[1973年 – 1974年]

アフリカ南部編 8 喜望峰[南アフリカ] → ウインドフック[南西アフリカ]

ケープタウンから北へ

 南アフリカのケープ州の州都、ケープタウンからは目の前にそびえ立つテーブルマウンテン(1086m)を見ながら走り、ケープ半島に入っていった。サイモンズタウンの町を通り、南緯34°21′51″の喜望峰に立った。喜望峰が初めてヨーロッパ人に発見されたのは1486年のことで、ポルトガル人のバーソロミュー・ディアスの一行だった。17世紀のなかばになってオランダはケープタウンを拠点にしてケープ植民地を建設し、本格的な移民がはじまった。彼らがボーア人で、ケープタウンから幌馬車を連ね、内陸の各地へと進出していった。喜望峰はこのように南アフリカの白人支配の歴史の第一歩になっている。

 喜望峰からケープタウンに戻ると、南西アフリカを目指し、N11(国道11号)を北へ、北へと走る。マルメスベリーの町を過ぎると交通量はぐっと少なくなり、ケープタウンから140キロ北のピケットバークの町外れで野宿した。GT550のわきにシュラフを敷いて寝る。うとうとしかけたときに、すぐ近くを夜汽車が通りすぎていく。一条の光の帯が暗闇の中を流れ、消えていった。そんな光景をシュラフから顔をのぞかせて見た。

 クランウイリアム、スプリングボックと通り、さらに北に向かって走ると、急速に緑は消え失せ、半砂漠の風景に変わった。乾ききった空気を切り裂いて走るので、口びるがカサカサになり、そして割れ、血がにじみ出るようになった。

ケープタウンからN11(国道11号)を北へ
ケープタウンからN11(国道11号)を北へ
ケープタウンからN11(国道11号)を北へ
ケープタウンからN11(国道11号)を北へ
国境のオレンジ川

 南西アフリカの国境に近づいた。それととも不安感も増してくる。

「国境はいったい、どうなっているのだろう…」

 南西アフリカ入国のビザも許可証も持ってはいなかった。

 乾ききった丘陵地帯を走り抜け、オレンジ川の河谷に入っていく。このオレンジ川が南アフリカと南西アフリカの国境になっている。

 国境に到着すると、じつに意外というか、拍子抜けしてしまった。出入国のチェックがまったくなかったからだ。南アフリカ側、南西アフリカ側には、ともに国境のイミグレーションや税関、検問所のたぐいはまったくなかった。

 オレンジ川にかかる橋の上にバイクを停めた。茶色に濁った水が流れ、川の両側だけにわずかな緑が見られる。それらをとりまく山々の茶褐色の山肌には草木一本なかった。

南西アフリカに入国

 オレンジ川を渡って南西アフリカに入る。南西アフリカはもともとはドイツ領の植民地だった。それが第一次大戦が勃発すると、南アフリカ軍は南西アフリカの全土を占領。戦後の1920年、南西アフリカは南アフリカの国際連盟の委任統治領になった。

 第二次大戦後、国際連盟は解体し、国際連合が誕生。国連は南アフリカに対して南西アフリカの国連の信託統治領への切り換えを要求した。しかし南アフリカはそれを拒否。それどころか南西アフリカを自国の一州と同じようにしてしまったのだ。

 南西アフリカ問題は、毎年、国連の議題に上がっている。1961年には南西アフリカの住民は独立の権利を有すると総会で宣言されたのにもかかわらず、南アフリカはその宣言を無視しつづけている。資源大国の南アフリカなので、国連の経済制裁もなんのそのなのである。

 1968年の国連総会では、南西アフリカを以後、「ナミビア」と呼ぶと決めたが、南アフリカで「ナミビア」の国名を聞いたことは一度もなかった。

 ローデシアの問題にしても、南アフリカの問題にしても、この南西アフリカの問題にしても、国連の無力さ、無能さをいやというほど見せつけられてしまう。

南アフリカから南西アフリカに入る。断崖の下をオレンジ川が流れている
南アフリカから南西アフリカに入る。断崖の下をオレンジ川が流れている
南西アフリカの砂漠地帯を行く
南西アフリカの砂漠地帯を行く
世界第2の大峡谷

 南西アフリカに入ると、一段と乾燥度が増してくる。緑のひとかけらも見られない砂漠地帯に突入した。大西洋岸のナミブ砂漠と内陸のカラハリ砂漠の中間に広がる砂漠地帯だ。その中を飛行場の滑走路のような舗装路が一直線に延びている。国境から160キロ走るとグルノウの町に到着。その間には町はなく、無人の砂漠が延々とつづいているだけだった。

 グルノウで首都のウインドフックに通じる幹線道路を離れ、アメリカのグランドキャニオンに次ぐ世界第2位の大峡谷といわれるフィッシュリバーキャニオンに向かう。その途中、クレインカラスという小さな町で止まり、ガソリンスタンドでGT550のタンクを満タンにし、さらに2つのポリタンにもガソリンを入れた。その日は金曜日。翌日の土曜日と日曜日は「石油危機」後の規制で、南アフリカ同様、南西アフリカでも給油できないからだ。

