[1973年 – 1974年]
アフリカ東部編 11 モヤレ[エチオピア] → テルアビブ[イスラエル]
なつかしのエチオピア
エチオピアの首都、アディスアベバを歩きまわった。無性になつかしくなる。1968年にバイクで来たときは、ほんとうによくエチオピア国内をまわったものだと我ながら感心してしまう(というよりもまわらざるをえなかったのだが…)。
1968年の「アフリカ大陸縦断」では、エチオピアはアディスアベバから北のアスマラに行き、そのままスーダンに抜けるつもりだった。ところがすんなりとはスーダンに入国できなかったためにそうなってしまった。
アディスアベバからアスマラまでは2本のルートがある。1本はまっすぐ北上するもので、距離は1100キロ。もう1本は青ナイルの水源のタナ湖を経由するもので、距離は1300キロ。距離は長くなるが青ナイルの大峡谷を見たくてタナ湖経由のルートで行った。
エチオピアの最高峰ラスダシャン(4620m)に近いシミアン山地には半月ほど滞在した。エチオピア北部の中心都市アスマラに着くと、すぐにスーダン領事館に行った。しかし、エチオピアのイミグレーションからの出国許可証がないと、スーダンのビザは発行できないといわれた。
すぐさまイミグレーション・オフィスに行ったが、その出国許可証は得られなかった。エチオピア、スーダン間の不仲が理由だった。エチオピア北部のエリトリアはイスラム圏で、そんなエリトリアのエチオピアからの分離・独立にスーダンが力を貸しているというのがエチオピアのいい分だ。
アスマラでだめならと、マイチョウ経由の直行ルートで首都アディスアベバに戻った。そしてエジプト航空で「アディスアベバ→ハルツーム」間の航空券を買い、飛行機でスーダンに入るということにし、アディスアベバにあるスーダン大使館でビザを取ることができた。
アスマラに戻ると、北部エチオピアの国境の町、テッセナイに行き、スーダンのカッサラに抜けようとした。ところがテッセナイでは陸路でのエチオピア出国は認められないといわれ、このルートを断念しなくてはならなかった。再度、アスマラに戻ると、紅海の港町、マッサワに行ってみた。スーダンのポートスーダン港まで船で渡ろうとしたのだ。だが、これもうまくいかなかった。
いよいよ困ってしまったが、タナ湖北側のアゼゾからならスーダンのゲダレフに抜けられるという情報をキャッチし、トライしてみた。すさまじくひどい道で決死の覚悟でエチオピアの高原地帯を下っていった。国境近くの平原地帯に降り立ったときは心底、救われた思いがした。その決死の覚悟が実ってエチオピア・スーダン間の国境を突破できた。そんな1968年のエチオピアの旅がなつかしく思い出された。
「パース→ロンドン」の航空券
アディスアベバからはイスラエルのテルアビブに飛びたかった。次の日、航空会社のオフィスをまわる。オーストラリアのパースで買った「パース→ヨハネスバーグ→ナイロビ→ロンドン」のチケットのうち、未使用の「ナイロビ→ロンドン」をうまく使えば、一銭も払わずにテルアビブに行けるかもしれないと思った。どういうことかというと、アディスアベバからテルアビブ経由でのロンドン行きにし、テルアビブでストップオーバー(途中降機)するというものだ。
まず最初はエチオピアエアーラインに行った。しかし、アディスアベバからテルアビブへの直行便はなかった。エチオピアエアーラインの場合だと、ギリシャのアテネ経由でのロンドン行きになり、「アテネ→テルアビブ」間の料金は別に払わなくてはならなかった。
次にBOACに行った。BOACのロンドン行きだと、キプロスのニコシア経由があった。それで行こうと思い、チケットを「アディスアベバ→ニコシア→テルアビブ→アテネ→ロンドン」に変えてもらった。この方法だと「ニコシア→テルアビブ」間の割り増し料金を払えばいいとのことで、それはニコシアに着いてから払った方が安くなるといわれた。
画家の水野先生
BOACのニコシア経由ロンドン行の便は週1便で出たばかり。1週間、待たなくてはならなかった。その間は1968年のときにもお世話になった日本人画家の水野先生のお宅に泊めてもらった。
