[1973年 – 1974年]
アフリカ南部編 3 サン・デニ[レユニオン] → アンバラバオ[マダガスカル]
世界の大島、マダガスカル島
ユランス領レユニオン島サン・デニのジロ国際空港から19時10分発のAF(エールフランス)496便でマダガスカルに飛んだ。飛行機は西日を追うようにして飛び、じきにマダガスカル島の長々とつづく海岸線が見えてくる。空から見たマダガスカルの第1印象は「島」ではなく「大陸」だ。飛行機でマラッカ海峡を越え、スマトラ島を見たときと同じように、マダガスカルの大きさは大陸を思わせるものだった。マダガスカルはグリーンランド、ニューギニア、ボルネオに次ぐ世界第4位の大島。面積は59万平方キロで、日本全土にさらに本州を足したぐらいの大きさになる。
飛行機が首都のタナナリブのイバト国際空港に着陸したのは18時30分。一瞬、きつねにつままれたような気がした。というのはサン・デニのジロ国際空港を飛び立ったのが19時10分だったからだ。これは時差からくるもので、レユニオンとマダガスカルの間には2時間の時差があり、実際の飛行時間は1時間20分だった。
空港の税関の検査は厳しかった。ぼくはザックひとつで見るからに貧乏旅行者風情なので簡単に済んだが、かわいそうなのは大きなトランクを持った人たち。トランクをひっかきまわされ、底の方まで徹底的に調べられていた。さらに厳しいのは外貨の申告。普通は申告用紙だけで済むのが、ここでは1人1人の持っている外貨を税関の係官が慎重に数えた。そして申告した数字と係官の数えた額が合わないと、目をむいて怒り、申告用紙の書き直しを命じていた。外貨の乏しいマダガスカル。懸命になって自国通貨の価値の維持に努めている姿をそこに見た。「絶対にブラックマーケット(闇レート)での両替は許さないぞ」という脅しの声が聞こえてくるようだった。
やっと入国手続きが終わり、空港の外に出る。マダガスカルは期待を抱かせる国。「アフリカであってアフリカではない島」といったイメージがあったからだ。それだけに、マダガスカルの大地に降り立ち、自由に歩けてうれしさひとしおである。
マダガスカルは人口830万人。首都はタナナリブ。南緯12度から26度と熱帯圏から温帯圏にまたがっている。東経43度から50度に位置している。南北1580キロ、東西580キロのずんぐりした形で、台湾を逆にした形に似ている。
マダガスカル島を一周する道はない。幹線道路は首都タナナリブから放射状に延びているだけである。マダガスカル島はヒッチハイクでまわるつもりにしていた。地図を見て立てた計画では、最初はタナナリブから南のモザンビーク海峡に面したテュレアルへ。その間は970キロ。次はタナナリブから北のマジュンガへ。その間は608キロ。最後は東のタマタブへ。その間は356キロ。タマタブはマダガスカル最大の港だ。
20歳の女性、ウラリとの出会い
「さー、マダガスカルの旅の始まりだ!」
空港からタナナリブの市内に向かって歩きはじめた。その途中、どこか適当なところで野宿しようと思った。ところが空港の敷地をまだ出ないうちに、信じられないことが起きた。旅していると、こういうこともあるのだ。
タクシーが停まり、車内から若い女性が降りてきた。
「日本人ですか?」
と、彼女は聞く。
ぼくがそうだと答えると、一緒に乗っていきませんかというではないか。
ありがたく乗せてもらった。
彼女はウラリ。まだ少女のあどけなさを残す20歳のウラリには、どことなく東洋的な雰囲気が漂っていた。
「マダガスカル人はインドネシア人に似ているというけど、ほんとうにそうだな」
マダガスカルに着いた早々、マダガスカルとインドネシアが似ていることを実感した。