 まだ日は高かったが、その日はクレインカラスで泊まることにした。大西洋の港町、リューデリックに通じる鉄道がこの町を通っている。日が暮れたところで、駅前の広場でゴロ寝。風の強い日で、地面を這うように砂が流れていく。砂まみれになりながらの野宿だった。

 翌日、フィッシュリバーキャニオンへ。展望台に立ち、パックリと口をあけた大峡谷を見渡した。峡谷の深さは600メートルほど。曲がりくねって流れるフィッシュ川がはるか下の方で小さく見えている。砂漠の中を流れる川なので水量は少なかったが、いったん洪水になると、大量の水が流れ下るという。削りとられた岩山に、緑はほとんど見られなかった。

 自分一人で大峡谷を見ていると、車が1台、やってきた。キャンピングカーで、南アフリカのダーバンに住むイギリス人の若いカップル。2人は1ヵ月の休暇を利用して南アフリカと南西アフリカをまわっていた。お互いに旅の経験談を話し、「ここがよかった、あそこがよかた!」と旅の情報交換をした。我々の一致した意見は石油危機後のガソリン規制のあまりの厳しさだった。

「土曜日、日曜日が近づくと、何とも憂鬱な気分になってくる。私たちは今日、明日と、この近くのキャンプ場でキャンプする予定だ」
 と、2人は話してくれた。

フィッシュリバーキャニオンの大峡谷
フィッシュリバーキャニオンの大峡谷
モーレスさん夫妻との出会い
シーヘイムの町近くの道標
シーヘイムの町近くの道標

 イギリス人の若いカップルと別れ、フィッシュリバーキャニオンを後にする。シーヘイムで大西洋岸のリューデリックと内陸のキートマンスホープを結ぶ幹線道路に出る。そこを左へ、キートマンスホープへと向かった。空には雲ひとつない。強烈な太陽光線。バイクに乗りながら頭がクラクラしてくるほどだ。

 キートマンスホープに着くとカルテックスのガソリンスタンドで冷えたコカコーラを飲んだ。暑くて暑くてどうしようもない。のどの渇きもひどいので、1本では足りずに、2本目、3本目とコカコーラをガブ飲みした。ガソリンスタンドは土曜日、日曜日は給油部門は石油危機の影響で休みだが、ガソリンスタンド内のレストランや売店はふつうに営業していた。

 キートマンスホープからは首都ウインドフックへ。町から10キロほど走った道路沿いのレストエリアで止まった。そこにはキノコ形の屋根の下にテーブルとイスがあった。

ひと晩、野宿した道路沿いのパーキングエリア
ひと晩、野宿した道路沿いのパーキングエリア

「もう、今日はここで泊まろう」
 と決めた。なにしろバイクへの給油ができないので、走る距離を抑えるしかない。そんなときに、1台のベンツが停まり、乗っている人に話しかけられた。初老のモーレスさん夫妻だった。ぼくが日本人だとわかると、驚いたような顔をしたモーレスさん夫妻だったが、2人には日本についてあれこれと聞かれた。

「キミがこれからも元気で旅をつづけられるように祈っているよ」
 といって夫妻の乗ったベンツはキートマンスホープの町の方向に走り去っていった。

 ぼくは寝る用意をした。といってもシュラフを敷くだけだが。その上に座り込み、地平線に落ちていく夕日を眺めた。日が落ちるあっというまにあたりは暮色につつまれる。紺青の空に星が2つ、3つと輝きはじめる。西空の地平線の周辺は濃いオレンジ色に染まっている。東の地平線からは満月が昇る。その夜はまぶしいほどの月明かりだった。

 目の前の道は南アフリカ国境からキートマンスホープを通り、首都のウインドフックに通じる幹線だが、交通量はきわめて少ない。日が落ちてからはほとんど車も通ることもなく、あたりはシーンと静まり返っている。することもないので、シュラフの上に座りつづけ、ぼんやりと月明かりに照らされた荒野を眺めていた。

 遠くにポツンと車のライトが見えてくる。視界をさえぎるものが何もないので、ずいぶんと遠くからでも見える。車のライトの光はだんだん大きくなる。車が近づくと、驚いたことに止まった。車はクラクションを鳴らす。なんと車から下りてきたのは、さきほどのモーレスさん夫妻だった。

 奥さんは手に大きな紙袋を持っている。「食べてね」というと、それをテーブルに置いた。紙袋の中にはサンドイッチやコンビーフのかんづめ、ミルク、トマト、オレンジ、リンゴ、バナナ、ビスケットなどの食べ物がどっさり入っていた。

 夫妻はキートマンスホープの町に住んでいるという。家に戻ると、冷蔵庫にあるものを紙袋に詰め込んでもってきてくれたのだ。夫妻の好意に胸が熱くなる。「おやすみ」といってモーレスさん夫妻はキートマンスホープの町に戻っていった。

