[1973年 – 1974年]
アフリカ南部編 4 アンバラバオ[マダガスカル] → タナナリブ[マダガスカル]
ラッショランドル神父の話
マダガスカル島南部のアンバラバオから1日かけたヒッチハイクで夕方、フィアナランツォアまで戻った。ひと晩、泊めてもらおうと教会に行くと、マダガスカル人のラッショランドル神父が「家に来なさい!」といって、教会近くの彼の家に連れていってくれた。夕食をいただいたあと、神父にはいろいろな話を聞いた。神父はアメリカのミネアポリスの大学に2年間、留学したとのことで英語を上手に話す。ミネアポリスの大学では日本人留学生の友人がいたという。
神父の話によると、マダガスカルでのキリスト教の布教は容易ではないという。人々は伝統的な部族の神々を信じているので、なかなかキリスト教には改宗しない。カソリック、プロテスタント合わせてキリスト教徒は全人口の3割ほどだという。
マダガスカル人は全部で20くらいの部族に分かれるという。最も人口が多いのは首都のタナナリブを中心にして住むメリナ族。人口の3割程度を占め、マダガスカルの政治、経済を牛耳っている。次に多いのはベッチミサラカ族で、タマタブを中心にして東海岸に住んでいる。そのほかフィアナランツォアを中心にして住むベッチレウ族、北部に住むチミヘチ族、南部に住むアンタンドルイ族などがマダガスカルの大部族だという。
また神父はマダガスカルの歴史についても話してくれた。その中でも、中世から近世にかけての王国が群雄割拠する時代の話がおもしろかった。マダガスカルで最初に王国を作ったのは中央高地のメリナ王国と西部のサカラバ王国だという。その後、幾多の王国の興亡があり、19世紀になってメリナ王国がマダガスカルを統一した。
しかし、安定した時代は長くつづかず、領土欲に燃えるフランスやイギリスの執拗なまでの侵攻に、ついに1897年、メリナ王国は滅んでしまう。20世紀に入ると、フランスがマダガスカルを支配し、それは1960年までつづく。
神父が話すそばで、奥さんは2度、3度と紅茶を入れてくれた。神父はじつに博識で、話し方もうまい。聞いていてすこしも飽きなかった。そして気がつくと、時間は12時を過ぎていた。
タナナリブに戻ってきた…
翌朝、神父の家で朝食をいただき、北へ、タナナリブを目指す。熱もすっかり下がり、体はかなり楽になっていた。ただ、ノミにやられたところが目茶苦茶にかゆい。フランス人の老人の車でインド洋岸のマナンジャリーに通じる道との分岐点まで乗せてもらう。そこからさらに北に歩いていくと、川に出た。洗濯も風呂もすっかりごぶさたなので、つかのまの青空にこれ幸いとばかりに川で体を洗い、着ているものも川で洗った。
洋服が乾いたところでヒッチハイクを再開。ラッキーなことに、ほとんど待たずにアンチラベまで行くプジョーの小型トラックに乗せてもらった。ラザフィンツァラマさんとラツィンバザフィさんの2人。マダガスカルでは地名も難しいが、人名も難しい。
夕方、アンボシトラに到着。2人はこの町に友人がいるといって、町外れにあるその友人の家に行った。そのまま友人の家に泊めてもらった。珍しい客がきているといって、近所の人たちが大勢、集まってきた。だが、マダガスカル人には日本人と同じような遠慮するところがあって、集まってきた人たちにおくゆかしさのようなものを感じた。
翌日は夜明けとともに出発。昼前にはアンチラベに着いた。そこでラザフィンツァラマさんとラツィンバザフィさんの2人と別れたが、2人は「食事代にしなさい」といってお金を紙につつみ、ぼくのポケットにねじ込むのだ。最初は断ったが、2人の好意をありがたく受け取ることにした。ほんとうにありがとう!