タクシーの運転手も女性で、ウラリのお母さん。タナナリブでは最初の女性のタクシードライバーだという。タナナリブ市内に入るとウラリはどこに行きたいのか聞いた。どこでもいいというと、ウラリは泊まるところがないのなら、「家に来ない?」という。
その夜はウラリの家で泊めてもらった。
夕食をご馳走になり、食後は彼女のお父さん、お母さん、弟をまじえて話した。とはいっても一家が話すのはマダガスカル語とフランス語で、ぼくはカタコトのフランス語。それでも、なんとなく分かり合った気になった。
そのあとウラリの部屋でカタコトの日本語を教えた。彼女は日本語を少し話せる。日本人に教えてもらったのだという。彼女は日本に対して、日本人に対してすごくいい印象を持っていた。そのため、空港でぼくを見かけると、声をかけてくれたのだ。若い女の子らしいウラリの部屋で過ごした1時間ほどは、なんとも楽しひと時だった。
翌朝は朝食のあと、お母さんのタクシーでタナナリブの中心街まで乗せてもらった。ウラリも一緒だった。ウラリとは握手をして別れたが、彼女の澄みきった目がいつまでも心に残った。見ず知らずの貧乏旅行者に、これほどまで親切にしてもらって、ウラリの一家にはお礼の言葉もないほどだった。
山間の水田地帯を行く
タナナリブの町を歩き、市場を歩く。にぎやかな市場は露店でぎっしり埋まっている。大きな白い傘の下では、野菜類や果物が売られている。帽子をかぶり、白い布を肩からかけている人を多く見る。南米のインディオの市場を連想させた。市場の食堂で昼食。ここではご飯が食べられる。昼食のご飯を食べながら、またしてもアジアに戻ってきたような錯覚にとらわれた。
タナナリブからは列車で70キロ南のアンバトランピーまで行った。そこからヒッチハイクをはじめるつもりだ。アンバトランピーに着いたのは夜になってからで、町の広場で寝た。だが夜中に雨…。眠い目をこすりながら屋根を探す。物置らしきものをみつけ、その中にもぐり込んで寝た。
翌朝はアンバトランピーから南に向かって歩く。風景は山がちになり、谷間には水田が多く見られた。山の斜面も耕され、棚田になっていた。すでに雨期が始まり、あちこちで村人総出での田植えが見られた。そんな光景はどう見てもアジアで、アフリカではなかった。マダガスカル中央部の高原地帯の主食は米で、農民の8割近くが米作専業というのだから驚かされてしまう。
タナナリブの空港に降りたってからというもの、ぼくはたえず「マダガスカルはなんてインドネシアに似ているのだろう」と感じつづけてきた。マダガスカル島は標高1000メートル前後の平坦な中央部の高原地帯と、幅の狭い平野が南北に延びる東部の海岸地帯、それと幅の広い平野が南北に延びる西部の海岸地帯と3つの地域に分けられる。これら3地域のうち、中央部の高原地帯はアジア的な色彩のきわめて強いところだった。
マダガスカル人の起源ははっきりしていないが、起源前3000年にはすでにこの地に住んでいたという。マダガスカルと東南アジアの類似点は多く、マダガスカル語はマレー語と同じ系統の言葉だといわれている。マダガスカルへの最初の移住者はインドネシアのスマトラ島やジャワ島の住民だともいわれている。赤道反流の流れに乗って、冬の季節風を利用してインド洋を渡ったのではないかというのだ。
想像を絶した民族の大移動。彼らはどうして何千キロも離れたマダガスカル島の存在を知っていたのだろうか。イカダを組んで渡ったのか、それともくり舟に帆をつけて渡ったのか。それはともかく、すばらしい能力を持った海洋民族であったことだけは間違いない。
若いフランス人カップル
マダガスカル島でのヒッチハイクは楽ではなかった。交通量は少ないし、おまけに通る車はほとんどが乗合いタクシーや小型バス。たまに自家用車が停まっても、お金を要求される。それでもアンバトランピーから3台の車に乗せてもらい、100キロ南のアンチラベに着いた。タナナリブからの鉄道はここまで通じている。アンチラベでも市場を歩いたが、タナナリブと同じような大きな市場だった。