水野先生にはいろいろな話を聞かせてもらった。先生は戦時中、中国戦線で戦った。次々と病気で倒れていった戦友たち、戦闘で倒れていった戦友たちの話や水も食料も尽き、それでもつづけられた飲まず食わずの行軍の話などは、戦争のあまりのむごたらしさに胸が痛くなるほどだった。
「国家権力という抗しがたい巨大な力によって、人々は戦場へ、戦場へとかりたてられていったのだよ」という先生の言葉が強く印象に残った。
水野先生はヨーロッパから起こった現代の物質文明に強い疑問を抱いていた。ヨーロッパを旅したときの体験が、より強くそう思わせたようだ。
「(ヨーロッパの)石造りの町々の冷たさは骨身にしみたよ」という。
「これからの世界において、今のような物質中心の文化はきっと行き詰まってしまう。それを解決できるのは東洋の精神文化しかない」と先生は熱い口調でそう話すのだった。
水野先生のところでは何冊もの本を読ませてもらった。三島由紀夫の「金閣寺」や陳舜臣の「阿片戦争」全3巻も読破した。それが積もり積もった旅の疲れをどれだけ癒してくれたことか。
風雲急を告げるエチオピア
エチオピアの情勢は急速に悪化していった。ゼネストが発生し、事態はより深刻になった。前年の第4次中東戦争後のオイルショックが、このゼネストの引き金になっている。オイルショックの荒波をまともにくらい、エチオピアの物価はいっぺんに上がった。1リットル50セント(約70円)だったガソリンが75セントに値上げされ、怒ったタクシー運転手たちがストライキに突入した。それをきっかけにして軍や警察がストライキに突入し、さらには大規模なゼネストへと発展した。労働者は1日3ドル(約420円)の最低賃金を要求し、内閣は総辞職に追い込まれ、ハイレセラシェ皇帝の権力も完全に失墜していた。
だが、町行く人たちの表情はいつもとまったく変わらないように見えた。「暴動が起きようが、クーデターが起きようが、皇帝が倒されようが、そんなことはしったことではない。それよりも、毎日、生きていく方がよっぽど切実なんだ」
人々の表情からはそんな無言の言葉を聞くような思いがした。
そんな影響をモロに受け、アディスアベバからキプロスのニコシアに飛ぶ前日になっても、BOACでは「明日の飛行機が飛べるかどうかはわからない。そのときになってみないとわからない」というようないい方をした。
地中海のキプロス島へ
キプロス島のニコシアに向かう当日は6時に起床し、7時には水野先生に別れを告げ、アディスアベバ国際空港に向かって歩き始めた。空港までは6キロほど。プラプラ歩き、9時前には着いた。町は平静だったのに、空港は軍や警察がものものしい警備をしている。どこの国でもそうだが、いったん事が起きると、軍とか警察はすぐに重要な拠点を押さえようとする。
すごくラッキーなことに、BOAC機のニコシア経由ロンドン行きは予定通りに飛ぶという。しかし出発時間は1時間以上も遅れ、飛行機がアディスアベバの空港を飛び立ったのは12時過ぎだった。
飛行機はエチオピアの山岳地帯の上空を飛ぶ。幾重にも重なり合った山岳地帯が眼下に広がっている。やがて山々はスーッと姿を消し、風景はスーダンの平原地帯に変わった。北に行くにつれ、まるでホウキで掃いたかのように、あっというまに緑が消えていく。ハルツームの上空を通過。白ナイルと青ナイルの合流点がよく見える。ナイルの両側には細長い帯のような緑の線がつづく。その両側は一面の砂漠だ。
やがてナイル川の大人造湖、ナセル湖が見えてくる。飛行機はエジプトの首都カイロの手前でナイル川を離れ、エジプト西部の砂漠の上空を飛ぶ。地中海に出ると、じきにキプロス島のニコシア空港に着陸した。キプロス時間で午後4時。エチオピアとは1時間の時差があるので、アディスアベバからニコシアまでの飛行時間は5時間だった。
キプロスからイスラエルへ
ギリシャ人とトルコ人の対立するキプロス島。1571年以来トルコ領だったが、1925年にイギリスの植民地になり、1960年に独立した。ギリシャ系住民とトルコ系住民の抗争は激しさを増し、ひとつの島の中に国境線があるかのような国なのだ。
空港からニコシアの町までは歩いた。その間は4キロほど。夜のニコシアを歩き、食堂ではカバブーを食べた。羊肉を焼いたカバブーの味が「ここはもうアフリカではない」ということを強烈に実感させた。