アンチラベからタナナリブまではかなり交通量が多いのにもかかわらず、なかなかヒッチハイクは成功しない。1時間ほど待ってやっとタナナリブまで行く車に乗せてもらった。タナナリブに着いたときは、ホッと救われるような気分。それにしても辛いマダガスカルのヒッチハイク第1弾だった。
クリスマスイブの夜
タナナリブに戻ってきたのは1973年のクリスマスイブ。市場はこの前とはうってかわってクリスマス一色。七面鳥、あひる、にわとりが売られ、買い物客でごったがえしていた。タナナリブの市場はほんとうにおもしろい。にぎやかで大きく、飾ったところがまったくない。マダガスカル人の生活そのものという感じがよく出ている。ここではアジアの匂いをかげるし、南米の匂いもかげるし、もちろんアフリカの匂いもする。それはまさしくマダガスカル特有のもので、ほかの国では見られないものだった。
市場めぐりをし、町を歩きまわったところで、タナナリブ駅に行った。マダガスカルのヒッチハイク2弾目、東部編の開始だ。東海岸の港町、タマタブまで行こうと思った。そこでタマタブ行きの列車でタナナリブ郊外のマンジャカンドリアナの町まで行き、そこからヒッチハイクを開始しようと思った。ところがタマタブ行きの列車は出発したばかりで、次の列車というと翌日まで待たなくてはならない。
「仕方ない、それではマジュンガに先に行こう」と決め、タナナリブの北西600キロのモザンビーク海峡に面したマジュンガの町に向かうことにした。駅近くの十字路からマジュンガに通じる道を歩いていく。日はとっぷりと暮れ、すでにタナナリブの町は夜のとばりにつつまれていた。どの家からも明かりがもれている。クリスマスソングも流れてくる。楽しそうな家族の団欒が伝わってくる。
「みんな、帰る家があるのに…」
そう思うと、あてどもなくさまよい歩いている自分が無性に寂しく、やりきれなくなってくる。
足が重かった。おまけに、またしても雨期のマダガスカルの洗礼を受ける。雨が降りだした。あっというまに土砂降りになり、あわててビルの軒下に駆け込み、雨宿りをする。小降りになったところで、あちこちに水溜まりのできた道を歩く。通りすぎていく車に水をはねあげられる。疲れた…。どこでもいいから体を横にしたかった。
道のわきでタクシーの運転手がパンク修理していた。ところがこの運転手、ジャッキを持っていない。彼はウーンと唸り声をあげて車を持ち上げ、スペアのタイヤをはめ込もうとしているのだが、うまくいかない。見るに見かねて手を貸した。すると運転手はすごく喜び、タナナリブの町外れまで乗せていってくれるという。
タクシーは夜のタナナリブの町を走り抜け、イバト国際空港への道との分岐点を過ぎ、しばらく走ったところで停まった。このあたりまでくると、もうほとんど町明かりは見られない。ぼくはタクシーの運転手にお礼をいって車を降り、マジュンガへの道を歩きはじめた。うれしいことに雨はやんでいた。
空港での賭
夜道を歩きつづけ、道端に建てかけの家をみつけ、そこで寝た。キーンという鋭い金属音で目が覚める。近くのイバト国際空港から飛び立ったジェット機の音だった。そのときぼくはギュッと胸をつかまれるような思いがし、「(一刻も早く)ヨハネスバーグに飛びたい!」と、いたたまれない気持ちになった。
マダガスカルでのヒッチハイクが難しいということもあったし、早くバイクに乗りたいという気持ちも多分にあった。ヨハネスバーグを拠点にしての「南部アフリカ一周」は、バイクでまわる予定にしていたからだ。
タナナリブからヨハネスバーグへの便は南アフリカ航空とマダガスカル航空を合わせて週2便ある。ぼくは賭をする気になった。
「明日、イバト空港まで歩いていこう。もし、ヨハネスバーグへの便があって、もし席がとれたらヨハネスバーグに飛ぼう」
と決めた。
翌朝は夜明けとともに飛び起き、10キロほどの道のりを駆け足するようにして歩き、イバト空港に急いだ。空港に到着。すぐに出発便を見る。すると、あった。19時55分発のSA(南アフリカ航空)191便のヨハネスバーグ行きがあった。この便の席もとれた。この時点で北のマジュンガ行きと、東のタマタブ行きは諦めることにした。
空港に着いたのは8時過ぎ。出発まで12時間近くもあるので時間をもてあました。空港というのは、あたりまえのことだが、町から離れたところにある。そのため町をプラプラ歩いて時間をつぶすということもできない。なんとも時間のつぶしにくいところが空港なのだ。
とうとう我慢できずに、近くの小さな町まで歩いていった。その町では食堂をみつけ、中に入った。店の主人が東洋人なので、ちょっとびっくり。一瞬、日本人かと思ったほどだ。その店の主人はベトナム人。第2次大戦前にマダガスカルに渡り、マダガスカル人の女性と結婚し、そのまま住みついたという。
ぼくはすこし贅沢をすることにした。マジュンガとタマタブに行くつもりにしていたので、まだ、けっこうなお金が残っている。数えてみると、3000マダガスカルフラン(約3600円)も残っていた。それを全部、使うことにした。出国時の空港税の1500マダガスカルフランを残し、残りの1500マダガスカルフランをその店で使うことにした。ベトナム料理を注文し、ビールを飲んだ。久しぶりのビールなので、キューッと五臓六腑にしみわたった。
いい気分になってまた歩き、空港に戻った。目に入るもの、すべてがバラ色に見えた。こうして19時55分発のSA191便に乗り込んだ。飛行機がイバト国際空港を離陸するときは、「今度はバイクでマダガスカルを縦横無尽に駆けてやる!」と、心の中で叫ぶのだった。