アンチラベからさらに南へ。アンボシトラに向かって歩く。なかなか車に乗せてもらえないので、歩く時間が長くなる。ゆるやかに起伏する高原の風景。やっとの思いでアンボシトラに到着。そこからはフランス人の若いカップルのシトローエンに乗せてもらった。超オンボロの車。車のあちこちからガタガタ、不気味な音が聞こえてくる。ドアも外れそうになるので、手でおさえていなくてはならなかった。
彼らはフランス政府から派遣されたフランス版平和部隊「コープ」のメンバー。日本でいえば青年海外協力隊だ。男性は空軍の軍人で学校でフランス語を教え、女性は学生たちに保健、衛生を教えているという。2人はクリスマス休暇で北のマジュンガからここまで800キロを走ってきた。途中では何度も車の修理をしたとのことで、さらに150キロ南のフィアナランツォアまで行くところだった。
フィアナランツォアに着いたときは夜になっていた。この町には彼らの友人がいて、我々3人はそこで泊めてもらった。夕食をいただいたあと、4人で夜の町をブラブラ歩いた。
ついにヒッチ断念…
翌朝、フランス人平和部隊のみなさんに別れを告げ、さらに南へと歩く。いやな天気でどんよりとした雲がたれこめている。そのうちに雨が降りだした。フィアナランツォアを過ぎると、さらに交通量は減り、ヒッチハイクはいよいよ難しいものになる。昼すぎになってもまだ車に乗せてもらえずに歩きつづけた。
小さな村に着くとバナナを買って食べ、空腹をしのぎ、しばらく雨宿りさせてもらった。すこし元気が出たところで、雨の中をふたたび歩く。フィアナランツォアから20キロほど歩いただろうか、やっと車に乗せてもらえた。その車は50キロほど南のアンバラバオまで行く車だった。
アンバラバオに着いたときはグッタリしていた。
疲れと、雨に濡れたせいなのだろうか、体がだるくて仕方ない。雨は激しさを増し、町の大通りには水があふれていた。食堂で粥を食べ、近くの教会に行く。
「泊めて下さい」
と頼むと、屋根裏部屋を貸してくれた。ありがたい。どうしようもなく眠いのに、なかなか寝つけない。熱があった。おまけにノミにやられ、体中をボリボリとかきむしった。辛い夜だった。
翌日は最悪。熱のために足がふらつき、頭がガンガン痛む。アンバラバオを過ぎると、交通量が少ないなどというものではなく、ほとんど通る車もなくなった。アップダウンの激しい丘陵地帯の道を南に歩いていく。
朝のうちこそ雨は上がっていたが、昼に近づくと、灰色の空からは無情にも雨粒が落ちてくる。雨足はあっというまに激しくなり、やがてバケツをひっくりかえしたような土砂降りになる。道端の木の下で体を縮め、雨宿り。もう、絶望的な気分だ。
「どんなことをしても、モザンビーク海峡に面したテュレアルまでは行くんだ」
という張りつめた気持ちは薄れ、マダガスカルでのヒッチは無理だ…と弱気になった。
夕方、アンバラバオに向かう乗合いタクシーが通った。ぼくは無意識のうちのそのタクシーを止めていた。タクシーに乗り込むと、苦労して歩いてきた道をあっというまに走り過ぎ、1時間もかからずにアンバラバオに着いた。そして「タナナリブに戻ろう」と決めた。
残念だが仕方ない。交通費にも宿泊費にも金を使わず、ギリギリの所持金で世界を旅しようとしている自分の限界を思い知らされた。
「乾期だったらなあ」
雨期のヒッチハイクはきつい。
マダガスカルの中央高地は11月から4月までが雨期で、1年の大半の雨はこの期間に降る。
アンバラバオに戻ると、市場のわきにある飯屋で粥を食べる。前の晩にも来ているので店のおばちゃんとは顔なじみ。粥を3杯食べ、さらに店のおばちゃんの笑顔を見ると、気分がスーッと楽になった。昨夜の教会で泊めてもらい、翌日はタナナリブを目指した。