ひと晩、町中で野宿したあと、翌日はBOACのオフィスに行き、「ニコシア→テルアビブ」間の割り増し料金を払った。ニコシアでならアディスアベバよりもはるかに安くなるといわれたが、それでも80USドル(約21600円)。ぼくにとってはきわめて痛い出費となったが、どうしてもイスラエルは見ておきたかった。
そのあとはバスで島を一周。ラルナカ、リマソル、バプホスと通ってトルコに近い海辺の町、キレニアまで行き、そしてニコシアに戻った。またしても町中での野宿だ。
イスラエルにはキプロス航空機で向かった。19時30分発のテルアビブ行き。緊張のイスラエル行きの便ということで、空港での検査は厳重をきわめた。キリスト教の聖地巡礼をするというアメリカ人の団体客で混み合っていた。1席の空席もない、満員の乗客を乗せ、キプロス航空機は雨に濡れたニコシア空港を飛び立った。ギリシャ語のアナウンスがあり、軽食が出たと思ったら、もう飛行機は下降態勢に入っていた。
イスラエルの第一歩
飛行機の窓の外に目をやったとき、一瞬、我が目を疑った。イスラエル最大の都市、テルアビブのまばゆいばかりの夜景が目に飛び込んできたからだ。明る過ぎるぐらいの夜景を見て、イスラエルは大丈夫なのだろうかと思ってしまった。
というのはイスラエルが占領しているゴラン高原ではイスラエル軍とシリア軍が激しい戦闘を繰り広げており、連日、新聞の一面記事になっていたからだ。イスラエルは臨戦体制に入り、当然、灯火管制を敷いているのに違いないと勝手に想像していたからだ。
キプロス航空機がテルアビブ郊外のロッド空港に着陸してからも驚きはつづいた。入国手続きはじつに簡単なもので、荷物などまったく調べられなかった。フリーパス同然なのだ。これがほんとうに、世界中を動乱の渦に巻き込もうかという世界の火薬庫、イスラエルなのだろうかと信じられないくらいだった。
驚きはさらにつづいた。テルアビブの地図でももらおうかと、空港内のツーリストインフォメーションに行った。すると受付の若い女性はニコッと笑って「いい話があるんですよ」というのだ。「ホテルにタダで泊まれて、食事もタダ。ね、いい話でしょ」と信じられないようなことをいう。
まさか国の玄関口のツーリストインフォメーションで旅行者をだますはずがない。「でも、待てよ」と思った。ツーリストインフォメーションといったら、たいていは貧乏旅行者には冷たい。「それなのに、どうして彼女はこんなにも愛想よく、親切にしてくれるのだろう」と不思議でならなかった。
「ほんとうにタダでホテルに泊まれるんですか」
「ほんとうよ。だけど、そのかわりにキブツで働くのよ」
それで納得できた。ぼくは彼女に即座に「OK!」の返事をした。イスラエルに来たからにはキブツ(集団農場)を見てみたかったし、短期間、どこかのキブツで体験労働もしてみたいと思っていたからだ。それだけに彼女の申し出はまさに一石二鳥といったところだ。
ツーリストインフォメーションの美人受付嬢は「テルアビブに着いたら、61番のバスに乗りなさい」といって、ホテルの住所と簡単な地図を書いてくれた。彼女はほかに待っている人たちがいるのに、「キブツはきっと楽しいと思うわ。食事は食べ放題だし、洋服だって、靴だって、みんなタダ。お金も少しだけどくれるのよ」と、まるでずっと以前からの知り合いのような暖かさでキブツの話をしてくれるのだった。
ツーリストインフォメーションが済むと、空港内の食堂に行った。そこでも驚きの体験をした。メニューはヘブライ語のみ。アラビア語と同じで右から左へと横書きされている。全く読めないが、じっと見ていると、なんとはなしにヘブライ文字がカタカナに見えてくる。
読めないメニューを見ていても仕方ないので、ウエイトレスにサンドイッチを頼んだ。すると別なウエイトレスがソフトクリームを持ってきた。彼女に「サンドイッチを頼んだのだけど」というと、すぐさまサンドイッチを持ってきてくれ、さらに「よかったら、このソフトクリームも食べて下さい」といって置いていってくれた。
これがイスラエルでの第一歩。驚きの連続だったし、うれしくなることの連続でもあった。「イスラエルって、きっとおもしろい国に違いない」と思わせる何かがあった。