恐怖の日曜日

 翌日は「恐怖の日曜日」。給油できないので、どうにもこうにも動きがとれない。残っているガソリンをできるだけもたせ、ゆっくりと走る以外に方法はない。夜が明けてもシュラフにもぐり込んでいる。日が昇り、日が高くなったところで、やっと起き上がった。

 朝食を食べてからの出発だ。風が強い。気温がみるみるうちに上昇していく。ウインドフックに向かって北上するにつれて、すこしづつだが緑が増えていく。ヒツジやヤギ、牛を放牧している大牧場を見るようになる。

 キートマンスホープから240キロ北のマリエンタールまでは5時間以上もかかった。ガソリンをなるべく使わないようにと、時速50キロぐらいで走ったからだ。高速道路のような道を時速50キロぐらいで走るのは、なんとも辛いことだった。

 マリエンタールに着くと、時間つぶしにガソリンスタンド内のレストランでコーヒーを飲んだ。客はほとんどいない。給油できないのだから、当然のことなのだが。コーヒーを飲みながら、ひまそうにしている店の主人と話した。

「ナマ族と日本人は似ているね」という店の主人の言葉が興味深かった。ナマ族はキートマンスホープからマリエンタールにかけての一帯に住んでいる。人口は約3万3000人。彼らの肌の色は明るい茶色で、なるほどそういわれてみると、日本人に似ている。

 バイクのタンクの中に残っているガソリンの量から、「まだ、行ける」と判断し、マリエンタールからさらに北に向かった。首都のウインドフックに通じる幹線道路を左に折れると、フィッシュ川をせき止めたハーダップダムに行ってみた。かなり大きなダムで、湖は空の色を映して目のさめるような青さ。この一帯はレクリエーションセンターになっていて、レストハウスやレストラン、キャラバンパークなどがあった。

 ハーダップダムとその周辺でしばらく時間をつぶし、幹線道路に戻る。その夜は道路沿いで野宿。翌朝、マリエンタールから70キロ北のカルクランドで給油し、やっと「恐怖の日曜日」が終わった。

フィッシュ川のハーダップダム
フィッシュ川のハーダップダム
ウインドフック遠望!

 首都のウインドフックを目指し、北へ、北へと走る。GT550のアクセルを目一杯に開く。前日の時速50キロ前後で走った反動だ。

 南西アフリカも南アフリカと同様、石油危機後の速度規制で最高速度は時速80キロに制限されていた。しかし80キロを守る車は1台もない。どの車も100キロ以上、なかには150キロ以上で走る車もあった。

 交通量が少なく、道がよく、おまけに平坦なのでどんなにスピードを出しても、それほど速いという実感はない。信号もないので時速100キロで走れば、1時間後には100キロ先に着いているといった世界なのである。

 南回帰線を越え、首都のウインドフックに近づくと、緑がぐっと増えてくる。アウアス山地に入った。なだらかアップ&ダウンが連続する。アウアス山地を抜け出ると、目の前には牧草地帯が広がり、その向こうの小高い山々の麓一帯には南西アフリカの首都、ウインドフックの白っぽい町並みが望まれた。

南回帰線を越える
南回帰線を越える
ウインドフックへ。一直線の道を走る
ウインドフックへ。一直線の道を走る
前方にウインドフックの町並みが見えてきた
前方にウインドフックの町並みが見えてきた
高原の首都

 南西アフリカの首都、ウインドフックに到着。南西アフリカの面積は日本の2倍以上の82万平方キロ。しかし人口はわずか75万人(1971年)でしかない。世界でも最も人口密度の希薄な国のひとつになっている。

 首都のウインドフックはアウアス山地とエロス山地の間に横たわる標高1779メートルの高原の都市。人口6万人。中心街のカイザー通りに面して近代的なビルが建ち並んでいる。

 ここではカイザー通りにあるバルスワモータースを訪ねた。南アフリカのスズキの総代理店のアクレスさんが「ぜひとも立ち寄ってほしい」といって紹介状を書いてくれたところだ。バルワスモータースは大きな会社で、いくつかの部門に分かれているが、そのうちのひとつがスズキのバイクを扱う部門だった。

 バルワスモータースでは応接室に通された。真っ白なカバーのかかったソファーに座るのは気が引けた。なにしろバイクに乗りっぱなしなので、全身ほこりまみれ、泥まみれといった格好だったからだ。バルワスモータースのみなさんはそんなことはすこしも気にしないといった顔をしている。ありがたたいことに、そのあとレストランでフルコースの昼食をいただいた。食後のコーヒーを飲みながら、会社のみなさんと話した。

「午後、すこし時間をとってもらえますか」
 といわれ、気軽に「イエス」と答えておいた。

 すると驚いたことに、次々と新聞の取材を受けた。南西アフリカには英語、アフリカーンス、ドイツ語の3紙の新聞があって、なんとその3紙、すべての記者とカメラマンが取材に来たという。バイクで南西アフリカにやってきた日本人がよっぽど珍しかったのだ。このことによってぼくは、日本と南西アフリカの「遠さ」を強烈に実感した。