。最初にヘブライ語で書かれ、次にアラビア語、さらに英語で書かれてあった。

 紅海のアカバ湾に面したエイラートに着いたのは、夕暮れ時。海岸に出ると、ヨルダンのアカバの町並みがよく見えた。この「アカバ湾」もイスラエルの地図だと、当然だといわんばかりに「エイラート湾」になっている。日が落ち、町明かりが灯りはじめると、ヨルダンのアカバの町もキラキラと光り輝きはじめた。胸がジーンとしてくる風景だ。

 そんなアカバを見ていると、映画「アラビアのロレンス」のハイライトシーンが鮮明に蘇ってくる。イギリスの軍人ロレンスの率いるアラビア部族のラクダ部隊は、トルコ軍が支配する紅海の要衝のアカバを背後から奇襲攻撃した。不意をつかれたトルコ軍はひとたまりもなくやられ壊滅した。ラクダ部隊の叫ぶ「アカバ!」、「アカバ!」、「アカバ!」の声が聞こえてくるかのようだった。

 イスラエルとヨルダンの国境をはさんで隣り合うエイラートとアカバの2つの町。しかし、どんなに近くても、エイラートからアカバに行くことはできない。両者の間を切り裂く国境線というブ厚い壁の存在をあらためて強く感じるのだった。

ネゲブ砂漠を行く
ネゲブ砂漠を行く
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
ネゲブ砂漠のイスラエル軍の陣地跡
エイラート湾
エイラート湾
エイラート湾
エイラート湾